第6話 g = 9.8 m/s2 転

 僕達はほどほどな時間をかけて、夕暮れの公園まで辿り着いた。


 町全体が一望できる、高台の公園。住宅地から離れすぎていて、人があんまり寄り付かない、そんな場所だ。


 ここならきっと、ちょうどいい。


 空を見上げると、夕暮れが夜に流され始めていて、紫めいた黒がもう空の大半を覆いつくしてる。


 そう、もうすぐ夜が来る。


 さて、それで、どうしたものかな。


 空を見上げた首を戻して、軽く息を吐いた。


 「なんだ、ノープランだったのかい?」


 頭の上から、かみさまがそっと僕を覗いてくる。


 「かみさまが教えてくれると思ったんだよ」


 かみさま頼みもいいとこだけど、そもそもこのうさぎの人形が秘密を明かそうと言い出したのだ。それくらい、してもらわなければ。


 「そうかい、じゃあ期待にでも応えようか」


 対するうさぎの人形は、どこか喜色めいた声で楽しげに、ぴょんと僕から飛び降りると、近くのベンチにそっと腰を掛けた。


 「え、あ、また動いた!」


 羽根田さんは、突然移動した人形に眼を見開く。かみさまが動くたび、いちいち吃驚してくれるから、かみさま的にも随分と楽しそうだ。


 楽しそうにかみさまはくっくと声を漏らす。そんな僕も苦笑しながら、うさぎの人形と視線を交わす。


 「さて、じゃあ始めようか」


 「うん」


 「えと、上谷くん……これから一体何が起こるのでしょう……」


 何の説明もなしに連れてきたものだから、困惑する彼女に、僕たちは何ともない風に口を開く。


 「なにって」


 「実践だよ」


 「え……?」


 「ネジを抜いたらどうなるか、試してみたいって言ったでしょ? だから、試さしてあげるよ」


 まだどことなく、困惑した彼女を置いて、僕はちらっとかみさまを見た。


 かみさまは自分のおなかにあるネジを僕に向けて、小さな手で指さしてくる。それを、緩めろと。


 示された通り、僕が人形の腹に手を当てて、ネジを緩める。一回転、二回転、僕がやった時より随分早くかみさまの身体はふわりと浮きだした。人形だから、浮くのが早いのかな。


 「え?」


 突如、浮き始めたうさぎの人形を見て困惑する羽根田さんをよそに、僕も自分のネジを緩めていく。


 一回転、二回転、もう少し緩めれば浮き出すだろうけど、まだそこまでしなくていい。


 その程度でも、もう身体は浮きかけている。軽く体勢を崩しても、ゆっくりと柔らかいソファにでも寝転がるみたいに傾いていくだけだ。時折、両の足が地面から離れたりもするけれど、こけていくような感じもない。


 「え? ほんとに?」


 夕闇の空の中、身体をふわりと浮かせながら、僕はちらっと羽根田さんを見た。


 「一緒に浮いてみる?」


 そう尋ねると、羽根田さんは一瞬、迷ったような顔をしたけれど、何かを決意したようにぐっと手を握った。それから、僕を見てしっかりと頷いた。その様に、思わず微笑みたくなる、勇気のある子だ。本当に。


