最後の賭け

「――こんにちは、フィーネ。お久しぶりですね」


 フィーネはその顔に、もはや驚きはしなかった。彼は自分のもとへ訪れるだろうという根拠のない予感があったからだ。そしてそれは見事的中した。


「よく私の実家がおわかりになられましたね、ユアン」

「調べたんです。ニコラスがなんだかんだはぐらかして教えてくれなかったので、あの手この手で。大変でした」


 ユアンはフィーネのどうやってここがわかったのかという質問にも淡々と答えた。


「それは、どうも。ですが、すぐにお帰りになった方がよろしいですわ」


 お茶を差し出しながらも、フィーネはそっけなくユアンに言った。


 父親が彼のことを知れば、きっと良い顔をしないだろう。あらぬ誤解で、彼を巻き込んでしまうのは、フィーネの本意ではない。


「ああ、大丈夫ですよ。そういう悪意には慣れていますから」


 けれど実にあっけらかんとした様子で、ユアンは気にしないよう言った。彼のその顔を、フィーネは思わずまじまじと見つめてしまう。


「なんですか?」

「いえ、以前から存じ上げていましたが、あなたはずいぶんと神経が他の方とは違うようですね」

「ありがとうございます。よく言われます」

「別に褒めていません」


 むしろそういうところだと、気にせずお茶を飲むユアンに、フィーネは呆れ、とうとう笑ってしまった。乾いた笑いは、涙が出そうだった。


 ユアンはそんなフィーネの様子に目を見開いて、しばらく驚いていたようだったが、やがて観察するように彼女の顔をしげしげと眺めた。


「いえ、ごめんなさい。あなたと話していたら、なんだか自分の悩みが馬鹿らしく思えてきて」


 自分がまだ笑えることにフィーネは内心驚いていた。そもそもこうして声を出して笑うこと自体、初めての体験かもしれない。


「婚約者に振られ、捨てられるというのにおかしいですよね」

「あなたは……」


 ユアンが何かを言おうとしていることに気づいたフィーネは、はい? と口元を手で抑えながら聞いた。


「そうやって笑っていらっしゃる方が、俺は好きです」


 いつもの、人を揶揄う笑みでもなく、貼り付けたような笑みでもなく、慈しむような珍しい類の笑みだった。ユアンのそんな表情にフィーネはぴたりと笑うのをやめた。


「……そう、ですか」


 フィーネはどう答えていいかわからず、曖昧に返事をした。ユアンははい、としっかりと頷き、お茶を口にする。

 静かな雰囲気が、ただフィーネには気まずかった。


「どうしてあの屋敷を離れたんですか」


 しばらくして、ユアンが再び口を開いた。


「そんなこと、あなたならよくご存知ではないのですか」


 フィーネは皮肉めいた口調で返したが、ユアンは首を振った。


「あなたの口から直接お聞きしたいんです」

「……最後の賭けだったんです」


 窓の外の、さわさわと風に揺れる木々を見つめながら、フィーネは答えた。


「私はこれまで、私の持ちうるすべてをニコラス様に捧げて、愛情を示してきたつもりです。彼の期待に応える努力も欠かさなかった。それでも、」


 だめだったんです、と言った自分の声は消え入るように小さかった。


「もう、私があげられるものは、何もありません」


 顔を上げて、フィーネはユアンに微笑んだ。寂し気な笑みだった。


「今の私にできる唯一のことは、ニコラス様とレティシア様の幸福を祈ることだけなんです」


 カチャリとユアンはソーサーにカップを置いた。


「だから、手紙にも当たり障りのないことを書いたんですか。療養したいからと嘘をついてあの男から身を引いたんですか。あの男がレティシアに関心を持つよう仕組んだんですか」


 ユアンの話ぶりだと、自分がまるでたいそうな策士家みたいでフィーネはおかしかった。


「私は何もしていませんよ。自然と、なるがままになっただけです」


 そう、二人はあまりにも完璧で、誰の目から見ても美しかった。まるで以前からそうであったというように、フィーネの存在など最初からなかったように、ニコラスとレティシアはぴったりと寄り添い、自然であった。


 世間もしばらくは彼らのことを噂するだろうが、すぐに二人の完璧さに、こちらこそが正しい姿だと納得するだろう。


「偽物の役割は終わって、彼は今度こそ本物と結ばれる。あなたが以前おっしゃった運命のお相手と」


 運命の相手など、認めたくなかった。でも、もうフィーネにはどうすることもできない。

 ユアンはこちらをじっと見つめ、何を考えているかわからない顔で、フィーネの全てを知ろうとする。


「ある日忽然と姿を消して、ニコラスに血眼になって探させようとは考えなかったんですか」


「そんな馬鹿なことしません。あなただって、以前そうおっしゃったではありませんか」


 理解できないと眉を寄せるフィーネに、ユアンは憐れんだように笑った。


「たしかにあなたがおっしゃるとおり、馬鹿な行動かもしれません。でも、それは、その人間にとって最後の愛の告白なんです。ある日愛する人の前から突然姿を消すことで、その人にいつまでも自分という存在を忘れないでいて欲しいという、身勝手で、捨て身の、後先考えない、けれどどうしようもなく愛に満ちた、行動なんです」


 俺は、とユアンはそこで一呼吸置いた。


「あなたなら、そうするとどこかで思っていました。そうする資格があると」

「……たとえ資格があっても、私にはできませんよ」


 そうだ。自分にはできない。

 きっとどこまでもニコラスの幸せを考えるから。


 フィーネが行き先も伝えず姿を消してしまえば、ニコラスはきっと心配する。フィーネが無事かどうか確かめるために、必死に、それこそ血眼になって探すだろう。

 それは、彼の手を煩わせることだった。フィーネには、そんな自分の行動を許すことはできなかった。


 だからユアンのいう、黙って姿を消すという行動は、フィーネにとってただ不愉快な、理解できないものだった。


 療養したいからという言い訳をニコラスに伝える時でさえ、フィーネは罪悪感で押しつぶされそうになったのだ。それでも結果的にニコラスのためになると判断したからこそ、彼女は苦渋の決断をした。


 それまでじっとフィーネを見つめていたユアンが、目を伏せてぽつりと聞いた。


「俺を、憎んでいますか」


 フィーネはいいえと冷めたお茶を見ながら答えた。


「いつか別れがくると、わかっていました。あなただって、そうだと思ったから、私に事実を述べたのでしょう? 早く目を覚ましなさいと」


 だからちょうどいいきっかけだったのだ。フィーネは、今は心からそう思えた。


「だから、あなたを憎んではいませんよ、ユアン」

「……ニコラスとの別れには、俺もいましょうか」

「いいえ。これは私の問題です。私が彼に話します」


 きっぱりとした物言いに、フィーネが考えを改めるつもりはないと伝わったのだろう。それ以上彼は何も言わなかった。


 ただ帰り際、至極真面目な表情でユアンは振り返り、一つだけ訂正を申し出た。


「あなたは捨てられるんじゃない。捨てたんです。捨てられるのは、あの男の方です」


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