新しい生活
ユアンは、フィーネが落ち着くまで自分の家に滞在するよう勧めた。豪華な屋敷を思い浮かべたフィーネは、出迎える人々に何と言われるか想像して気が重くなったが、その必要はなかった。
彼が連れてきたのは、鬱蒼とした木々に隠されるようにしてぽつんと建つ一軒家で、長い間放置されていたのがわかるほど庭の草木は伸び放題だった。
ユアンが幼い頃に叔父のマクシェイン氏と過ごした家だそうだ。
「親戚での扱いにみかねた叔父が、自宅に引き取ってくれたんです。その後無理矢理親戚に連れ戻されても、叔父が仕事で向こうへ行ってしまっても、何かと理由をつけて、俺はこの家へ避難していましたね」
淡々とした口調だったが、その横顔はどこか昔を懐かしむようで、彼にとって大切な場所なのだろうと思った。
ユアンの生まれ育った国は、彼が言っていていた通り、フィーネの住んでいた国とさほど変わらなかった。魔法使いがいるという噂も、ただの噂なのだと思うくらい、フィーネは何も見聞きする機会がない。
それとも自分がまだ知らないだけだろうか。
「おや、フィーネ。おはようございます。今日はずいぶんと早いですね」
「……あなたが早すぎるんです」
子羊のブランケット、ベーコン、オムレツ、ポーチドエッグトーストなど……テーブルにずらりと並べられた朝食を見て、フィーネはため息をついた。
ユアンは真面目な人だった。朝は誰にも起こされず決まった時間に起きる。それはフィーネよりも早く、屋敷で働いていた使用人たちが起き出す時間よりほんの少し遅いくらい。
新聞や手紙も自分で受け取り、朝食も用意する。それも簡単なものではなく、ニコラスの屋敷で食べていたものと同じくらいか、それ以上に手の込んだものでフィーネは度肝を抜かれた。
申し訳なくてフィーネは自分で用意すると言っても、彼は譲らなかった。
「それにあなた、料理なんてしたことないでしょう」
「覚えます」
爽やかな微笑みにカチンときて、フィーネはそうユアンに宣言した。彼は腹が立つほど教え方が上手かった。
今では朝食がユアン、昼はフィーネで、夕食は二人でと分担が決まっている。もちろん忙しい時や手が空いている時は簡単なもので済ませるか、お互いに協力して作った。
それからフィーネはユアンの紹介で、週に何日か家庭教師の仕事をしている。
ユアンは別に働かなくてもいいと言ったが、フィーネは断った。十分すぎるほど世話になり、これ以上迷惑をかけたくなかったこともあるが、何より働いていた方が、気が紛れるからだ。
何も考える必要のない時間が、何かを思い出してしまいそうで、彼女は必死に知らない振りをした。
働いた経験などそれまでなかったフィーネにとって、家庭教師という誰かに教える仕事はもちろん大変で、一筋縄ではいかなかった。いかに自分がこれまで世間知らずだったか、身をもって思い知らされた。
それでも、逃げ出したいとは思わなかった。
前へ進まなければ、という思いがただフィーネを突き動かす。
ユアンはそんなフィーネに何も言わなかった。ただ彼女がふと孤独や寂しさを感じた時には、いつの間にか隣に腰を下ろして、どうでもいい話をしてくれる。明日の献立や隣近所の話。
決定的なことは何も言わないし、尋ねようともしない。
たまに一緒に街に出掛けて、店の中を覗くこともあった。これが必要、あれがもうないと、二人で話しながら買い物を済ませて、もと来た道を並んで帰る。
買い物袋をお互いに抱え、ユアンが帰りにお茶して行こうと喫茶店に立ち寄っていく日もあった。彼は相変わらず甘党で、ケーキをいくつも注文して、フィーネはコーヒー一杯でお腹いっぱいになった。
仕事で出かけたユアンを、傘を持って迎えに行った日もたまにあって、危ないからと自然と手を繋がれ、そのまま家まで帰っていく日も一度きりではなかった。
何でもない当たり前の日常が、フィーネには夢を見ているようで、不思議な心地だった。
「ユアン。こんなところで寝ていたら風邪ひきますよ。寝るならベッドで寝て下さい」
ソファでうたた寝をしていたユアンの体をフィーネは揺さぶった。このところ遅くまで仕事をしていたせいだろう。本が乱雑に重ねてあり、原稿用紙が何枚も床に散らばっていた。彼にしては珍しいことだった。
フィーネは乱暴に彼のブランケットを取り上げると、身体を軽くゆすった。それでも起きないと、いい加減にしろと頭を叩いてやった。
「フィーネ……もう少し、優しく起こして下さい」
ユアンは目を細め、ようやく目を覚ました。
「休むなら、自分の部屋に行って寝て下さい」
「フィーネも、一緒に寝ますか」
「寝ません」
それは残念です、とユアンは起き上がってテーブルの上のマグカップに手を伸ばした。
それを横目で見ながらフィーネはこっそりとため息をついた。
何も知らない人間からすれば、自分たちは新婚夫婦のように見えたことだろう。実際は夫婦でも恋人同士でもなく、同居人、のような微妙な関係だったが。
他人の目を気にしない二人だけの生活は、不便なこともあったが、フィーネにとっては、肩の荷が下りたような、気楽な生活だった。広大な領地も屋敷も、大勢の使用人たちと暮らす生活も、今思うと、何もかも自分には荷が重すぎたのだろう。
フィーネは最初、ユアンがレティシアと共に自分を騙していた贖罪から、あれこれと世話を焼いてくれるのかと思っていた。
「あなたは俺がそんなできた人間に見えるんですか」
まだ寝起きで頭が回らないのか、どこか気怠い雰囲気を纏いながら、ユアンがフィーネに聞いた。彼女はもちろん彼がそんな立派な人格者だと思っていない。むしろ後で膨大な利息とともに支払いを要求すると言われた方が、よほど現実味があった。
「あなたが日頃俺をどう思っているか、よくわかりました」
「だって、他に思いつかないんです」
椅子に腰掛けているユアンを、フィーネは困ったようにソファから見上げた。彼はテーブルの上に置いてあった新聞や手紙を確認していたが、彼女の視線に気づき、口元を緩めた。
「あるじゃありませんか。とっておきの理由が」
「……私にとっては、そちらの理由の方が信じられません」
フィーネは琥珀色の瞳を直視できず、俯いた。
彼が親戚と縁を切るかたちで自分と一緒にいることが彼女の心には重くのしかかっていた。
「私は、あなたに想ってもらえるような人間ではありません」
酷いですね、とユアンが立ち上がってフィーネの真正面までやって来た。顎をそっと持ち上げ、彼女の全てを見透かそうとする。見ないでくれ、とフィーネは目を逸らしたくなった。
哀しみも、醜い感情も、誰にも見られたくない。
ユアンがふっと微笑んだ気がした。
「馬鹿ですね、あなたは」
フィーネは精いっぱいの反抗として、ユアンを睨みつけた。だが彼からすれば、そんなのは子猫が威嚇するような可愛いものだった。
「ニコラスのことが、まだ、忘れられないんですか」
そうすると彼女がとたんに怯むのを、ユアンはもう知っていた。
フィーネも、自分が次にどう答えるか、わかっていた。
「ええ、忘れることなんて、できません」
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