 彼女がぎゅっと僕の手をにぎると、そこだけがアンカーになったみたいに重力に引っ張られる。そこを伝って彼女の腰にそっと手を振れた。


 羽根田さんがちょっと怖がるように目をつむる。


 僕はそれを見て、出来るだけ怖がらせないようにおなかにあるネジを、ゆっくりゆっくり緩めていく。


 一回転じゃあ、何も起きない、でも二回転もすると、ふわりと身体が浮き出した。


 驚きで目を見開いて僕を見る彼女に、安心してもらおうとそっと笑いかけてみる。


 そうしていると、僕の頭にぽんと何かが乗ってきた。案の定、かみさまだけど。


 「さあ、さくま、つむぐ。夜の空中遊泳としゃれこもう」


 パイロットみたいに僕の頭に引っ付いて、楽しげにかみさまはぴょんぴょんと跳ねている。よく飛び跳ねてまあ、うさぎの人形の面目躍如ってかんじなのかな。


 「いや、羽根田さんには聞こえてないだろ」


 「え、待って。聞こえてる、聞こえてるよ?! しかも、動いてる?!」


 慌てたように、言葉を紡ぐ彼女を、驚きで思わず見返した。


 それから、頭の上のうさぎの人形を見やると、どことなく笑ったような顔が待っていた。もちろん、表情なんて浮かんではいないけれど。


 「どうやら、ネジを緩めた人には僕が見えるし、声も聞こえるらしい」


 「それはまた、随分な発見だこと」


 「わあ、わわわ!」


 「あ、つむぐ、さくまから手を離すと、君を下ろす手段がなくなるから、離さないほうがいいよ」


 「あっぶな、それ早く言ってくれよ」


 「う、うん! わかった、ずっと握ってる!」


 そう言って、羽根田さんはちょと過剰なまでに僕の手をぎゅっと握った。ちょっとだけそれに困りながら、ふわりふわりと僕らは浮かぶ。


 僕のネジを緩めていくとそれに、引っ張られるみたいに、僕らは徐々に上に浮き始める。


 10センチほど浮いた。羽根田さんがちょっと怖がったように身を寄せてくる。


 30センチほど浮いた。もう、地面に触れられるものはない。


 1メートル浮いた。それだけで公園が随分と小さく見えた。


 2メートル浮くと、滑り台が僕の視界の下にあった。


 3メートル。


 4メートル。


 もっと高く、どこまでも高く。


 浮けば浮くほど、風の音が世界を満たしていく。


 視界に映る物はどんどん小さくなって、僕の足元に広がってく。


 夜の街を、夕暮れの空を、二人と一匹が浮かんでく。


 時折、風に揺られて上下を失って、またそれとなく二人で繋いだ手を辿って体勢を元に戻した。


 羽根田さんは、最初こそおっかなびっくりって感じだったけど、途中から随分とはしゃぎ出して、はしゃぐあまり、パンツが露になっているのを指摘するのに苦労した。


 顔を真っ赤にする彼女の横で、僕は手だけは離さない様にぎゅっと握って、浮かびながら眼下に広がる空を眺めてた。


 もう、近くの山も越えて、そのうち、雲にでも届きそうな、そんな空の中に僕らはいた。


 もう、僕もかみさまも羽根田さんも声を出さない。


 少し冷たく勢いのある風がごうごうと僕らを揺らしてる。


 ここから羽根田さんと手を離してしまえば、二度と地上に帰してあげられないと言う恐怖も。


 本来、感じているべき命の危険も。


 夜空の中に、ぽつりと浮かぶもの悲しさも。


 あるにはあるけど、それらの全部を飲み込んでしまうほど、ただ空は広かった。


 遠く向こうまで世界が見える。


 ほんの少しだけど、地球の丸みを感じ取れる。


 目に映るその全てが遠く、大きく、途方もなかった。


 僕達は、こんなところで生きていたのか。


 こんな星の上で生きていたのかなんて、改めて思い知る。


 大きいな。


 とても当たり前なことだけど。


 世界はとても大きいんだ。


 僕の想像もつかないほど。


 僕の眼さえ届かないほど。


 ふと、かみさまが空高くを指さした。


 僕と羽根田さんは誘われるまま、夜空を見る。


 星があった。


 数え切れぬほど、埋め尽くすほどの星があった。


 星って、こんなにあったっけ。


 空に浮いて、視界が広いからかな。


 顔を上げれば、空と雲以外、何も見えない。


 埋め尽くさんばかりの夜空と、そこに瞬くだけの星しか見えない。


 ……。


 ああ、そっか。


 いっつもは、電灯や街灯の下で見てるから気づかないのだ。


 見えない星は元からきっとこんなにあって。


 どこか遠く、何年も何十年も前の光が、今、こうして僕達の眼に届いてる。


 そしてその向こうには、太陽みたいな大きな星が、何十、何百、何千、何万、ともすれば、もっとたくさんどこか遠くで輝いてる。


 僕達が一生かけて歩いても、届きもしないほど遠くに、その光は確かに瞬いてて、そこにも確かに世界があるんだ。


 しばらく、何も言わず、何も言えず。そうやって過ごした。


 流れるような風の音と、夜空に瞬く光と、宇宙を満たす暗さだけが僕達を包んでいた。


 










