歪んだ狂気
凛とした声が響き渡り、レティシアが微笑を浮かべたまま登場した。彼女は二階から男のやつれ切った顔をしげしげと眺め、優しく語りかける。
「ライノット伯爵。どうかこれ以上見るに堪えない姿で私を失望させないでください」
愛する人の言葉がライノット伯爵の最後のプライドを切り裂いたのか、彼は一瞬放心したようにレティシアを見つめると、すぐさま顔を真っ赤に染め上げた。
そしてどこにそんな力があったのかと驚くほどの力で使用人たちの制止を振り切り、階段をさっと駆け登っていく。
「お前という女はどこまで私をこけにすれば気がすむんだ」
ちょうど踊り場にあたる部分で立ち止まり、ライノット伯爵はレティシアに向かってひと際大きな怒鳴り声をあげた。
だが彼女は動じなかった。どこまでも醜態を晒す男に心底失望したと、冷ややかな視線で男と対峙する。男が感情的になればなるほど、女の顔は冷めていく。
「先に喧嘩を売ったのはそちらよ。私のせいにしないで」
「私をその気にさせたのは、お前だ」
「まあ。お世辞と本音の区別もおつきにならないの」
「お前という女は……」
わなわなと唇を震わせ、言葉が出ないライノット伯爵は、懐にさっと手を入れた。レティシアは、はっとした。伯爵がナイフを取り出して、彼女に突きつけたのだ。食事をする際に使用する、見事な薔薇の模様が入った銀のナイフを。
初めてレティシアの顔に恐怖の色が浮かび、一歩後ろに下がった。
「なにを、考えていらっしゃるの……」
「お前が悪いんだ。私を、私をこんなふうに追いつめて、他の男の下へ走ろうとしたお前が……」
フィーネはライノット伯爵と距離を詰めようと、そっと足を動かした。まるで自分がそうすべきだと導かれるようにして体が動いたのと、彼の姿がもう一人の自分に見えたのだ。
嫉妬に狂った醜い男の姿が、自分を見てくれと叫ぶ哀れな男の姿が、いつかの自分の姿のように――
「ライノット伯爵、落ち着いて下さい。ここであなたを、」
「うるさい!」
ニコラスの声が、引き金だった。ライノット伯爵は最後の階段を駆け上がっていく。フィーネもそれにつられるようにして、彼の背を追った。
「いやあっ」
きらりと向けられたナイフに、レティシアの悲鳴が口からこぼれ落ちる。ニコラスが、そんな彼女を守るように前へ出た。そして同時に、ライノット伯爵が最後の一段に足をかけた。
フィーネは数秒後の光景が実に色鮮やかに瞼の裏に浮かんだ。
ニコラスがライノット伯爵からレティシアを守ろうとして、飛び出した時の窓から降り注ぐ光。ライノット伯爵が手にしているナイフの刃が、ニコラスの鍛えられた胸と腹の中間に突き刺さり、歪められた顔。磨き上げられた銀のナイフと衣服にじわじわと染み渡る赤。
フィーネは、ああ、と思った。それは、だめだ。
妄想と現実がごちゃ混ぜに入り交じった世界に、フィーネは手を伸ばし、ライノット伯爵に抱き着くようにして体当たりした。その衝撃に驚いたのか、彼の手から刃物がこぼれ落ち、カツンと床に響いた。
ほっとしたのも束の間、ライノット伯爵が恐ろしい呻き声をあげてフィーネを突き飛ばした。
視界が、ゆっくりと上昇したかと思うと、ぐるりと反転する。
「フィーネ!」
悲鳴が聞こえ、フィーネは打ち付けられる痛みと、くるくると忙しなく回る視界に目をぎゅっと閉じた。
甲高い悲鳴は、レティシアのものだろうか。それとも他の使用人のものだろうか。安否を確認する声や、医者を呼んで来い、という怒声。うっすらと目を開けた世界は、混沌としていた。
「フィーネ!」
目を見開くニコラスの顔に、ここで死んだら、彼は自分を覚えていてくれているだろうか、今度こそ本物になれるだろうかと思い、フィーネは目を閉じた。
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