第8話 E=mc2 序
その日は珍しい日だった。
カバンを開けても、かみさまがそこにいない。
羽根田さんに聞いても、彼女のところには来ていなかったらしい。
静かな授業時間、クラスメイトと喋る昼休み、いつも通りの、でも随分と久しぶりなそんな時間。
ついこの間まで、別に違和感はなかったのだけど、気付けばかまさまがいないことの方が違和感になっていた。そんなころ。
冬休みも近い、よく晴れた冬の日のこと。
かみさまがいない日。
なんとなく、寄り道もせず真っ直ぐ家に帰った。
そんなに、いつもと変わらない、そんなある日。
家に辿り着くと、かみさまは居間の隅っこっでじっとしていて、その腕には飼い猫のみーやの頭が乗っていた。
なんだ、みーやと遊んでたのかって、軽く息を吐きかけたそんなころ。
「ねえ、かみさま」
「なんだい、さくま」
「それ、みーやは―――――」
「ああ、そうだよ―――」
「――――そっか」
そっか。
居間の端っこ、で僕が生まれてすぐにやってきた老猫はとても静かに横になっていた。
「死んだんだね」
「うん」
涙は不思議とこぼれてこなかった。
※
みーやは困った奴だった。
爪癖が悪くて、よく物を噛んで爪とぎも節操なしにするものだから家じゅうボロボロになったっけ。
僕が小さい頃は、かみさまもよく標的にされて、腕やらなにやらボロボロにされたものだった。今でもかみさまにはその縫い跡がたくさん残っている。母さんがやった縫い跡は見栄えもよく綺麗で、僕が小さい頃にしたものはほつれていて、ちょっと目立つ。最近、僕がした縫い跡はそれに比べて幾許かましだった。
よく食卓に上ってつまみ食いをしてた。食べてはいけないものも自分で口に運んで食べたりするから、野生の勘が死んでるんじゃないかって、家族で呆れてたっけ。
寝転がってる人がいると、すぐ上に乗ってくる。そして理解しているのかなんなのか、的確に鳩尾を踏み抜いてくることに定評があった。
鉛筆に、床に、カバンに、たくさんのひっかき傷がある。
ネコ独特の匂いがすると、鼻のいい友達に指摘されたこともある。
お風呂に入るのが嫌いで、とにかく洗うのに苦労した、最近はもっぱらトリミング店に預けてばかりだったけど。
疲れたときに意味もなく抱きしめたことがある。
小さいころは同い年の友達みたいに一緒に転げまわった記憶がある。
僕がかみさまに、話しているとよく部屋まで来て構いに来た。
落ち込んでないで遊べって言うみたいに。
一回、クラスで犬派か猫派かみたいな話し合いになって、猫飼ってる感想はどうだと聞かれたけど、上手く応えられなかった。
何せ、ほとんど生まれたときから一緒にいるのだ。
右腕がついてる感想はどう、と聞かれてるのと変わらない。初めからあることがあたりまえだったものの感想は問われるのは難しい。
もう、いい年だった。人で言えば腰の曲がったばあちゃんだ。
加えて悪食のせいか、ちょっと消化器官の質の悪い病気にかかってしまった。
入院しても治らないから、家で薬でも飲んで養生するようにお医者さんに言われたんだっけ。
そういえば、友達に犬を飼っていた奴がいたんだけど。
そいつは、犬が死んだ時、もうペットは飼わないって言っていたっけ。
なんでって聞いたら。
だって死んじゃうだろ、って言ってたかな。
その時、僕は何を想ったっけ。
僕は今、何を想っているのかな。
僕はスマホを開いて、家族ラインにメッセージを流した。
※
『それでどうしたの?』
「土日だったからさ、そのまま業者に連絡したんだ。ペット火葬車ってのがあってさ、ちょっとおっきめのワゴン車で、その場で焼いて骨にしてくれるんだ」
『そっか……ねこちゃん死んじゃって、大変だったね……』
「うん、それで。羽根田さんにお願いなんだけどさ、今日の夜の九時ぴったりに窓開けて、空を見ることってできる?」
『うん……できるよ、でも、なんで?』
「わかんない、かみさまが見てる人が多い方が寂しくないからって」
『そっか……うん、わかった。今日の夜九時に空を見ればいいんだね』
「うん、ありがとう。お願いね」
『ううん、こっちこそ、話してくれてありがと。また、しんどくなったら電話してね』
「……うん」
「じゃあ、行こうか。さくま」
「うん」
僕はスマホをポケットにしまって家を出た。パーカーのフードにかみさまをいれたまま。
ご飯も食べ終えた、時刻は夜八時ごろ。
家族に、骨を撒いてあげたいからと言って、少しだけもらったみーやの骨を握りしめて。
夜の街に歩き出す。
今日は僕たちなりのみーやの葬式だ。
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