僕はある問題の登場人物になったらしい。
ヨウ素溶液
第1話 方程式
5/15 (日) 午後11時56分
「おやすみー」
そう言い放って階段を駆け上っていく。さっき付けすぎたミントの歯磨き粉が、
まだ口の中に残り続けて、染み渡っていく。もう寝る時間だってのに。
寝室のドアを開けて勢いよくベッドにダイブし、足元の毛布を手繰り寄せる。
今日は五月にしては冷えてるから、体を冷やすわけにはいかないのだ。
僕は一ヵ月前にようやく高校生になった。中学の頃は毎日が退屈で、
「早く高校生になりたいなー」なーんて毎日のように呟いていた。
友達がいないわけでも、いじめにあってるわけでもない。
ただ、つまらなかったのだ。
五月病が三年間続く感じ?いや、それはもう五月病じゃないだろ。
いつも寝る前には羊を数えている。この方法を後ろの席の子にアドバイスしたら、「古っ」と一蹴されてしまった。たしかに古典的なやり方かもしれないが、
僕にとってはこの方法が一番眠りにつきやすい。
羊が一匹、羊が二匹、羊が三匹、羊がよんひき、ひつじがごひき...
―――ん?
―――なんだここ。
―――白しかない。
―――夢?
―――「いいえ、違います。」
「ここは『問題』の世界です」
機械的な声色のアナウンスが、白色の空間に響いて不安を煽らせる。
どこから声が伝わっているのだろうか、スピーカーも何もない真っ白な空間だ。
「どういうこと?」
「この世界にはこの世のありとあらゆる『問題』が集まっています。
そしてこの世界に迷い込んだあなたは、『問題』の登場人物となるのです。」
「は?」
いやいやいや、どういうこと?『問題の世界』って...ああ、そうか。
これが”明晰夢”ってやつか。なるほど。
一瞬、これは現実なんだと錯覚しそうになったが、そんなわけない。
夢は意味不明なのだ。この状況は意味不明。
つまりこれは夢である―――?
「夢ではありませんよ。」
「え?」
その声は、夢にしてははっきりとした現実味を帯びていた。
「夢じゃないなら、ここは...」
「あなたは今から『一次方程式』という問題の登場人物になっていただきます。」
「それでは。」
「あ、ちょっ待って」
ぷつん。
問一 Aさんは1800円、Aさんの弟は1000円を持っていました。Aさんはお菓子を8個買い、弟は同じお菓子を6個買いました。するとAさんの残金は、弟の残金のちょうど2倍になりました。お菓子1個の値段を求めなさい。
日付不明 曜日不明 時刻不明
―――僕よりうんと背の小さい男の子が服の袖を引っ張っている。
ちょっと焦げている肌。白が映えるノースリーブに短パン。ザ・少年スタイル。
熱い風が僕の髪を通り過ぎる。季節は夏だろう。
いつものくせで、服の襟元を伸ばした。
ネクタイよりかは短い、ただリボンほど小さくはない、真っ赤なスカーフ。
シャツの裾を上げてみる。その先にあるのは、紺色のスカート。
まさか、さっき見えた『問題』。僕は『Aさん』になってしまったのか?
隅っこにある、カットされた段ボール。中には、ポップなイラストが描かれている袋菓子がぎゅうぎゅうに詰め込まれている。少し木切れている柱には、大量のステッカー。窓際には、戦隊モノのお面が吊るされている。ここは、駄菓子屋だろう。
目を奥にやると、古い畳に座っているおばさんがちらりとこちらを窺っている。
お客も、僕とこの小さい子だけだ。
駄菓子屋のすぐ横にあったカーブミラー越しに自分を見つめる。
女の子だ。黒髪ポニーテール。ザ・女子中学生。
さっきまで、僕は羊を数えていた。なのにそれが、
いつの間にかこんなところにいるのだ。
...現実とは思えない。ただ、夢とも思えない。
今まで味わったことのない感覚が脳を支配する。
「おねえちゃーん」
小さい子供特有の、パワフルな声で僕を呼んだのだろう。
「ぼく●●●がほしいー」
え?
