第9話 E=mc2 破
吐く息が白い。
暗闇のなか、街灯の光を伝っていくみたいに歩を進める。
指先が冷たいから、ふう息を吐きかけた。
一瞬だけ温かくなった手は、風に当てられてすぐ冷えていく。
そうして、30分ほど歩いて、僕とかみさまはいつか羽根田さんと一緒に空を飛んだ公園についていた。
そういえば、あれ以来、誰かのネジを回したりしたことはなかったんだっけ。
そんなことを考えて、誰もいない公園の中、街灯近くのベンチまで来て僕は腰を下ろした。
「ついたよ、かみさま」
僕がそう言うと、パーカーのフードからかみさまがゆっくりと顔を出す。
かみさまは僕とここまで歩いてくる間、終始無言だった。塞ぎ込んでいるようにも見えたし、ただ言うべきことがないようにも見えた。
正直、かみさまの心情って言うものはよくわからないけれど、悲しんでたりするのか。
でも多分、なんとなくだけど悲しんでいるのだろう、なんなら僕よりよっぽどちゃんと悲しんでいるようにさえ思える。
だって、僕は正直、自分が悲しいのかよく分かっていないし。
しんどいことがあったら、また電話かけてと羽根田さんは言ったけど、正直、自分がしんどいのかさえ、よくわからない。
頭がぼーっとして、みーやの葬式もかみさまの言葉にも、なんだか流されるままだ。
言われるまま、業者に電話してみーやを燃やした。
業者の車が来て、一時間もたたないうちに、みーやは小さな箱に詰められた白い欠片になった。
手の中に握られていた温かさも、毛並みの柔らかさも、うねうね動いた尻尾も、少し高い鳴き声も、何もかも。
手のひらに収まるくらいの箱になってしまった。
みーやが生きていたころに比べれば、あまりにかけ離れてしまったそれを手渡されて。
家族が落ち込んだり泣いたりする中。
その間、僕は何も言えないまま。何もできないままで。
今、その欠片を握りしめて、かみさまにいわれるまま公園までやってきていた。
僕は一体、何をしてるんだろう。
「さくま、みーやの骨を出してくれ」
言われるまま、僕は握りしめていたそれを開いた。
小さな骨の欠片。僕の爪ほどしかない白く軽い欠片。
かつて、みーやだったもの。
それが今、街灯の明かりの中、僕とかみさまの間にある。
「ネジ、見えるかい?」
言われるまま。目を凝らした。ただ、言われるまま。
小さな欠片に、小さなネジが刺さってる。……二本。
「うん、とりあえず、その二本だけでいい。それを僕が言う通りにしてくれ」
僕は言われるまま、ネジに手伸ばした。
伸ばして。
ネジに触れた。
重くもなく。固くもない。熱くもなく。冷たくもない。
ただ、確かにそこにあるという感覚だけがある。
これを回す。
僕は。
これを。
どうして?
なんで、僕は。
何も聞かないまんま。
「ねえ、かみさま」
気づいたら、口が動いていた。
「なんだい?」
「これ、今から何をやるの?」
「……最後に説明するよ」
「どうして?」
「……わからない、その方がいい。なんとなくだけど、そう想うんだ」
かみさまはそう、珍しく言い淀んだように言葉を漏らした。
「そっか」
結局、何も説明されてはいない。
でも、どうしてか、納得はできた。
こう言ったのなら、かみさまはちゃんと最後に説明してくれるのだろう。
それは、わかっているから。
じゃあ、いいか。
「折角だから、思い出話でもしながらしようか」
「思い出話?」
「そう、君と僕とみーやの話だよ」
かみさまは時々、そのネジを右に一回転、逆側に半回転、そしたらこっちを二回転、締めてから緩めて。なんて指示を出しながら、ぽつぽつと話をし始めた。
「まあ、みーやはよくわからないやつだったね」
「ネコだからね」
「まず言葉が通じない」
「うさぎの人形と通じてるのが、そもそもおかしいんだよ」
「それもそうだ。まあ、でも悪い奴じゃなかった」
「そうかなあ、かみさま結構、引っかかれてたじゃん」
「ああその節は酷い目に遭ったな、やっぱり悪い奴かもしれない」
「ははは、まあネコだからね」
「違いない。まあでも、僕的には仲間意識みたいなものもあったんだ」
「へえ、どんな仲間?」
「うーん……なんというかな、さくまの励まし仲間かな」
「僕の?」
「ああ、みーやはよくさくまが落ち込んだら、構いに行ってただろ」
「……うん、よく鳩尾踏まれたよ」
「うん、ああすれば元気になるって、みーやはわかってたからね」
「何だそれ」
「あそこを押すと人間はよく反応するだろう? みーや的にはあれが人間を元気にするスイッチだったのさ。だからよく押していた」
