心配

 そんな日が何日か過ぎ、久しぶりにフィーネは教会へ行くことを許された。


「用事が済んだら真っすぐに帰ってくるんだよ」


 ニコラスはそう言って、自身もまた用事があるからと出かけて行った。心配ならば一緒に来ればいいのに、とフィーネは寂しく思いつつ、何も言わず彼の背中を見送った。


 主人の言いつけを一緒の部屋で聞いていた侍女が付き添いを申し出たが、フィーネは必要ないと断り、一人で教会へと足を向けた。どのみちニコラスに言われずとも、寄り道するつもりはなかった。


「こんにちは、フィーネ」


 けれどユアンはいつも通り、フィーネを待っていた。


「久しぶりですね。お元気でしたか」

「ええ。変わりなく……」


 なんとなく気まずく、目を逸らしながら返事をする。


「よかったら一緒に帰りませんか」

「ごめんなさい。今日はすぐ帰るよう言われているんです」


 申し訳ないと思いつつ、フィーネはきっぱりと断った。


「お願いします」


 けれどユアンは食い下がった。そしてその懇願するような響きに、フィーネは戸惑う。


「でも……」

「そんなに時間はとらせません。話したいことがあるんです」


 真剣な表情で頼み込んでくる彼に、フィーネはずいぶん迷ったものの、最後には頷いてしまった。


「わかりました。少しだけなら……」

「ありがとうございます」


 ほっとしたようにユアンが笑みを浮かべたのを見て、フィーネは苦い後悔が胸に押し寄せてきた。


(ニコラス様の言いつけに背いてしまった……)


 やっぱり今からでも断るべきか。けれど……彼の様子が気になった。


 冷たい北風をあびながら、フィーネとユアンは並んで歩いて行く。空はどんよりと曇っており、今にも雨が降りそうだった。


 ちらりとフィーネは隣に目をやった。

 いつもはあれこれと話しかけてくるユアンが、今日は固く口を閉ざしている。


 心ここにあらずといった様子で、何かを考え込んでいるように見えた。それがフィーネにはひどく気がかりで、何度事情を聞こうかと迷い、結局やめてしまう。


(彼のことだから、あの表情も、私をただ揶揄おうとして作っただけだわ)


 本当に? フィーネは本当だと、言い聞かせた。

 このまま屋敷へ帰れば、きっとユアンも自分も忘れてしまうはずだ。それでいい。


『あなたは馬鹿ですね』


 最後に別れた時の表情が思い浮かんだ。


「「あの」」


 二人の声がぴったりと重なり、お互いに目を丸くした。


「何でしょうか、フィーネ」

「いいえ、あなたの方からどうぞ」


 柔らかく微笑むユアンから目を逸らしながらフィーネは先を譲った。


「俺の話はたいした話ではありませんから。あなたの方からどうぞ」


 フィーネの話だってたいした話ではない。けれどユアンはフィーネの言葉を待ち続けており、フィーネはとうとう覚悟を決めて尋ねた。


「以前お会いした時、どこか調子が悪そうでしたが、もう……大丈夫なんですか」

「以前?」


 心当たりがないのか、ユアンがかすかに眉根を寄せる。フィーネは慌てたように説明する。


「ニコラス様のお見舞いの際に、私があなたに述べたことです」


 ユアンはますます眉間にしわを寄せた。フィーネは気まずくて仕方がなかった。


「いえ、私の勘違いだったら、別にいいんです。私の言葉で、不快な思いをさせてしまったのではないかと思って、心配だったんですけど……」


 伝わらないことで、語尾がどんどん小さくなっていく。


「……ああ! ニコラス様のためなら、何でもできるという言葉ですね」


 思い出したとユアンがしきりに頷いた。


「それで、あなたは俺が傷ついたのかと思って、わざわざ心配してくれていたんですね」


 彼が嬉しそうにこちらを振り向いたので、フィーネはやはり言わなければよかったかなと少し後悔し始めた。だがそう思ったところで、もう遅い。ユアンは明るく、フィーネに話しかけた。