「あ、もう一回言って」
「だーかーらー●●●かいたいー!」
バラエティー番組でよくある”規制音”が入ったかのように、一部分だけ見事に聞こえなかった。自分を疑う。耳を疑うというよりかは、この状況を疑った。
これが『問題』。
何が欲しいのかわかってしまったら、問題の意味がない。
だから、伏せられているのだ。
ポケットに違和感を感じ、手を突っ込み取り出す。
これが『問題』。
念のため反対のポケットも確認したが、ザラザラと布が擦れる手触りしかない。
にしても、現金をそのままポケットに突っ込んでるのは問題としてどうなんだ。
僕は直感が働くほうだ。人並みより。
いや、実際にはわからない。もしかしたら、今まで運が良かっただけかもしれない。
だが、それでも勘は当たるほうだと思う。
”この『問題』とやらを解ければ、僕はここから抜け出せるのかもしれない。”
これは勘。僕の勘がこんな状況で働くかどうかはわからないが、
とにかくそう考えるしかなかった。
問題文で求められているのは、お菓子一個の値段だ。
それさえ分かればいい。問題に答えれれば、物事はうまくいく。
方程式は、中一で習った。Xとか、Yとか、数字と文字が混ざっている式のこと。
こういう形式の問題もやったことがある。数学の山本先生が、
「方程式は中学生にとって一つ目の関門です!何が何でもできるようにする!」と
熱弁を垂れていたおかげで、数学が苦手な僕でもとりあえずはできた。
あの時は嫌々やっていたことが、こんな形で功を奏すとは。
問題文を思い出せ。僕は今1800円、弟は...1000円札を両手で握っている。
多分、それが今の弟の所持金だろう。
方程式は、求められているものを文字に置き換えることで立てる。
お菓子の値段をxとする。そうすると、僕は8x円、弟は6x円買ったことになる。
1800円から8xを引いた数が僕の残金。これを左辺へ。
そして、弟の残金は1000円から6xを引いた数。これを右辺へ。
最後に、弟の残金を2倍にする。よって、こうだ。
『1800-8x=2(1000-6x)』
あとはこれをスマホの電卓で計算すれば…あれ?
スマホがない。
今時スマホを持っていない女子がいるとは。
仕方ない、暗算でどうにか...
1800-8x=2000-12x
移項して...
「はーやーくー」
「待って」
暗算中なんだから声をかけないでくれ。弟よ。
1800-8x=2000-12x から、
12x-8x=2000-1800 になって、
4x=200 両辺を4で割る…
x=50
つまり...
「おーねーえーちゃーんー」
「50円のお菓子か!」
思いっきり声に出してしまった。刹那の沈黙が僕を襲う。
「やかましい」
奥のおばさんが小声でそう言ったのを僕は聞き逃さなかった。
「すいません」
同じくらいの声量で返す。
反射的にすいませんが出るのは僕のくせだ。
この問題は解決した。
あとは50円のお菓子を買えばいいだけ。
問題が解けた安心感があふれてくる、というよりかは、
”分からない”ことが分かった時の達成感、そっちのほうが正しいかもな。
強張っていた背中がほぐれていくのを感じる。
僕は店内をぐるっと見渡し、”50円”の文字を探した。
あった、これ。ソースかつ。50円。僕はそんなに好きじゃないが。
他の駄菓子を見ても、これ以外に50円のものはない。
というか、今になって気づいたが、この駄菓子屋、値段が同じ駄菓子が一つもない。
あれは14。これは25。あれは...23円?
こんな中途半端な値段で売る駄菓子屋は、現実には存在しないだろう。
僕は大きな棚の上段にあるソースかつを、8個...じゃない。8+6個で14個取り、
弟に6個を手渡した。
今だけは、『Aさん』なのだ。僕は、『Aさん』。
黙って新聞を読んでいるおばさんに、弟が「おねがいします!」と元気な声で呼んだ。代金は400円、残金は1400円。一応、弟のお釣りも確認した。700円。
大丈夫だとは思いつつも、やっぱり不安になるのが数学の問題らしい。
ぷつん。
―――「『Aさん』、お疲れさまでした。」
―――問題を解くと、終わるのか?
―――「はい。問題に対して確実な答えを把握し、その通りに行動すれば。」
―――これは夢?それとも現実?
―――「夢でも現実でも、明晰夢でもありません。ここは、『問題の世界』です。」
―――よくわかんないな...まあ、そういう夢だったってことにしておくよ。
―――「はい。それではまた。」
5/16日 (月) 午前7時4分
5月にしては暑い朝だ。肩までかけていた毛布は、ベッドから崩れ落ちている。
変な夢だ。夢というか、夢ですらない、『問題の世界』かもしれないが。
よくわからないことばかりだった。白一色の空間。機械的な声。
あの問題の答えは、あれで正解だったよな?
現実じゃないとはいえ、女の子になれるとは思わなかった。
...もうちょっと楽しめばよかったな。
むくりと起き上がり、側に畳んである制服とネクタイを抱えて階段をゆっくりと下っていく。学校で習ったことが久しぶりに役に立ったー、なんて思いながら。
【第1話 方程式 終】
僕はある問題の登場人物になったらしい。 ヨウ素溶液 @Youcha_88
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