目覚め

 前世でニコラスが亡くなった後、フィーネは何日も泣き続けた。眠ることも、食べることも忘れたかのように、彼の死を悼んだ。


 でも、それは二度とニコラスに会えないことが悲しかったからではない。自分の名ではなく、レティシアの名を最期に呼んだことが、とても悔しく、辛かったからだ。


 フィーネという存在は、ニコラスの死に際までレティシアの代替品でしかなかった。泣いていないと、ニコラスを恨んでしまいそうだった。フィーネは愛する人を憎みたくはなかった。


 だから、フィーネは涙を流し、この恐ろしい気持ちを消してしまおうと思った。そしてそれは成功した。


 彼女の視力と引き換えに。


 精神的なものか、寝食もろくにせぬまま泣き続けたせいなのかは、医者にもわからなかった。もっと早く診せていればなんとかなったかもしれないが、フィーネはそれすら拒んだ。


 ゆっくりと目の前の世界が失われていくことは怖くないといえば嘘だった。だがそれ以上にニコラスへの気持ちが、憎しみで満ちることがフィーネには何より恐ろしかった。視力を引き換えにしてこの気持ちが消えるのなら、フィーネはそれで構わないと思った。


 それにニコラスがいない世界など、フィーネにとって少しも見る価値のないものだった。


 真っ暗な世界はひどく不便だったが、屋敷の者は同情からみなフィーネに親切だった。少なくともフィーネはそう思っていた。でも本当は我慢して優しく振る舞っていただけかもしれない。


 あの頃の自分は、とにかくニコラスのことしか頭になかった。


 いいや、きっと今も――


『あなたは、馬鹿ですね』


 フィーネはその声に、視界がぐらりと歪んだ気がした。


「う、」


 頭の痛みだけでなく、内臓がひっくり返されたような気持ち悪さが襲う。


 苦しい、と思った。助けてくれ、とも思った。いったい自分が何に苦しんでいるのかわからなかったが、とにかく助けを求める自分がいた。そしてその呼び声に応えるように、誰かの声が聞こえた。


 もう苦しまなくてもいいんだという優しい声。頬に添えられる、冷たい感触。


(ああ……)


 その手を取りたい。自分を見つけてくれた人。偽物とか本物とか、そんなの関係ない。あなたはあなただと、フィーネが愛する人に言って欲しかった言葉を、何の躊躇いもなく言ってくれた人は――


「――フィーネ、大丈夫ですか」


 フィーネはその声に、うっすらと目を開けた。飛び込んできた、藍色の髪に琥珀色の瞳。


「ゆあん……」

「はい、おはようございます」


 のんびりとした、穏やかな声で挨拶したユアンはフィーネをひどく優しい眼差しで見つめていた。……いや、呑気に挨拶をしている場合だろうか、ここは。そもそもなぜ彼がここにいるのだろうか。国へ帰ったのではなかったのか。


 寝起きの頭で上手く状況が飲み込めず、ぼんやりとユアンを見つめていたフィーネに何を思ったのか、彼はただ大丈夫ですよと彼女の手を緩く握った。


「どこか痛いところはありませんか。喉は乾きませんか」


 頭が重く、痛かった。身体もあちこち痛い気がした。

 フィーネは動かない身体の代わりに周囲に視線を彷徨わせた。すると、花瓶に生けてある花が目に入った。ガーベラや薔薇の、優しい色合いの花でまとめられている。


 誰が生けてくれたのだろうかと思いつつ、フィーネはユアンへ視線を戻した。


「に、」

 声が思うように出ない。


「なんですか」


 ユアンがさっと耳を近づけ、フィーネの掠れた弱々しい声を拾い上げる。顔を上げた彼は一瞬何か言いたげな表情でフィーネを見つめたが、すぐに安心してくださいと微笑んだ。


「あなたが目を覚ましたと知ったら、すぐに来るでしょう」


 それは本当だった。フィーネの会いたいと思う人物は、レティシアと一緒に駆けつけてきた。


「フィーネ! よかった! 無事だったんだな」


 ニコラスがユアンを押しのけるようにしてフィーネのそばに跪いた。涙をぼろぼろ流し、何度もよかった、よかった、と繰り返している。隣にいるレティシアも、涙で目を潤ませていた。


「もう何日も目を覚まさないから、このままきみが一生目を覚まさないんじゃなかと怖くてたまらなかった……」


 ニコラスがなおも涙を流しながらフィーネの手を握った。まるでたった一本の糸に縋りつくようで、フィーネは自分が彼のもとへ戻って来たのだと、ようやく現実を受け入れ始めた。


(ニコラス様に、もう一度会えた……)


 嬉しい、と素直に思う自分がいた。まだ私は、彼のいる世界に未練があるのだとも。


「もう二度とこんな無茶なことはしないでくれっ……!」


 フィーネはニコラスが無事でよかったと彼に伝えたかったが、声を出す気力がなく、せめて涙を拭ってあげようと、鉛のように重い手をニコラスの頬に伸ばす。そしてせっかくの端正な顔立ちが台無しだと、フィーネは笑いかけた。


 その表情に、ニコラスはますます声を震わせて、子どものように泣いた。フィーネは困ったように、ニコラスの涙を不器用に拭い続けた。


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