告白
ニコラスはわからないと言った。フィーネはもう一度、繰り返した。
「ニコラス様との婚約を解消して、マクシェイン様の国へ行きます」
苛立ったように部屋を歩き回っていたニコラスが、ぴたりと立ち止まった。
窓から西日が差し込み、机の上のペンやインク壺、眼鏡、数枚の書類と一冊の本を黄金色に染めており、フィーネはいつか見た光景だと思った。それは前世かもしれないし、生まれ変わってからかもしれない。
「だから、それがわからないと言っているんだ」
ニコラスの書斎には、フィーネと彼の二人を除いて、他に誰もいない。しんと静まり返った部屋に、ただニコラスの声が、はっきりと響き渡った。
扉付近に立っていたフィーネは、震えそうな手を握りしめ、ニコラスを見据えた。
「私は、体調が悪くて、今後ニコラス様を支えることができませんわ」
「だからきみを実家へと帰したはずだが?」
「ええ。でも、回復は見込めないそうです。こんな私では、ニコラス様のお役には立てません。だからどうか、」
「それがどうした。私は、きみを召使いとして雇うために婚約したんじゃない!」
先ほどよりも大きな声でニコラスは言ったが、フィーネは話すことをやめなかった。
「それに、ニコラス様がレティシア様と結婚なさろうとしていることは、すでに世間の噂となっています」
「……それは、ただの噂だ」
「でも、あなたはレティシア様を愛しております」
はっとした様子でニコラスがフィーネを振り返った。
フィーネは、もう終わりにしましょうと微笑んだ。
「だが……きみはどうする。なにも他の国へ行かずともいいだろう。ここにいればいい」
「私がいましたら、きっとあれこれと噂されて、あなたの名に傷をつけます。それにここはもう、かつての世界とは違います。愛人を持つなど、高貴なあなたがやるべきことではありません」
愛人という言葉が癇に障ったのか、ニコラスは咎めるようにフィーネを見た。フィーネはなぜ彼がそんな顔をするのか、不思議だった。
彼はそれに近いことをずっとしてきた。フィーネが気づいていないと思って。あるいは、自分にばれても、許してくれるだろうという信頼から。
このままフィーネが別れを告げなければ、いったい彼はどうするつもりだったのだろう。
レティシアを本妻にして、フィーネを愛人にでもしたのだろうか。丁寧な言葉で、フィーネが逆らえない言葉を選びながら、ニコラスはフィーネを頷かせるつもりだったのだろうか。
きっとおそらくそうしたのだろう。そしてフィーネも、結局はそれに従う気がした。
ニコラスとレティシアの会話を聞くまでは。
あの夜、フィーネがいなければ一緒になれたというレティシアの言葉を、すぐにニコラスは否定した。
それでも、彼もその結末を考えたことがあるのだと、ずっと一緒にいたフィーネにはわかってしまった。
迷いと期待を秘めたあの言葉こそ、ニコラスの本音であった。
「ならば私のそばにずっと居てくれ。そう、約束したではないか」
本当にそうだ。
彼の心を手に入れるには十分すぎるほど時間があったのに、自分はニコラスを完全に捕まえておくことができなかった。
それはフィーネの落ち度だ。あるいは、ニコラスとレティシアの運命ともいえる結びつきの強さか。
「いいえ、そのお約束を果たすことはできません」
「フィーネ!」
ニコラスがフィーネの肩を掴み、目を覚ませと言わんばかりに激しくゆすった。苦しそうに眉を寄せ、フィーネを必死に見つめてくる。
どうして、ニコラスがそのような顔をするのだろうかとフィーネは思った。泣いてしまいたいのは、こちらだというのに。
「きみは、私がどれだけきみを大事にしてきたのか、どれだけ愛してきたのか、わかっているのか。それなのに、きみは、きみというやつは……恩を仇で返すというのか!」
その言葉は、フィーネの心に深く突き刺さった。
それはいつか階段から転落した時よりも、ずっと痛かった。
ニコラスがフィーネに恩を売ってきたという認識で、今まで自分をここに縛り付けていたということを。
彼にとって、ただ自分は、金を払って世話をしたのが勿体無いから、ずっと手元に置いていた存在に過ぎなかったということを。
ニコラス自身によってまざまざと突き付けられたのだ。
「わたしはあなたを、ずっと愛してきたつもりです。でも、もう、あなたのそばには、いられないのです」
フィーネは喘ぐようにただそう繰り返した。だがニコラスはそんな彼女の言葉に、ますます激昂した。
「だからなぜだと言っている! あの男を愛しているからか!」
「っ、違いますっ!」
痛みに耐えかねたように、フィーネは大声で叫んだ。
「わたしが愛しているのは、前世も、今も、ニコラス様、ただ一人だけです!」
ならばなぜだと、ニコラスは初めて憎しみのこもった目でフィーネを睨んだ。彼にそんな目を向けられたのは、生まれて初めてだった。それまでの自分なら、きっと死んでしまいたい思いに駆られただろう。
だがフィーネはもう怖くはなかった。なぜか笑えてきたのだ。
(こんなにも人の気持ちは伝わらない。永い時を一緒に過ごしてきたつもりでも、すれ違ってしまう……)
乾いた声で、フィーネは言った。
「あなたが前世で私を引き取ったのは、レティシア様の代わりを作るためではありませんの?」
さっと顔色を変えたニコラスの態度が、答えだった。