「大丈夫ですよ。ただあなたらしい言葉だとしみじみ思っただけです」

「だったらいいんですが……」


 やはり気にする必要はなかった。フィーネはほっと安心したが、ユアンが唇に笑みを浮かべたままこちらを見ていることに気づくと、すぐに表情を引き締めた。


「何でしょうか」

「いいえ、あなたが俺のことを心配して下さって、嬉しいんです」

「心配なんか、していません」


 ユアンはそんなフィーネを優しく見つめている。その眼差しが気まずくて、フィーネは話をもとに戻した。


「それで、あなたの話というのは?」

「ああ……その、実は急遽国へ帰らなくてはいけなくなりまして」


 フィーネは立ち止まって、ユアンの顔を見上げた。彼は困ったように微笑んでいる。


「何か、ありましたの?」

「ニコラス様からは何も聞いていないのですか?」

「え、ええ」


 ニコラスがユアンの名を出すことは、あれから一度もなかった。フィーネの返答に、ユアンの顔が一瞬不快そうに歪んだ。だがすぐに首を振り、笑顔を作った。


「親戚が亡くなったそうで、帰らなくてはいけなくなったんです」


 まるで世間話でもするかのような淡々とした口振りとその表情に、フィーネは最初話の内容を聞き間違えたのかと思った。


「親戚とは……あなたの、ですよね?」

「ええ。俺の、父方の方の親戚ですね。事故に遭ったそうです」


 親戚だから、そこまで情が沸かないのだろうか。それとも、無理をしているのだろうか。


「あの、大丈夫ですか」


 フィーネの気遣いにも、ユアンの表情は変わらない。


「ええ、大丈夫ですよ。親戚と言っても、ただ血が繋がっているだけですから」


 その言い方はひどく冷たく聞こえた。


「両親が亡くなって、親戚にあちこちたらい回しにされながら育てられました。それでも育ててもらった恩があるので感謝はしています。でも、それだけなんです」


 フィーネはまたもや驚きで言葉を失った。


「ご両親、亡くなられていたんですか……」

「あれ、言っていませんでしたか?」

「初めて聞きました」


 そういえば自分のことはあれこれとユアンに知られているが、彼自身のことはレティシアの婚約者であることしか知らない。フィーネは今初めてその事実に気がついた。


「フィーネ?」

「……いえ、それで帰国はいつ?」

「明日です」


 フィーネはそんな急に、という気持ちと、今日会うことができてよかったという気持ちで複雑な心境になった。


「いろいろと面倒なので、本当は帰国するつもりはなかったんです。けれど叔父に一緒に帰るよう強く言われましてね」

「それは、そうでしょう」


 何か言いたげな表情でユアンはフィーネを見つめた。


「あなたを一人にして、大丈夫でしょうか」


 フィーネが戸惑ったようにユアンを見ると、彼は疲れた様子でため息をついた。


「実はレティシアも一緒に連れて帰ろうと思ったんですが、風邪をひいてしまって、とても船に乗れる状態ではないんです」


 レティシアは残る、という事実にフィーネはこれからのことを想像してしまい、気が重くなった。だがすぐに安心するよう微笑んだ。


「レティシア様のことは、こちらも気にかけておきますわ。どうしても心配なら、ニコラス様に頼んで……」


「違います。俺が言いたいのは……いえ、レティシアの看病は家の者にさせます。あなたが気にかける必要は一切ありません」


 いつにない強い口調できっぱりとユアンは断った。フィーネもそれ以上言えず、口をつぐむ。

 二人はどちらともなく歩きだし、ユアンがぽつりぽつりとまた話し始めた。


「俺が心配なのは、あなたのことです。俺が帰れば、ニコラス様はますますレティシアに会いに行こうとなさるでしょう。彼に逆らえないあなたは、黙って見送るだけ。それを思うと、やはり帰る気にはなれないんです」


 ユアンは視線を前にしたまま、厳しい目をして言った。


「いっそ断ろうかとも思ったんですが、親戚には幼い頃面倒も見てもらって、どうしても無視するわけにもいかず……」

「当たり前です」


 フィーネはこんな時まで自分を心配するユアンに、腹が立った。


「私のことなんか心配なさらなくて結構です。それよりも今はご自身の立場を心配なさるべきです」

「ですが」

「私は、あなたに心配してもらうほど弱い人間ではありません。見くびらないでください」

「……説得力があまりありません」


 ユアンはいつになく弱気な表情で笑った。


「心配なんです。レティシアを残して、あなたを一人にするのが。あなたはいつも一人で強がって、弱音も吐かず、苦しんでいる。そんな人間を一人にする方が、よほど無理というものです」


 自分はそんなにも頼りないものかとフィーネは内心ショックだった。だが本音を言えば、ユアンがいなくなることは心細くもあった。ニコラスとレティシアが二人で微笑む姿を見ても耐えられたのは、ユアンが隣でいつも嫌味を言ってくれたおかげだった。


 そんな彼が急にいなくなると聞いて、フィーネはとたんに心細さを感じた。それでも、今は自分の我儘を通しているべきではないだろう。


「レティシア様のことなら、大丈夫です。今までと同じです。あなたがいなくても、耐えられます」


 心配しないように、わざと明るく言ったのだが、ユアンは何とも言えない微妙な表情をした。


「それはそれで複雑ですね」

「……とにかく、明日出立するのならば、早く帰りませんと」


 フィーネが急かすように言うと、ユアンはそれに逆らうように立ち止まった。


「早く……」

「フィーネ」


 ユアンが、懇願するようにフィーネの手を握った。その手がかすかに震えていることに、フィーネは驚く。


「どうか、無茶だけはしないでくださいね。辛くなったら、俺の叔父の家へ逃げて構いませんから」

「……叔父様も、ご一緒に行くのでしょう?」

「ええ。でも、家の者には説明しておきます」


 そんなことする必要ないと言っても、ユアンは譲らなかった。そのあまりの必死さに、とうとうフィーネは頷いてしまった。それでもなおユアンは不安そうだった。


 フィーネからすれば、いったい何を彼はこんなに心配しているのかわからず、逆に不安に駆られる。


「いっそ、俺と一緒について来てくれませんか」

「ユアン」


 いい加減にして下さいとフィーネは彼を睨んだ。


「私のことより、ご自身のことを気にかけて下さい」


 フィーネが語気を強めて言うと、ユアンは渋々と頷いた。それでも握った手はまだ離さず、ますます力を込めてくる。


「必ず、必ず帰って来ますから。待っていて下さい」

「……帰ったら」


 フィーネもまた、彼の無事を祈るようにそっと握り返し、囁くような小声で素早く言った。


「帰って来たら、あなたのこと、教えて下さい」


 ユアンは目を瞬かせて、フィーネの顔を見つめている。


「どこか、具合でも悪いんですか」

「いいえ、どこも悪くありません。いたって健康です」


 言いたいことを言って満足したフィーネはぱっと手を離して再び歩きだした。ユアンが慌ててついてくる。


「でも、あなたが俺のこと知りたいだなんて……いったいどうしたんですか?」


「どうもこうもありません。ただ、あなたは私のことをあれこれと聞いて知っているくせに、私はあなたのことを、何も……嫌味を言うことが趣味なことくらいしか、知らないんですもの」


「嫌味を言うのは別に趣味ではありませんよ」


 ユアンがすかさず異議を唱えたが、フィーネは無視した。それどころではなかった。


「だから……」

「だから?」


 ふう、と息を吸って、らしくないことを言った。


「絶対に、帰ってきて下さい。怪我なんか、事故なんか、遭わないで下さい」

「それは俺を心配している、ということですか?」

「……好きにとって構いません」


 また彼は何か言うだろう。言えばいい。その覚悟で伝えたのだから。


「フィーネ」


 振り向くと彼は、ただ優しそうに微笑んでいた。雲間から差し込んだ、冬の暖かな日の光に照らされて、とても儚げで美しい笑顔だった。


「ありがとうございます。とても嬉しいです」

「もう、早く行ってください」


 なんだか無性に恥ずかしくなったフィーネがユアンの背を押して無理矢理行かせようとすると、彼は彼女の腕を引っ張り、耳元で優しくささやいた。


「必ず戻ってきますから。また会いましょう」


 文句を言う前に、ユアンはさっと離れ、さようならと別れを告げた。


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