願い

 幸い骨は折れていなかったが、捻挫しており、しばらくは安静にしておくよう医者にきつく言われた。


 ライノット伯爵が運よく刃物を手放したおかげで、どこも刺されずに済んだ。ただ打ち身で生じたあざと数か所の傷、それから転落した際の痛みがまた後でくるだろうとも言われた。


 命に別状はなかったが、意識が戻らぬまま何日もフィーネは眠り続けたそうである。


 だからだろうか。目を覚ましてからというものの、ニコラスはフィーネを気づかうようにずっと傍にいてくれた。


 何をするにしても、フィーネのそばを離れようとしなかったし、彼女の世話を焼きたがった。フィーネもまた、そんなニコラスに申し訳ないと思いつつ、いつもより彼に甘えた。


「すまなかった。私のせいで」


 彼は苦しそうに顔を歪め、何度もフィーネにそう謝った。後遺症は残らないが、転倒した際、身体の何か所かにうっすらとできてしまった傷のことを気にしているのだ。


 フィーネは別にこのくらいの傷、なんともなかった。ニコラスの命を救うためだと思えば、お釣りがくるくらい安いものだった。


「ニコラス様のせいではありません。悪いのは、ライノット伯爵です」


 フィーネは枕に身体を預けたまま、俯くニコラスを慰めた。


 詳細はまだ教えられていないが、彼には重い処罰が下されるはずだ。貴族社会にも、二度と顔向けできないだろう。


「だが、きみが怪我を負ったのも……」


 それ以上は言わないでと、彼の唇にそっと指で触れた。


「いいんです。あの時あなたを守ることができて、こうしてまたあなたに会えて……それだけで、十分なんです」


 ニコラスはそれでも気が晴れないのか、肩を落としたままだ。


「ニコラス様。それならば、一つだけお願いさせて下さい」


 普段めったに自分の欲を言わないフィーネに、ニコラスが目を瞬く。


「お願い……フィーネが、私に?」

「だめでしょうか」


 眉を下げるフィーネに、ニコラスは慌てて首を振った。


「そんなことない! ただめったにないことだから、驚いてしまったんだ。でも、うん、そうだな。きみの願いなら、何でも叶えてやるさ。食べたいものでも、欲しいものでも、何でも言ってくれ」


 目を輝かせ、どんとこいと胸を叩くニコラスにフィーネはくすりと笑った。


「食べたいものも、欲しいものも、ありませんわ」

「フィーネは相変わらず無欲だな……では、お姫様は何がご所望なのかな?」


 わざと明るく、お道化たように言うニコラスの顔を、フィーネはただひたと見つめた。


「私がずっとあなたのおそばにいることを、どうか許して下さい」


 ニコラスは目を瞠り、やがて苦笑いしながら言った。


「そんなことでいいのかい?」

「ええ。それだけで、いいんです」

「そんなの、お願いするまでもないさ。私ときみが離れ離れになるなんて、そんなわけないだろう?」

「本当?」

「本当さ」


 フィーネは手を伸ばし、彼の目元を優しく撫でた。


 ニコラスの目元には、くまができていた。フィーネの世話ばかりしていて、自分のことは二の次になっていたのだろう。いつもの快活さも、どこか空元気のように見えた。


「ニコラス様、心配かけて、本当にすみませんでした」

「そうだな、今回ばかりは肝を冷やした。もう無理はしないと約束してくれるか?」


 フィーネのほっそりとした手を取り、ニコラスは自身の頬に押し当てた。眉を下げて自分を見つめる彼は、心からそう頼んでいるように見えた。


「あなたが、もう危険はおかさないと約束して下さるなら」


 ニコラスは苦笑いした。


「わかった。約束する。きみを失いたくはないからな」


 ニコラスがフィーネを抱きしめるために身体を寄せてくると、彼女もまた彼の背に腕を回した。いつもはその温もりにひどく安心するのに、今はとても心細く感じてしまう。


(このまま時が止まってくれればいいのに)


 フィーネは心の底からそう思った。


 たとえニコラスが、レティシアを愛していても、今この時だけは、彼はフィーネを見ていてくれるのだから。


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