「みんな、苦しくて反応してただけだけどね」
「だね、そこはネコだから。まあ、少なくとも悩んでいることから気はそれるだろう?」
「まあ……ね」
「さくまの姉の、みことに僕は買われたから、時期的には僕の方が先輩だけど。気分的には長年の友達だよ、二人してあの家を元気づけていたようものさ」
「……そっか」
「きっと、動物もかみさまもね、あんまり変わらないんだ。僕らには『今』しかない。人間みたいに、『過去』とか『未来』で悩まないから。強いて言えば僕らの願いは、今、目に映る君たちが幸せになること、だけなんだよ」
「……かみさまはともかく、ネコがそんなこと、願うかな」
「願うさ。だって機嫌のいい人間と一緒にいた方が、いっぱい遊んでもらえるし、餌もたくさんもらえるだろ。なにより、見ていてこっちもストレスを感じない」
「はは、現金だなあ」
「生き物として真っすぐ生きているだけだよ。そしてその真っすぐさで、みーやはきっと誰より、あの家族の幸せを願っていたよ」
「そーかな」
「そうだよ」
「餌のために」
「遊びのために」
思わず笑った、うさぎの人形と笑い合った。
おかしな日だった。
いやきっと、かみさまが動き出してから、ずっとおかしな日ばかりなんだけど。
「ねえ、かみさま」
「なんだい、さくま」
「僕ね、実は今、あんまり悲しくないんだ」
「そっか」
「うん、なんでだろ。悲しむべきだろなって想うのにね、なんでかな、悲しくないんだ」
「うん」
「それどころかさ、なんかぼーっとしてさ、頭上手く回んなくて、なんか流されるまま、ここに来るのも流されるまま歩いてる気さえしてさ」
「うん」
「それがさ、……なんだろ、わかんないんだよ」
「そっか」
「わかんないよ、なんで、なんだろ」
「……」
「……」
「さくまはさ」
「……何」
「大事な何かをなくしたの初めてだろ?」
「……え?」
「おばあちゃんは、どっちも生きてるし。おじいちゃんは、片方亡くなったけど、さくまが生まれる前の話だ」
「……」
「大事な何かが、死んだところは見るのは初めてだろ?」
「……」
「そしたら、気持ちの整理がすぐにつかないのは当り前さ、全部初めてなんだ。ゆっくり、ゆっくり感じていけばいい。きっと今は、まだ何の整理もついていないんだろ。それこそ流されているだけだからね」
「……そうなの、かな」
「そうだよ」
「なんでかみさまに、そんなことわかるの?」
「わかるさ、僕は君から生まれたんだから」
「え……」
言葉の意味を問う前に。
「さ、そのネジで準備は終わりだ、約束の時間も近い」
かみさまはそう言って、すっと腰を上げた。
「どうすんの、これ、かみさま」
「ああ、その
え、と思わず声が漏れた。
ネジを抜くってことは。
この欠片をここに縫い留める力から解き放つこと。
「……そんなことしたら」
酷いことになるっていったのは、かみさまだ。
「大丈夫、そうならないようにしたから。安心して抜いていいよ」
「……」
安心しろって、言われてもな……。
かみさまはそんな僕を見て、少し視線を遠くにやった。その視線を辿ったら、高台の下に広がる夜の町が見えた。
「ほんとはさ、きっと海や山にでも撒いてあげるべきなんだけどね。生き物は生き物の連鎖に還る。それが常だ」
「……」
「でも、みーや、はもういない。骨はどこまで行っても、ただの骨だ。だから、これはただみーやだった何かで『綺麗なものが見たい』っていう、ただそれだけの僕のわがままだよ」
「……結局、未だ聞いてないよ。今から、何をするの?」
「……これから、みーやの骨を
かみさまはそう告げた。
「……どういうこと?」
「今触ってたネジね。君たちで言えば、頭に刺さってるネジなんだ」
「……」
「宇宙が生まれた時、そこには膨大なエネルギーとしての『光』しかなかったんだ。石も鉄も空気も水も何もありはしなかった。たくさんの『光』が収束して初めて、形を持つ、それが重さなんだ。つまり、僕達がここにいるっていう『質量』はたくさんの『光』の圧縮でもあるんだ。今、君が触っていたのはその『質量』のネジだ。それを解き放つと『質量』はすべて『光』に還る」
「……」
「抜くと酷いことになるんじゃなかったっけ?」
「大丈夫、抜き方にコツがあったね。指向性を持たせて、空に向くようにしたし、放出するエネルギーも可視光や許容範囲の熱に留めてある。ちょっと眩しいかもしれないけどね」
「……」
