別れ


 フィーネはユアンの生まれ育った国へ、療養するという理由で行くことに決めた。


 本当のところ、ニコラスのいる国にはもういられなかった。何かのはずみで彼に会ってしまえば、いいや、彼の名を聞くだけで自分がどうなってしまうか、フィーネには想像がつかず、ただ恐ろしく感じたのだ。


 他に行くあてもなかったこともある。何の後ろ立てもない今、フィーネが頼れるのはユアンだけだった。


 ユアンはフィーネが辛いだろうからと、その後のニコラスとのやり取りは全て引き受けてくれた。さらに向こうで生活することも全て自分に任せて欲しいと言い、金の心配もしなくてよいとフィーネの心配事を全て片づけてくれた。


 フィーネはそこまでしてもらう義理はないと最初断ったが、ユアンは譲らなかった。


「今まで騙していたお詫びです。あなたはご自分の荷物だけ準備して下されば結構です」


 そう言われてしまえば、フィーネはもう何も言えない。それに正直に言えば、もう何もかもすべて誰かに任せてしまいたかった。ニコラスとの会話で、フィーネは自分のすべてを出し尽してしまい、物事を正常に判断できる精神状態ではとてもなかった。


 ユアンはそんなフィーネの心境も全て見抜いた上で、提案してくれたのだろう。

 何から何まで至れり尽くせりだったが、一つだけ気がかりだったのが、フィーネの家族や使用人たちのことだった。


 フィーネの家族は、ニコラスからの援助をあてにして今まで贅沢な生活を送ってきた。だがニコラスとの婚約が無かったことになり、彼からの援助はもう望めない。これから彼らがどのような生活を送っていくのか想像すると、フィーネはやはり放ってはおけなかった。


 両親や成人した兄たちはいい。だがまだ幼い弟や妹は、やはり可哀想だった。金のためなら容赦なく我が子を手放す両親たちだ。もし彼らが自分のような運命をたどるかと思えば……何もしないで向こうへ行くことは、フィーネにはできなかった。


 けれどユアンはそんなフィーネの悩みを嘲笑した。


「自分の安寧のために、娘を見ず知らずの男に売り渡した薄情な家族のことを心配なさるなんて、あなたは根っからのお人好しなんですね」


 それでも彼は、慎ましく生活していけば十分に生きていくことができる金額の小切手を、フィーネの両親に渡してくれた。すっかり贅沢な暮らしに慣れてしまった父親は金遣いが荒く、この小切手も予想よりずっと早く使い込んでしまうだろう。せめて弟たちが成人するまでは持ってほしい、とフィーネは思った。


 ニコラスを捨て、ユアンを選ぶフィーネを父親はふしだらな娘だと怒り、二度と帰ってくるなと勘当を言い渡した。ただユアンが手渡した小切手だけはしっかりと受け取ったことが、彼らの今後の行く末を物語っているようでフィーネには悲しかった。


 ユアンはどこまでも丁寧な態度で接していたが、フィーネの父親を見るその目にははっきりと蔑みが込められていることに、彼女は気づいていた。


 ニコラスとの婚約解消、向こうに渡るための手続きと、慌ただしい日々が続いたが、フィーネはどこか夢を見ているような心持ちだった。自分が生まれ育った国と別れることになるというのに、ちっとも実感がわかなかった。


 出航の日は、あっという間だった。その間、フィーネは結局一度もニコラスに会うことはなかった。フィーネの最後の言葉を、彼も受け入れてくれたのだろう。あるいは呆れ果て、自分の顔などもう二度と見たくないと思っているのかもしれない。


「フィーネ!」


 だから、その声が聞こえた時も、最初幻覚か何かだろうかと思った。


「フィーネ!」


 フィーネははっとした。これまで何度も何度も聞いた声だ。聞き間違えるはずがない。


 我慢できず振り返れば、大勢の見送る人々の中に、ニコラスの顔を見つけた。彼は必死に自分を探そうと、人混みをかき分けて叫んでいた。探し出そうとしていた。


「フィーネ!」


 他にも多くの者がいたというのに、フィーネにはその声が、はっきりと聞こえた。目を見開き、行かないでくれと懇願するようなニコラスの表情を、フィーネは息をするのも忘れて見ていた。


 彼の悲痛な表情に、ぐらぐらと頭が痛み、おのずと涙があふれてくる。


 港まで、彼は足を運んでやってきたのだ。フィーネに会うために。


(どうして……)


 最後に一目、自分の姿を見るためだろうか。

 それとも別れを告げるためだろうか。

 今まですまなかったと、謝るためだろうか。


 もう一度そばにいて欲しいと、行かないでくれと、フィーネに伝えるためかもしれない。


 そんな夢みたいな可能性がいくつも頭の中に思い浮かび、フィーネは自分を嗤った。


 未練がましく自分の名を呼ぶ姿を見れば、きっと胸がすくと思っていた。


 だが、そんなことはなかった。むしろ全身が引き裂かれたようにフィーネの心は苦しくなる。

 ニコラスはフィーネにとって、もはや半身の一部だ。彼を失うことは、自分の身体の一部を失ったのと同じことだった。


(ニコラスさま……ニコラスさま!)


 自分はここにいると、大声で叫びたい。彼の元へ駆け寄り、強く抱きしめて欲しい。ずっとそばにいたいと、心から伝えたい。そうだ。今すぐにでも――


「フィーネ、大丈夫ですか」


 震えるフィーネの肩を、ユアンが後ろから支えるように抱き寄せた。その温もりにフィーネははっと我に返る。自分が何を考えていたのか、フィーネは自身の情けなさに目を瞑った。


(何のために、私は彼に別れを告げたの……)


 しっかりしなさいと自分を叱咤する。今さら引き返すことはできないのだと。


 ニコラスとの別れを思い出したフィーネは、もう大丈夫だと、肩に添えてあるユアンの手に触れた。ゆっくりと息を吸って吐き出し、自分の名を呼び続けるニコラスを、フィーネは目に焼き付けるように見つめた。


(さようなら、ニコラス様)


 そう心の中で別れを告げると、ニコラスから無理矢理視線を逸らし、人ごみに紛れるようにしてフィーネは船の中に乗り込んで行った。


 汽笛の音と、見送る人々の声に混じって、フィーネはニコラスの自分の呼ぶ声がいつまでも聞こえる気がした。


 彼はいまも、フィーネを探して、フィーネの名を呼び続けているのだろうか。


「……でも、これでよかったんです」


 フィーネは震える声で、そう自分に言い聞かせた。


 きっとニコラスも、自分がいなくなった後、フィーネと同じように苦しむだろう。

 でも、そのぽっかりと空いた穴は、レティシアが埋めてくれる。それが本来のあるべき形なのだ。フィーネはただそれを繋ぐ役割にすぎなかった。


 人は、誰も、誰かの代わりになんてならない。


 ニコラスの運命の相手は、レティシア一人だけ。永い時を超えて、ようやく彼らは結ばれるのだ。


 フィーネは涙を流しながら、小さくなっていく母国をいつまでも見つめていた。


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