ニコラス

忘れられない人

 それはあまりにも突然の出来事だった。別れを覚悟する暇もなく、愛しい人を冥界へと連れ去ってしまった。


 とある貴族の晩餐会。たくさんの人間が着飾って、踊って、ニコラスが別の人間とほんの少し話している間。レティシアは気を遣って席を外した。心配する彼に、彼女は大丈夫だと笑って答えた。そうして友人と話していたはずの彼女は、ニコラスが見つけた時には中庭にいた。一人、息を引き取って。


 白い肌を赤い血に汚されてもなお、レティシアの亡骸は美しく見えた。まるで眠っているような、今すぐにでも目を覚ましそうなほど穏やかで、ニコラスは彼女の身体を抱き抱えながら、何度も軽く揺すった。


「レティシア……レティシア、レティシアっ……」


 表向きは事故として処理されたが、その実、暴漢者に襲われて亡くなった令嬢。襲った犯人は、夕食に招待してくれた貴族の息子。彼女とその男がどのような関係だったのか、深く考えるより先に、婚約者が男に襲われて死んだという、その死に方に、ニコラスは何より打ちのめされた。


 どれほど怖かったことだろう。叫びだしたかったことだろう。どうして自分は彼女のそばにいなかったのだ。どうしてあの時手を離してしまったのか。ニコラスはその時の彼女の心情を思えば思うほど、怒りや悲しみ、やりきれなさで自分が壊れてしまいそうだった。


 これから愛する人と送るはずだった人生を突然奪われた令嬢の死は、世間の同情を強く引いた。だが一方で、あらぬ噂が飛び交ったのも、どうしようもない事実だった。


 けれどニコラスにとって、そんなことは関係なかった。


「レティシア」


 ニコラスは彼女の愛くるしい微笑を、必死に思い出そうとした。鈴のようなあの声を思い出そうとした。


(忘れたくない……忘れてはだめだ!)


 レティシアを忘れず、いつまでも自分の記憶にとどめておくことが、せめてもの彼女への償いだと思った。そう思わないと、あまりにも彼女が報われなかった。


 いいや、それとも置いていかれた自分のためかもしれない。ニコラスには、もう自分が何を求めているのか、どうすればいいのかわからなかった。


 とにかくニコラスはレティシアから送られた手紙や、彼女の肖像画を見て、必死に忘却を阻止しようとした。


 しかし、時は残酷だ。いつまでもニコラスが悲しみに浸ることは許さないと、容赦なく愛しい人の思い出を奪い去っていく。


 彼は、初めて生きることを虚しく感じた。当たり前のように息をしていた毎日が、今は水の中にいるような息苦しさを感じる。いや、水の中にいるということすら忘れ、知らぬ間に溺れ死んでいるのだ。


 もう死んでレティシアのもとへいこう。ニコラスが最後の選択をしようと決めた時、見かねた友人の一人が、レティシアによく似た女性がいるかもしれないとニコラスに伝えた。彼女の遠縁を当たっていけば、一人くらい、似ている女性がいるだろうと。


 ニコラスはその時、悪魔が囁いたように、ふっと思いついた。死んでしまったのならば、もう一度、会えばいい。似ていないのならば、そうなるように、導いてやればいい。己自身の手で。


 一度思いついた考えは、もう他にこれしかないという、ただ一つの正解に思えた。


 ニコラスはすぐに屋敷の使用人たちに、レティシアのことは絶対に言うなと固く口止めさせ、レティシアによく似ているという少女を迎え入れる準備をした。


 レティシアの遠縁は、海を渡った国、今にも朽果ててしまいそうな小屋に住んでいた。その日生きるのがやっとという暮らしぶりで、その少女もろくに食べさせてもらえていないことがわかるほど痩せ細っており、ボロボロの衣服から見えたあばらは、うっすらと浮き出ていた。


 だが、幼い顔立ちに残る、レティシアの面影に、ニコラスは満面の笑みを浮かべた。


 ――ああ、レティシア!


 きみにまた会える。きみはまだ生きている。きみを愛せる!

 燃え尽きたと思っていた生きる希望が、ゆっくりと身体の奥底からわいてくるのを感じた。


「そこのお嬢さんを譲ってほしいのです」


 金はたっぷりあった。いくらでもやるつもりだった。だからどうか――ニコラスの願いは、実にあっけなく、あっさりと叶えられた。娘を娘とも思っていない様子でニコラスに差し出す夫婦に、普段のニコラスなら嫌悪を抱いただろう。けれど、今の彼は平静ではなかった。歓喜に震えていた。


 失くしたものが、また手に入るのだから。


「今日からここがきみの我が家だ」


 それからの日々は、ニコラスにとってやりがいのある、使命感に燃えた毎日であった。レティシアを取り戻すための。


 少女は従順だった。ニコラスの言いつけをきちんと守り、一度指摘された間違いは決して繰り返さなかった。勉強も礼儀作法も、次々と覚えていく様は、教えがいがあった。


 それでも少女は――フィーネは、レティシアではなかった。


 レティシアに顔立ちはそっくりだったが、やはり所々違うという違和感が拭えなかった。いいや、似ているからこそ、些細な違いが気に障った。ここがもう少し、あそこがもう少しと、端正な顔立ちの中に、礼儀正しい振る舞いの中に、間違いを探し出そうとする。