フィーネの肩から手を離し、ニコラスはよろめくように数歩後ろに下がった。その姿に、フィーネはほら見ろと冷たく笑う。
「あなたは私に淑女としてのあり方を厳しく教え込んだ。それを私は懸命に覚え、従順に守りました。あなたはいつだって正しく、私のためだと信じていたから。でも……」
ああ、どうして彼はあの時、熱に浮されてその名を呟いてしまったのだろう。その名を自分はどうしてもっと知りたいと思ってしまったのだろう。何も知らなければ、ただの人形のまま、幸せだったのに。
「あなたには、本当に愛する人がいましたね。熱に浮かされ、必死に助けを呼ぶ、ただ一人の女性」
喉が熱く、声が震えた。
「レティシア様というあなたの本当に愛する女性が」
目を見開き、驚愕の表情でフィーネを見つめるニコラスは、言葉を失ったように固まった。
彼は前世でフィーネがレティシアについて知っているとはつゆほども思わなかったのだ。今彼がレティシアに熱をあげているのも、ただの偶然だと、そうフィーネが疑いもせず思っていると、今の今まで信じていた。
(なんて、愚かな人だろう……)
どうして、という気持ちが身体中を這いずり回り、フィーネを苦しめようとする。己を恐ろしい怪物へと変えてゆく。
「屋根裏部屋に隠されていた……自分とそっくりの肖像画を見つけた時の私の気持ちが……あなたに……あなたにわかりますか、ニコラスさま」
唇を戦慄かせ、フィーネは初めて、突き刺すような鋭い目を男に向けた。
「あなたが、レティシア様へ綴った、手紙を読んだ時の、私の気持ちが……死に際にあなたが呟いた……レティシアという声を聞いた、私の気持ちが……」
言葉にするたびに、その当時の感情がまざまざと思い出される。感情が昂り、涙で言葉が途切れそうになっても、フィーネは話し続けた。
「生まれ変わって、あなたとレティシア様を見た時の、私の気持ちが……今まで、あなたのために尽くしてきた、私の気持ちが……あなたに、あなたにわかりますか、ニコラスさまっ……!」
違う。自分はこんなことを言いたいのではない。愛する人を責めたいのではない。苦しそうな顔をさせたいのではない。
それでも、フィーネにはもう抑えきれなかった。あんなにも恐れていた感情を、目の前の愛する人に叫ばずにはいられなかった。
「あなたは私を愛していたのではありません。レティシア様によく似た少女を、レティシア様の代わりとして愛していただけなんです!」
「ちがう、私は、」
激昂していたニコラスの顔はいまや青ざめ、言い訳をするように、フィーネへと近づいてくる。慰めるように彼の手が、彼女の肩へと伸ばされる。
フィーネはその手を、身をよじって拒絶し、ニコラスの懐へと飛び込んだ。そして縋りつくように左手で服を掴みながら、彼を責めるように何度も、何度も右手で胸を叩いた。
「どうして……どうしてですか。どうしてあなたは、私を引き取ったんですか。優しくしてくれたんですか。微笑みかけてくれたんですか」
いっそ本当の人形のように、手ひどく扱ってくれればよかったのに。人の感情など持つなと突き放してくれればよかったのに。
そうすればこんなにもあなたを愛することはなかったのに!
「どうしてもあなたを思い出してしまう。何度試そうとしても、他の誰かを愛そうとしても、いつも、いつも、あなたが目の前にいる!」
ニコラスの胸をかきむしるように、フィーネは彼の衣服を強く掴んだ。
(そうよ……逃げ出す機会は、いつだって、あった……)
自分を誰かの代わりとしか愛さない彼の手を振り払い、本当に自分を見てくれる人を探せばいい。愛せばいい。前世が無理でも、今度はきっと――そう思ったのは、もう数え切れないほど。
それでもフィーネがニコラスから離れることはなかった。できなかった。
「忘れたいのに。もう、振り回されたくないのに。愛されるはずがないってわかっているのに。なのに、あなたに会ってしまえば、結局あなたを愛そうとする自分がいるんです」
顔を上げて、ニコラスの瞳をひたと見つめる。ニコラスも動けなくなったようにフィーネを見つめ返した。
「愛しています。誰よりもあなたを愛しているんです。ニコラス様」
涙があとからあとからあふれて、胸が苦しくて仕方がない。人を愛することはこんなにも苦しいものなのだろうか。
「お願いです。もう、私に構わないで下さい。解放して下さい。これ以上あなたのそばにいたら、私はきっと壊れてしまう。あなたを殺して、私も死んでしまう」
懇願するような響きに、ニコラスは息を呑む。
目の前の少女をそこまで追いつめたのは自分だと今はっきりと突きつけられ、彼はようやく、誰かの代わりとして、一人の少女を犠牲にした残酷さを理解したのだ。
どれくらい見つめ合っていただろうか。
フィーネは囁くように答えた。
「あなたの運命の相手は私じゃない。レティシア様なんです」
「フィーネ。私は……」
先に動いたのは、フィーネだった。ニコラスの声に、彼女はさっと彼から身を引いた。
そして今度こそ本当の別れの言葉を述べるために、泣いて酷いありさまの顔でも、フィーネは精いっぱい微笑んだのだった。
「どうか、幸せになって下さい、ニコラス様」
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