 くしゅん、と音がした。


 目をやると、羽根田さんが少し寒そうに身体を縮こませている。


 ああ、そうだよね。高い所まで登ってるし、寒くて当然だよね。


 僕はそっと自分のネジを締め始める。


 それに合わせてゆっくりと、僕にしがみつく二人を連れて視界が下に下がっていく。


 落ちすぎないように、昇っていかないように、ゆっくりと微調整してふわふわと僕たちは地面へと向かっていく。


 不思議な、感覚だった。


 肩が、足が、腹が、頭が。


 徐々に重さを取り戻していく。


 当たり前にありすぎて、感じることすらできなかったそれらが、僕の身体に戻ってくる。


 彼らが縫い留めて、初めて僕はこの星の上に立っていたのだと。


 そんな当たり前のことを、なんでか今さら思い知る。


 大分寒くなってきたのか、羽根田さんは僕に身を寄せていた。少し暖かい感覚が僕の腕にぴったりと張り付いていた。


 緊張や、興奮より、安心感の方が強い不思議な暖かさだった。


 10分程して、僕達は元の公園に辿り着いた。


 少し風に流されたりしてないか心配だったけど、なんとか戻ってくることができた。


 誰もいないことを確認してゆっくりと地面に降り立つ。


 それから、羽根田さんのネジをゆっくり締めて。同じようにかみさまのネジも締めておいた。


 かみさまは意気揚々と、羽根田さんはちょっとつんのめりながら、地面に着地する。


 そこまできて、ようやく僕は長く長く息を吐いた。


 あれ、ちょっと気でも張ってたかな?


 全身から力が抜けて、軽くへたり込む。


 重力か、ネジを緩めた反動だろうか、それとも。


 「あれ? 上谷くん、大丈夫?」


 羽根田さんはちょっと慌てたように僕をベンチに座らせてくれた。


 でもちょっとダメだな、頭がふらふらするし、少しばかり痛みもある。


 「緊張しすぎだね、なんだかんだずっと、手を離さないよう気を張ってたろ」


 かみさまはそう言って、僕の頭にぴょんと飛び乗った。


 「もう、だめだよ、かみさま。今、上谷くん、しんどいんだから」


 「大丈夫、僕の重さじゃあ、大して変わらないよ。むしろ、さくまは、僕がこうしてるほうが落ち着くんだ」


 「もう、そんなこと言って……」


 「ところで、ネジを締め直しても、僕の声は聞こえてるんだね」


 「あ、そういえば。へー……じゃあ、これからはずっと、かみさまとおしゃべりできるんだね」


 「へえ、らしいよ? さくま」


 「そーかい」


 僕は、ようやく調子を取り戻して息を吐いた。うん、確かに疲れたな。なんだかんだ。


 なので、僕はそのままベンチにごろんと寝転がった。


 ちょっと動く気になれなかったから。


 「風邪ひくよ、さくま」


 「風邪ひいちゃうよ、上谷くん」


 そしたら二人して、僕の頭上で、そんな風に笑ってた。一体、何が楽しいんだか。


 「五分でいいから、寝かせてよ。ちょっと疲れたんだ」


 「「仕方ないなあ」」


 かみさまと羽根田さんはそう言って、僕の頭を笑いながらぺちぺちと叩いてた。


 それから、寝ころんだまま、羽根田さんの手を握ったままなことに気が付いた。


 指から自然と力が抜けて、手がするりと落ちそうになったけど、笑った羽根田さんがそれとなく両手で握り直してた。


 頬が熱くならないよう、気を付けながら、僕は少しだけ、目を閉じた。


 おなかに刺さったネジを、僕をこの場に繋ぎ止める重力を確かに感じながら。

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