 そして一番の違いは、フィーネには貴族として生まれ持った気品、気高さがなかった点だ。


 こればかりは、彼女の出自ゆえ、致し方ないことだったが、レティシアを何よりも決定づける不可欠な要素だったために、ニコラスは内心ひどく落胆せざるを得なかった。


 やはりレティシアの代わりは、誰にも務まらないのだと、残酷に突き付けられた気がした。仕方がないので、誰もが寝静まった夜、屋根裏部屋にこっそりと行き、ニコラスは以前のように亡き婚約者の面影に縋った。


「ああ、レティシア……!」


 会いたい。きみに会いたい。どうしてこんなに想っているのに現れてくれないんだ。


「――ニコラス様」


 その呼び声に振り返り、ニコラスは作り笑いを浮かべた。まるで本当の彼女に笑いかけるように。


「なんだい、フィーネ」


 名を呼べば、己を見上げる人形のような顔に、一瞬で色がつく。


 ニコラスは緑色の瞳をじっと見つめた。その色を見ると、違うという思いをひときわ強く意識させられる。レティシアの瞳の色は、同じ緑でも、暗いところなど少しもないような、曇りなき輝きに満ちた、それこそエメラルドのような宝石を連想させた。


 対してフィーネの瞳は、うっすらと仄暗さが見え、青みがかった色だった。それもまた、ニコラスには残念に思えた。


(それでも、今さら手放すことはできないな)


 それは愛着故ではなく、金を払って手に入れた手間暇を惜しんでのことだった。両親や親戚もみなニコラスの行動に一通りの文句を並べたて、決してフィーネの存在を認めようとしなかった。その反対を押し切ってまで少女をこの屋敷に引き取り、育てているのだ。強情なニコラスの態度に、自殺されるよりはましかと最後には彼らも許すしかなかった。


 こうした経緯も踏まえ、ニコラスはもう後戻りすることはできなかった。


 ニコラスの落胆をよそに、フィーネはすくすくと成長していった。


 彼女の出生と、レティシアに酷似した外見のため、ニコラスはフィーネを屋敷から連れ出すことは滅多にしなかった。社交界にも出席させず、広大な土地に捕われたフィーネに対して、可哀想だと思う気持ちが、今さらになってニコラスの心にわいてきた。


 その罪悪感を拭うために、フィーネが欲しがるものは、できるだけ与えてやろうとニコラスは彼女に何か欲しいものはないかと聞いたことがあった。


 フィーネは最初、特にないと子どもらしからぬ謙虚さで断ったが、しつこくニコラスが尋ねるので、何か答えなければと思ったのだろう。おずおずとした調子で、ニコラスを見上げた。


「でしたら、薔薇の花が見たいです」


 薔薇の花。ニコラスはそれを聞いて、百本の薔薇を用意しようとしたが、フィーネに慌てて止められた。


「いいえ、花束ではなく、庭で見たいのです」

「庭で?」


 はい、とフィーネははにかみながら答えた。


「ニコラス様と一緒に、見たいのです」


 ニコラスは気まずくなり、目を逸らした。そのせいで彼女がどうして薔薇の花を選んだのか、彼は考える機会を失ってしまった。


「あの、いけませんか?」

「……いいや、たくさん植えさせよう。そうしたら私と一緒に見てくれるかい?」

「っ、はい!」


 フィーネは花がほころぶように微笑んだ。ニコラスも少女を安心させるように微笑み返した。


 思えばその時に初めてはっきりと罪悪感を感じたのだろう。恋人に向けるような愛情はたとえ持てなくても、苦労のない生活を送らせてやろうとニコラスは心に誓った。


 フィーネのことを心から愛することはない。そう思っていたニコラスだが、永く一緒にいれば自然と情はわいてくるものだ。


 従順で、ニコラスに言われたことを一生懸命覚えようとする健気さがあった。誰かに何かを言われても、貫き通すほどの意志の強さはなかったが、すべてを柔軟に受け入れる優しさがあった。


 自分の全てをかけて愛したいという激しい感情はなくとも、穏やかで満ち足りた感情があった。


 もどかしいと思う反面、それでいいとニコラスは思った。


 レティシアはレティシアで、フィーネはフィーネだった。


 レティシアを失った悲しみを、フィーネの献身的なまでの態度が癒してくれる。控えめな態度も好ましく思え、自分を優しく見つめてくれる瞳に、気づけば自分も目を細めて見つめ返していた。


「ニコラス様」

「なんだい、フィーネ」


 いつしか屋根裏部屋へ行くこともなくなり、ニコラスはフィーネのことだけを考えるようになった。


 幸せだと、心からそう思った。フィーネがいてくれたからこそ、ニコラスは生きようと思ったのだ。


 生まれ変わってフィーネと出会えたことも、その瞬間に記憶が蘇ったことも、ニコラスにとってはあまり驚くことではなかった。むしろ当たり前だと思った。彼女の家が窮地に陥った時も、まるでそうだと決められているように手を差し伸べた。フィーネを救う役割は、自分の使命なのだと。


 前世と違い、ニコラスとフィーネの年は近かった。最初はそれを新鮮に感じたが、すぐに気にならなくなった。一緒に暮らすようになってからも、またあの日々が戻ってきたのだと、以前の世界にいるような錯覚に陥った。平凡で退屈な、けれどどこまでも穏やかで満ち足りた日々だった。


 一生こんな日々が続くのだと、ニコラスは信じ切っていた。


 レティシアと出会うまでは――


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