「もしかしたら、いつまでも、骨のまま、思い出の物として残してあげるべきなのかもしれない。そっちの方が喜ぶかな、いや、みーやはそんなこと気にもしないかな」
「……さあ、わかんない」
「……そうだね。だから、これはわがままだよ。僕がみーやを『光』に還したいっていうわがままだ。あの子が最期に残したもので『綺麗なものが見たい』んだよ」
「……そっか」
「どうする、さくま。結局、ネジを抜くのは君だ。君が決めていいよ」
かみさまに問われる。
そう、何処まで行っても、選択権は僕に委ねられてる。
今、この手にあるネジの欠片を、抜くか、否か。
正直、どっちでもいい、構いやしない。
だって何も感じないのだし。
ただ悲しいという気持ちすら、僕は分かりきっていないのだし。
「ねえ」
「何だい」
「もし、ネジを抜いて、みーやが『光』に還ったら」
「うん」
「僕、ちゃんと悲しめるかな」
「……さあ。でも、そうなればいいね」
キィンと高い音がした。ネジが抜ける、金属の音。
抜いたのは右側から。
別に、かみさまにそう指示されたわけじゃないけど、なんとなく、分かった。
抜くなら、こっちからだ。
こっちが『重力』のネジだ。
結局、答えは出ない。出ないまま、手を動かした。
その先に、何かあればいいと願って。
続けて、同じ高い音がもう一つ。
手からこぼれた二本のネジは、地面に落ちる前に音もなく消えた。
もう、二度と戻らない。
手からふわりと、みーやの欠片が浮き上がる。
重力がなくなったから、徐々にふわりとふわりと浮かんでいく。
白い欠片は薄く発光して、夜空の中に消えていく。
月明かりに照らされた雲の影の中に、ゆっくりゆっくりと消えていく。
それから。
光る。
薄い光が。
徐々に、徐々に。
雲の形を変えていく。
ゆっくりと、でも確かに雲が光を中心に搔き消えていく。
そして。
ある一点で。
光は瞬いた。
溢れんばかりに。
眩いばかりに。
空の闇をかき消した。
星よりも。
月よりも。
今、何よりも輝いて。
夜を。
空を。
埋め尽くした。
雲が晴れていく。
たった今、この瞬間だけ、昼と夜が裏返る。
音が響いてる。
誰かが泣いているみたいな音だ。
低く、大きく、この空を埋め尽くすほどの音だ。
まるで空が悲しんでいるみたいな。みーやの死を嘆いてるみたいな。
そんな音が鳴り響いて。
光はやがて見えなくなった。
遠くの方で星みたいに瞬いて。
雲が吹き飛ばされて開けた夜空だけが、ただ残っていた。
空の声は木霊して、まだどこか遠くで泣いている。
「帰ろう、さくま。雨が降るよ」
言われるまま、かみさまをパーカーに入れて、僕は歩きだした。
夜の街は一分ほど前の光なんて何もなかったみたいに、変わらず暗いままで。
空を見ると、月明かりの中、ゆっくりと吹き飛ばされた雲たちが集まっている。
雲を吹き飛ばすほど放射された膨大な熱が上昇気流を作ってるんだ。かみさまの言う通り、そろそろきっと雨が降るだろう。
なあ、みーや。お前は見てたかな。
見てたとしたら、気にいってくれたかな。
これが僕の精一杯の送り火だよ。
僕が最大限作れる『綺麗なもの』だよ。
なあ、みーや。
お前は。
死んだんだな。
もう、帰ってこないんだな。
だって、お前の欠片。なくなっちまったもんな。
僕が、そこに繋ぎ止めてたもの、抜いちゃったもんな。
それでもお前は、帰ってこないんだものな。
ああ、そうか。
これは儀式だったんだ。
ネジを抜くことで初めて、僕はみーやが死んだって理解できたんだ。
それを、そんなわかりきったことを、分かりきれていないかったことを。
理解するための儀式だったんだ。
瞼の裏には、さっきの空を裂くような光の影が、まだ残ってる。
解き放たれた『質量』はもう戻りはしない。なにせ、物体を1グラム生成するのに、大体原子爆弾一個分のエネルギーが必要になる。裏を返せば、『質量』を解き放った時のエネルギーはそれだけ凄まじいのだ。小さな骨の欠片で夜空を晴らせるくらいには。
そんなこと、知識だけなら僕はかみさまに説明される前から知っていたんだ。
雨が降り出した。
もう、吹き飛ばされた雲が集まって上に昇っていったんだろう。
冬には珍しい通り雨だ。
冷たいそれに身体が震えた。
なあ、かみさま。
僕、泣いてるのかな。
雨のせいでさ、わかんないよ。
俯いたら、うさぎの人形の湿った手が、僕の頬を撫でていた。
※
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます