覚悟
フィーネは自分がどこへ向かえばいいのか、わからなかった。ただ、もう一度あの騒がしい喧騒に入っていく勇気はなく、一人になりたいと広大な屋敷を彷徨い歩いた。
そして、誰もいない空き部屋を見つけ、身を隠すように体を忍びこませた。部屋の中は月の光が差し込んでおり、十分すぎるほど明るかった。
部屋には化粧台が備え付けてあり、フィーネはふらふらと鏡の前に立ちすくむ。瓜二つのそっくりな顔立ち――けれどニコラスはフィーネをレティシアだと最後まで認めることはなかった。彼女の面影をフィーネに求めながらも。
どこか抜け落ちたような女の表情に、一筋の涙がこぼれ落ちた。
その時ようやくフィーネは自分が今もニコラスを愛しているのだと気づいた。
どこかで期待していたのだ。彼が今度こそ自分を見てくれると。フィーネ自身を愛してくれると。
でもそれも、もう叶わない。レティシアという本物が現れたから。
フィーネの役目は終わった。
死ぬ間際までレティシアを求めた人だ。そんな最愛の人とようやく巡り遭えた。どれほどニコラスは喜びに震え、レティシアを抱きしめたかったことだろう。愛していると言いたかっただろう。
彼女の代わりを引き受けてきたフィーネには、ニコラスの気持ちが痛いほど理解できた。よかったですね、ようやく会えましたね、とフィーネは祝福してあげるべきだった。
(それなのに、私はどうして……)
鏡に映る自分の頬を、フィーネは右手でそっと撫でた。静かに流れる涙はオペラ・グローブをはめた指先をすべり、レースをあしらったドレスへとこぼれ落ちた。ニコラスがこの日のためにと、フィーネに一番よく似合うと、選んでくれたドレス。
『フィーネ』
フィーネはくしゃりと顔を歪め、右手を握りしめた。
(嫌だ、渡したくない!)
炎のような熱が、フィーネの体を貫いた。
そうだ。自分はニコラスを愛している。
ニコラスのためなら喜んでこの身を差し出す。たとえニコラスがレティシアを愛していてもかまわない。ニコラスから捨てられるまで、彼のそばにいようとフィーネは決めた。
「わたしは、ニコラス様を、愛している」
フィーネは鏡の中の自分にそう誓った。まだ頬を涙は伝っていたが、目にははっきりと決意の光が宿っていた。
「大丈夫ですか」
はっと声の方を振り返った。扉が開いて、一人のすらりとした青年が立っていた。
「ええ、大丈夫です」
涙をさっと拭い、フィーネは微笑んだ。
ユアン・マクシェイン。
ニコラスの古い友人の甥。
そしてレティシアの婚約者と噂されていた青年。今はじっとフィーネの方を見ている。怪しい女だと思われたかもしれない。
「馬鹿ですね」
「え?」
聞き間違いかと思い、フィーネは青年を見つめた。美しい藍色の髪は襟足で短く切り揃えられ、彫刻のように整った顔立ちは最初とても優しそうに微笑んでいた。
だが今フィーネを見つめる表情には何の感情も浮かべておらず、ただその目にはどこか相手をじっと観察するような鋭さがあった。
フィーネは一瞬その鋭利さにどこか懐かしさを覚え、もっとよく見て確かめようとしたが、その前に彼はフィーネの前を通りすぎ、窓から外の景色を眺めた。
「残念ですね」
視線を外に向けたまま、青年がぽつりと言った。今はもう、寂しそうな表情をしている。
「……どういう、意味でしょうか」
月の光を浴びた彼は、どこか神秘的で、儚げに見えた。やはりどこかで会ったのは気のせいだったかもしれないとフィーネは思った。
それだけ彼の見た目は、一目見たら、忘れられない印象を抱かせた。
「いいえ。ただ、運命のお相手、というのは二人のようなことを言うのかと思いまして」
言われてフィーネははっとした。そうだ。自分がニコラスをレティシアに奪われるということは、この青年もまた愛する婚約者を失うということを意味していた。
青年がレティシアの婚約者であるという噂が本当だとするならば。
フィーネは何と声をかければいいかわからず、ただ目の前の青年を呆然と見つめることしかできなかった。
沈黙がすぎ、青年が振り返った。唇には、親しみを込めた微笑が浮かんでいた。
「あなたとは、仲良くできそうですね」
「……ええ、私も、そう思います」
懸命に微笑んだ自分の顔は、きっとひどく泣きそうに見えたことだったことだろうとフィーネは思った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます