第6話 妖精魔女は愛に迷わない(下)

   3


 魔女の夜会。馴れ合うことをしない魔女たちも、時に交流の機会を設ける。人間の世では〝退廃と享楽のサバト〟と人間の間では言い伝えられているそれ。しかしその実態はただの集会、それに伴う宴会、そこにいるのが魔女たちというだけだ。そう仰々しいものではない。

 海水にずぶ濡れになった二人の身を、魔法で清めさせた後。


「とりあえず火と食べ物と音楽があればいいのよ」


 そう言ってアンゼリカは夜会の場を作り始めた。ノエとアンゼリカが対峙したこの窪地。そこへ勝手にレーラの家の椅子やテーブルを、指を振って動かし並べていた。

 ちなみにノエは不在だ。『アナタの料理が食べたいわ!』と材料もないのに無茶振りをされ、調達へと向かった。「このくらいは無茶のうちに入りません」と完全に調子を取り戻していた。

 レーラは、何故自分が夜会の数に含まれているのかと疑問に思いながら、アンゼリカの用意を眺めていた。ひとり家に帰って寝てもいいのだが。「二人じゃ夜会にならないじゃない!」などと言いくるめられて、ここにいる。


 アンゼリカは、山程の贈り物と同じように楽器を出現させ、周りの木々に花を飾り、そして窪地の中心には大きな篝火を用意する。


「これでよし。妖精魔女にふさわしい、かわいい会場になったわ。ノエが喜んでくれること間違いなしね!」


 妙に可憐な花々を飾り付けられた木々に、レーラは同情めいた眼差しを向ける。緑生茂る季節とはいえどことなく陰鬱な森だ。明るい花々は森の雰囲気にあっていなかった。


「ねえ。おまえはどうして、あの娘に惚れたの」


 ノエを気に入った理由を、聞いてみることにした。アンゼリカは指先を唇に当て、しばし考え込み、あっさりと答えを口にする。


「あの子といる時間は楽しかったって、気付いたのよね」

「それだけ?」


 予想はしていたが、浅い。


「それだけよ。でも、それだけで、海の底に行かせるには惜しくなった」


 アンゼリカは続ける。


「ワタシたちが、誰かに〝惜しい〟なんて思うのは、生涯で何度あるかしら。悩んでいたら花は枯れる。花妖精は皆それを知ってるわ」


 たとえ浅くても、考えなしではないと示すように。とびっきりの花のように美しく微笑んだ。


「だからね、それだけで、惚れたってことでいいのよ」


 愛浅くも確かに恋する妖精は、そう、迷いなく言い切って。赤い瞳を柔らかに細める。


「だからレーラ。……あの子の願いをちゃんと、諦めさせてね」

「言われずとも。私があんな願いを叶えるはずがない」


 抵抗する方が疲れるならば基本、レーラは早々に諦めるたちだった。夜会の参加についてもそう。他の魔女たちのように通すべき我はない。だがノエの件は、例外だ。


「精々対価だけ無駄に支払わせてやるわ」

「海辺の魔女は対価に愛の物語を、だったわね。レーラって本当物好きなんだから」

「別に好きじゃないわ」

「好きじゃないのに集めてるの? どうして?」


 レーラは口を噤む。アンゼリカは不思議そうに目を瞬く。


「あなたって、変な魔女よね。時々なんだか、魔女らしくない」


 魔女らしい魔女。それはきっと、アンゼリカのように自由気ままな者を指す。自由も気ままも、どうにもレーラには似合わない。


「あら……? そういえば。レーラって、何の魔女だったかしら?」

「海辺の魔女」

「そうじゃなくて。私は花妖精だけど──アナタって、『何』だったっけ?」


 レーラの纏う空気が一変する。気怠げなそれが、澱んだ冷たい水のように。けれど、アンゼリカは気付かず口ずさむ。


「怪物? 幻想? 水妖精の類かしら?」


 肩を掴む青白い腕。見開かれた瑠璃色の双眸。瞳の中に映し出され、アンゼリカはようやく息を飲んだ。その目は、恐ろしいまでに澄んでいた。正気を捨て去る淵の色。


「それを。──二度と私に、聞くな」




「お待たせいたしました。泉の方で、お魚を捕まえてきました!」


 レーラは、はっと我に返る。ノエが帰ってきた。


「……早くないかしら」


 海に出るには崖を降りなければならない。ここから近い泉の方に向かったのは理解できるのだが。狩猟採集というのは時間がかかるもののはず。ノエの手の中には籠があり、その中には数匹の魚がびちびちと跳ねている。


「慣れれば素手でいけますよ」

「人間?」


 網とか釣竿とか文明はどこへやったのか。


 アンゼリカが用意した簡易の調理場、という名目の簡素な台の上にレーラの家から持ち出した塩やら香草やらを並べる。ノエはそのまま大振りのナイフをスカートの中から取り出して、平然と下処理を始めた。


「なんなのおまえ」

「詩人です」

「そうじゃなくて」

「数年ほど侍女をやっていました」

「知ってる!」


 そういやこの質問は、先程レーラがアンゼリカにされたばかりだった。自分が答えなかった質問を他者ひとに強要してしまった居心地の悪さに舌を噛む。ノエはそんなレーラの自罰には気付かず、あっさりと告げる。


「生まれは旅芸人、紫の一団──砂漠越えを為え、山脈を越え、旅をする一族です。護身術、生存術は嗜みですわ」 


 興味深そうにノエの手元を見ていたアンゼリカが相槌を打つ。


「紫の、といえば歌って踊れる傭兵みたいなものだって、物知りのロビンソンに聞いたわ」

「お恥ずかしいです。わたしなんてとてもとても。詩とお茶くらいしか取り柄がなくて、その辺で使い物になるのは精々逃げ足くらいです」


 と恥じらいながらも、異様な手際で皮を剥いでいく。レーラはそれを引き気味に見ていた。

 レーラは料理という概念に馴染みがない。ばらばらになっていく魚は死体にしか見えない。口にするに抵抗がないのは、見目にも良い菓子と飲み物だけだった。


「……おまえ、もっと繊細なものを作るやつじゃなかったの?」


 今日のクッキーなど、かわいらしかったのに。顔を上げたノエは、疑るようにレーラを見た。


「まさか、いつものお菓子、私が作っていると思ってたんですか? あれは村の、料理が上手なお嬢さんにお願いしたものですよ」


 信じられない。ノエが作り手ではないというのはまだしも。ありふれた漁村の村娘なんかが、あんなに綺麗な菓子を作れるものだろうか。


「レシピと材料は私が」


 なるほどそれならあり得る、と頷く。確か材料はとある魔女と取引して得ていると言っていた。素材は文句なしに上等だろう。


「そこまで揃っているのに、自分では作らないのね」

「レーラさま、ご存じないのですか。人間には、向き不向きというものが……あるのです」


 いつもの杵柄はどこにやった。


「ですが野営は十八番です。お任せください」


 ぬらぬらと魚の汁で光るナイフを手に、誇るノエ。


「アンゼリカ。野営って言ったわこの子。おまえの期待するような料理は出てこないわよ」

「ワタシ、ノエの作るものならなんでも好きよ?」


 ばらばらに解体された魚の側で頬杖をつきながら、睦言のように甘い声を出す。ノエは言われた当人にも関わらず、感心したように頷く。


「完璧な返答ですね」




 慎ましい料理が出来上がり、ささやかな夜会は始まる。

 三人きりの夜会は、それなりに賑やかだが、騒がしくはなかった。

 アンゼリカのとっ散らかったお喋りをノエが丁寧に拾い、一連の流れある会話に繋げていく。

 ノエは旅の話をしたり、アンゼリカにせがまれて、レーラに出会ってからの話をしたりする。その中にはナターリアの話もあった。勿論、彼女の秘密は秘密のままだ。

 レーラはそれを観賞しながら、杯を傾ける。料理を食べられないことを見越して、ノエはレーラの家の備え付けの葡萄酒に、果実と香辛料を加えて差し出した。レーラの嗜好を把握して用意されたそれはたいそう甘かった。


 宴もたけなわ、尽きぬお喋りの最中。はた、とアンゼリカは口を閉ざし、立ち上がる。


「思い出したわ。ワタシからの贈り物、開けてもいないじゃない」

「あれは断られていたでしょ、忘れたの?」

「覚えているわ。アンゼリカの気持ちに応えられないから、受け取れないって」


 アンゼリカは指をぴしりと突きつける。


「それってつまり、見返りを求めなければ受け取ってもらえるってことでしょ?」


 随分と物分かりが良い。軽い頭はもしかして、同時に柔らかくもあるのだろうか。


「ね、ね?」と期待するアンゼリカの目を見て、ノエは申し訳なさそうに言う。


「アンさま。私は旅人なので、多くを持ち歩くことができないのです」


 魔法薬の材料を集めるだけで手一杯、それも普段は別なところに預けている。


「ですから、受け取れるのはひとつだけになりますが……それでも、よろしいですか?」

「わかったわ。じゃあ、余ったものはレーラにあげる。アンゼリカったらやさしいのです!」


 別にいらないのだが。そう言う間もなく、アンゼリカが指を振る。この場に移動してくる贈り物の山。そしてひとりでに包装が開く。

 まず鮮やかな青のドレスが目に付く。親切なことに、ロビンソンによる解説までついていた。


『どんな方にもサイズぴったり! な魔法のドレスです。身に付けた人間が偶然次々と死んでいるのが玉に瑕ですが』


 ペンダントの形をした御守りアミュレット


『これを身に付けると危機を感じなくなります。殺されても気付かなかった方もいるとか。心配性で夜も眠れぬ方におすすめですな』


 光沢ある赤黒い靴。


『履けばたちまちに上手に踊れる魔法の靴です。ちょっと足の感覚もなくなるのが困りもので、かつてこれを履いた娘は死ぬまで踊り狂ったとか』


 ひとつひとつを手に取り解説を読み、レーラは片手で顔を覆った。


「…………最悪」

「そ? 人間が身につけても多分大丈夫な程度の、魔法の品だと思うけど」

「多分、でいいわけないだろう」


 魔法と呪いの違いは曖昧だ。大抵において良い結果をもたらすのが魔法で、悪い結果をもたらすのが呪い。見方と受け取り方の問題だ。

 そしてこれら魔法の品々は、レーラには呪いの品にしか見えなかった。鳥籠屋に不良在庫を体よく押し付けられたんじゃないだろうか? 目眩を錯覚しながら苦言を呈する。


「アンゼリカ。おまえ、適当に選んだでしょう。こういう贈り物ってのはね、相手のことを考えて選ばないといけないのよ」


 アンゼリカは目をぱちくり、へぇ、と感嘆。


「そうだったの? レーラって、人間の作法に詳しいのね!」


 うっ、と息を詰まらせる。どう考えても恋物語ばかり摂取した弊害だった。魔女としての沽券が痛むような気がして目を背ける。背けた先でノエと目が合った。ノエもやはり苦笑を浮かべていた。


「どれもちょっと……私には、手に余りますね」

「難しいのね。こういうのって」


 アンゼリカはしみじみとそう言って、心なしか縮こまる。数刻前のアンゼリカにはあり得なかった態度だ。

 〝人間の友〟という枠が、アンゼリカの奔放を縛る枷になっていた。言葉による定義は一種の魔法、人間にも使えるまじないだ。言葉かせは思ったよりも、するりと嵌ってしまったらしい。


 ノエはその様子に、罪悪の念を僅かに覚える。我ながら業が深い行いだと思う。だからノエはせめて友に、繊細なつぼみに手を触れるように、言葉を選ぶ。


「アンゼリカさま。もしよろしければ。花を一輪、いただけますか」

「花?」


 アンゼリカは、身体に纏わり付かせた蔓から花を一輪摘み取る。選んだのは淡紅の野ばらだ。アンゼリカの身体から離れたその時から、野ばらは萎れ始める。ノエはそれをそうっと受け取り、髪に挿した。


「こんなものでいいの? 萎れてしまうのに?」

「萎れてしまっても、思い出は忘れません。それが私にとって、一番の財産です」

「……そう、ノエは。忘れないつもりで生きているのね」


 紅の瞳に浮かぶ、大人びた慈しみは、ほんの一瞬。


「なら、素敵なものをたくさん見せてあげるわ!」


 アンゼリカは、ノエの手を引く。篝火が煌々と燃えている。夜会はまだ、終わらない。




 花妖精の魔女アンゼリカ。

 彼女は、純粋で、浅はかで、我儘で、けれども決して、愚かではない。何故ならアンゼリカは、花妖精の中で一番に長生きと言える存在なのだから。

 幻想である妖精に、人間のような永遠の魂はない。不老であり不死に近しいのが妖精だ。だが、その中でも花妖精は、個々の〝記憶の寿命〟が、人間よりもずっと短い生き物だった。  


 花妖精は不死鳥のように転生する。季節が巡るごとに咲き誇り、枯れては生まれ直す。彼女たちの存在は同一だが、その記憶に連続性はない。記憶儚く、思い悩む暇ない彼女たちの性質は純粋無垢。


 ただし魔女たるアンゼリカは、転生の周期が、他の花妖精よりもずっと長かったのだ。ひとりだけ、皆とずれた周期で生きている。枯れては咲きを何度と繰り返し、記憶を失いながらも、アンゼリカは悟った。


 ──頭は空っぽな方がいい。寂しさや悲しさはすぐに忘れてしまった方がいい。

 ──そうでなければ。忘れるよりも忘れられるばかりのアンゼリカは、孤独を知ってしまう。


 さいわいにして、アンゼリカは魔法を多く操る力を持っていた。生まれながらに願いを叶える力を持つ魔女に、手に入らぬものなど何もなかった。であれば花妖精としては長すぎる一度の生にも、楽しいことはいくらでもある。それがアンゼリカにとっての幸運で。

 ──手に入らない女を愛してしまったことが、不運だろう。


 ノエの手を引いて飛びながらアンゼリカはそこまで考えて、その考えが「暗い、暗いわ、なってない」と思ったから、数秒後には忘れることに決めた。だがその前に、ノエに話をしよう。


「ねえノエ。ワタシやっぱり、ノエが欲しいわ。アナタを連れて帰りたい。……だけど、今は友愛これで我慢します。それがアナタの道理だというのなら受け入れるわ。物分かりが悪くては、意外と魔女はできなくてよ」


「……それにね。アンゼリカは魔女だもの。いつまでだって待てるわ。アナタが応えてくれるその日が、いつか来ることを、諦めたりはしないんだから」


 篝火の灯りに、ノエの顔が照らされる。髪に挿した野ばらは、熱に当てられて弱っていく。

 アンゼリカが惜しんだ人間の少女は、


「はい」


 と、ただ、力強く、肯定を返す。『アナタを諦めない』、その宣言が、どれほど都合の悪いものだとしても。諦めの否定は、どうしたって、ノエにはできなかったから。


 その葛藤に、妖精の魔女が気付いたかどうかは定かでない。


「難しいことは、もうおしまい!」


 アンゼリカは満面の笑みを咲かせて、指を振る。


「さぁ、〈──踊りましょうsaltate〉!」


 篝火から炎の使い魔が飛び出して、夜会を彩る炎の演舞が始まる。

 忘れない、と言ったノエのために、アンゼリカは楽しい今を燃やすのだ。




   4




 レーラはテーブルに残ったまま、夜会を楽しむ妖精と人間の娘の様子を、遠巻きに見ていた。

 炎の使い魔に踊らせ、新しくこの場で作り出した木の使い魔に楽器を弾かせ、ノエとアンゼリカは二人して踊りに興じている。次々と音楽を変えては踊りの種類を変え、体格差すらものともしない。ノエはこんなところでも器用だ。

 夜会の基本は酒に料理に、歌と踊り。それらはレーラにとって本来退屈なもので、夜会を苦手とする理由だった。レーラは酔わず食べず歌わず、踊れもしない。あの輪の中には入れない。けれど不思議なことに、今夜は、退屈を感じなかった。


 音楽が止み、ノエがレーラの元へと帰ってくる。どうやら小休止らしい。

 頬を紅潮させて戻ってきたノエが、椅子に着く。それを横目に、レーラは頬杖をつきながら。


「おまえは、何かを楽しむのが上手なのね」


 ノエは両手に抱えた杯を一口、水で喉を潤して。


「自覚はあります」


 と。レーラのそれが、褒め言葉ではないことを理解した返しをした。そのかわいげのなさに、レーラは唇を歪める。


「確かに皮肉が半分だけど。半分は、感心しているのよ」


 ノエはぱちぱちと瞬きをして、何故だか恥じるように眉を下げて笑う。


「ありがとうございます。……でも、それは私ができた人間だから、とかではないのです」

「そういや、おまえが、どんな人間なのか。どんなふうに生きてきたのか。知らないわね」


 相変わらず、レーラはノエと顔を合わせないまま。


「聞かせなさい。少し、興味が湧いた」


 ノエは、少しの間沈黙し、「面白い話ではありませんが」と憚って、静かに言葉を紡ぎ出す。


「長く、旅暮らしでした。侍女としてひとところに留まった時期もありますが。幼い頃は一族で、一人前になってからはひとりで、ずっと」


 星の瞬く夜空を見上げ、ノエは、自らを語る。


「旅は好きです。様々な出会いがあり、そこには絶えず物語が生まれます」


 声は抑揚なく、けれど聞き取るに不足ない。


「物心ついた時からそうだったので、旅に生きることを、疑問に思わなかったのですが……それは、確かな形のあるものを手に入れられない生活でもありました」


 思い出こそが財産だと言った。誇張でも比喩でもなく、本当に、記憶だけが持ちうるすべてなのだ。


「すべてのものは移りゆく。詩人わたしはそれを忘れないように物語る。そのためには何も特別にしないか。あるいはすべてを特別にするか。それが、吟遊詩人の生き方です」


 その時抱いた感情、目に焼き付いた景色、それらを記憶し、記録し続ける。


「その時その時を楽しんで、心の内にのみ、大切なものをしまっていく。私は、今この瞬間を楽しむ以外の生き方を知らないのです」


 それは、今を楽しむのが上手い、という話ではない。いずれ過去に至る今を大切にしているに過ぎないのだ。

 ノエの話は遠回りだ。言葉を選んで探す、迷子の渡り鳥。けれどその言葉は魔法のように、魔女に伝わってしまう。それがノエという吟遊詩人の少女のわざであり、ごうだった。


「おまえは、望んで過去に囚われる生き物なのね」


 その言葉に、ノエは否定をしなかった。眉を下げて微笑む。

 レーラの心に、細波が立つ。ノエから目を背け、眩く燃え立つ篝火を睨む。

 篝火のもとのアンゼリカはひとりで使い魔を操りながら、次に奏でる音楽は何にしようかと、楽器をとっかえひっかえしている。

 この夜会の場は、アンゼリカが魔法によって用意したものだ。夜明けとともに、夜会の跡も消えるだろう。期限付きの魔法はいつだって夜明けに解けるものだ。期限が十年目であれ、百年目であれ、夜明けと決まっている。それはまるで、夢から覚めるみたいに。


『楽しめばいいのに』と、魔女らしく在るが儘に生きる妖精は言う。

『楽しむ以外を知らないのです』と、魔女よりも強かに歩む詩人の少女は言う。


 ──私だってわかっている。享楽だけを追い求める生き方、それが、本当は魔女として一番〝らしい〟のだと。


 アンゼリカが、次に奏でる音楽を決めたようだった。楽しげに、使い魔たちの指揮を執る。次の曲はゆったりと流れる三拍子。円舞曲だった。ノエはその曲に、吐息を漏らす。


「……懐かしい曲です」


 何も特別にしないか、あるいは全てを特別にするか。それが自分の在り方だとノエは言った。だがレーラは知っている。〝海の底〟を目指す執念を。ノエには、例外を定めた何かがある。


 どれほどその過程を楽しみ生きようとも、ノエの目的は、その終着点は楽しみとは程遠い。どれだけ明るく、どれだけ器用でも、所詮これ・・は、海の底に身を投げようとしている娘だ。 そんなことをしなくても、生きる楽しみを知っているのに。


 盗み見る、未だあどけなさを残す横顔。──ばかなやつ。レーラは憐むように目を細めた。


 ──その願いに、想いに、身を投げるほどの価値があるものか。


 否定の言葉を丸めて飲み込んで、レーラは篝火へと視線を戻す。アンゼリカと木の使い魔たちが演奏する円舞曲に合わせ、炎の使い魔たちがくるくると踊る光景は目にも華やかだ。


「ねえ」


 顔を見ぬまま、問いかける。


「踊りって楽しいの? 私、やったことがないから知らないの」

「私は好きです。ダンスもまた、吟遊詩人に縁深きものですから」

「そう。ならば」


 レーラは立ち上がり、あるものを取りに行く。戻ってきたレーラの手には、アンゼリカの贈り物、ロビンソンの在庫処分、問答無用で踊らせるという呪いの靴が、摘み上げられていた。


「おまえたちの楽しみに付き合うのも、今夜くらいはいいでしょう」


 レーラは呪いの靴に足を通す。


 ──執念なんてくだらない。享楽に身を任せるのが魔女の本分だ。


「一曲付き合いなさい」


 ノエは、驚いて。笑顔で立ち上がって、その命を受け取る。


「はい、レーラさま」


 スカートを摘む淑女の礼カーテシーではなく、右足を引いて紳士の礼ボウ・アンド・スクレープを。

 レーラはふっと息を漏らす。いつもの調子が戻ったじゃない、と呆れた感心も束の間。

 靴を履いたレーラの足が、ひとりでに踊り出す。


「っ……」


 どうやら魔女さえ容易に踊らせてしまう類の呪いらしい。アンゼリカもロビンソンもなんて趣味だ。

 慌てるレーラの両手を捕まえて、ノエは、


「これはいつもの杵柄なんですけど」


 茶目っけたっぷりに、片目を閉じる。


「エスコートは、お任せください」


 そして瞬く間に、歩調を合わせてみせた。宮廷式の舞踏すらお手の物か。

 レーラは負け惜しみのように、ノエを睥睨する。


「おまえ、本当に不思議なやつね」


 見つめ返す菫色の双眸が、猫のように微笑んで。


「秘密の多い人間はお嫌いですか、魔女さま?」


 レーラは人間になど興味がない。だがノエは、例外にするだけの価値があるかといえば──決まっている。

 はっ、とレーラは笑い飛ばす。


「嫌いなわけがないじゃない」

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