第5話 妖精魔女は愛に迷わない(中)


 アンゼリカが追加で魔法をかけたらしい。使い魔は柔らかに身体の形を変えて、隙間を縫うようにうごめいて、ノエへと接近する。レーラの助言を聞けるほどに、引き離した距離はあっという間に埋まってしまった。間合いは最早、剣のそれ。

 左から伸びる腕を、首を逸らし躱す。躱したところを右から攻めの手、踊るようにステップを踏む。空振りしたそれは地面を削り、土が舞う。

 たとえ避け続けたノエが体勢を崩しても、使い魔の脚は何本もの根だ。数の多さは安定感。かわされ続けても、それらはすぐに次に移る。黒々とした虚の表情は余裕に見えた。対して、ノエの額には汗が滲む。使い魔の力加減が、強くなっている。


 持久戦で不利なのはこちら側だ。近道を求め、ノエは経路を変える。

 その先は段。躊躇なく斜面へ、落ちるように滑る。速度。湿った土、泥が跳ね上がる。ノエの服にかかった泥は、染みつかず消えていく。

 使い魔たちは急勾配をものともせず、難なく追いかけてくる。そして翅を持つアンゼリカも。


「逃げる理由は照れ隠しかしら? こういうの、痴話喧嘩って言うんでしょう? 付き合うのも甲斐性よね」


 アンゼリカは無邪気に言う。一撃でも食らえば無傷じゃ済まないのに、甲斐性も何もあるものか。言動の矛盾、正気はやはり不在だ。


「でも、そろそろ終わりにしない? 飽きたわ。ええ、飽き飽きだわ!」


 弾む声で嫌になったと言う。平然としているが、激しい魔法は消耗する。疲労しているのは、ノエだけではない。


「……そうですね。そろそろ、終わりどきでしょう」


 ──使い魔は、この森からは出られない。では、どこまでが〝この森〟なのか。明確に出入口が決まっているわけでもない。レーラは何をもって〝この森〟と言ったのか。

 ノエは肌に意識を向ける。ずっと、魔法の気配を感じていた。魔術師の才能はなかったが、生来魔法には敏感な体質だ。ぴりぴりと肌を撫でる、なんとなく嫌な予感・・・・・・・・・


 レーラは森にまじないをかけている。人間が立ち入らないように、人間除けの魔法を。

 魔法や呪いは、直接的な効果が現れなければわからないもの。人外のアンゼリカは、人間除けの魔法に気付くことはない。


 使い魔の元は、魔女レーラの森で生まれた木だ。レーラは、魔法の管轄内を〝この森〟と呼ぶ。

 ならば肌で感じる人間除けの魔法、それが消える境界を、ノエは目指せばいい。──そして、それが、目と鼻の先であることを、ノエは知っている。

 光の強い方角へ。ノエは全速力で駆けていく。〝この森〟の終わりを知っている使い魔たちが騒めき、その様子に、アンゼリカも何かを感じ取ったのか。


「ノエを止めて!」


 だが、その時にはもう、境界は踏み越えた。

 景色が変わる。肌を撫でる感覚が消える。光の先は、開けた窪地だった。鬱蒼とした森なのに珍しく青空が見える。光が差し、野花が咲き、蝶が舞い、小動物の気配がする。

 息苦しさのない、きれいな場所だった。


「──ロ」「──ォ」

 使い魔たちは、手前で止まり。窪地へと踏み込んで来なかった。


「そう、範囲外ってわけね……! こんなに縄張りが狭いなんて、みみっちいレーラ!」


『うるさいほっとけ、つつましいと言いなさい』と、聞こえてくるような気がした。

 アンゼリカは木の使い魔を元に戻す。幽鬼のような虚は消え、後にはただの木が二本。

 ノエは、息を整える。会話には正気が前提。魔女を正気に戻すにはどうすればいいか。まずは疲労と飽きを待ち、振り上げた拳──使い魔を、止めること。

 それだけでは足りない。必要なのは揺り戻し、冷や水、つまり、動揺だ。


「アンさま!」


 だが、アンゼリカはぶれない。自信に満ち溢れていて、想いを拒まれることが理解できない。

 ノエは一旦、これが我事であるという意識を隅に追いやる。

 アンゼリカは、想いびとと相思相愛だと信じているのだ。あるいは、相思相愛になって当然だと、結論が出ている。だから迷いがない。

 そこを、揺らす。


「聞いてください。実は私──」


 大袈裟な身振り手振りで、気を引いて。



「──心を誓いたい相手が、他にいるのです!」



 紋切りの拒絶ではなく、恋の言語には恋の言語で。色恋そのものが動揺を煽ることは、古今東西変わらないのだから。

 アンゼリカは、唐突な告白に、きょとんとして。


「アンゼリカではなくて?」

「アンさまではなくて」

「えっ。誰なのかしらその泥棒猫」

「レーラさまですけど」

「…………へ?」


 アンゼリカ、硬直。

 じりじりと背中を焼く誰かレーラの視線も、恋の言語を苦手な我事として扱った副作用の胃痛も無視だ。ともかくアンゼリカはようやく止まってくれた。

 これで、次に進める。ノエは腕を下ろし、足を止める。動揺にするりと滑り込む、柔らかな声で誘う。


「アンさま。どうかゆっくりと、お話を、致しませんか?」


 アンゼリカは。


「いえ、いいえ。必要ないわ」


 にこりと、動揺を消し去って。


「だってその話、嘘でしょう?」


 妖精は純粋だ。嘘も多少は見抜く。


「だってありえないし。レーラなんてちょっと声がいいだけの根暗じゃない」


 どこからか呪詛が聞こえたが、アンゼリカは無視。嘘を見抜くに必要なのは、冷静だ。笑みを、落とす。


「それに──ようやく、止まってくれたもの」


 あどけなく、冷ややかな、無表情で呟いた。ノエの指先に、ちくり、と指先に、刺すような痛みが走る。


「…………っ!」


 声は舌ごと噛み殺した。途端、身体に痺れが走る。目眩、地に膝をつく。自由が効かない。ぐらつく視界の中、黒翅の蝶が光を浴びてひらひらと舞っていた。アンゼリカにそっくりな翅。

 ──使い魔には二種類ある。物を触媒にした即興のもの。或いは生きて動く命を使ったもの。鳥や獣そして、虫。


「木の子たちじゃ捕まえられないみたいだったから。途中で作戦を変えたの」


 黒蝶はアンゼリカの指先に止まる。蝶の使い魔。刺激の正体は、毒針だ。アンゼリカに似た黒蝶の飛行は速くない。ノエが立ち止まるのを、待っていたのだ。


「大丈夫、死にはしないわ。ほんのちょっと動けなくなるだけよ? この手はあんまり、使いたくなかったんだけど。だって毒とかかわいくないじゃない?」


 アンゼリカの綺麗な瞳の奥に、禍々しいほどの光はもうなかった。

 ……何が正気に戻す、だ。アンゼリカはとっくに正気で、最初から本気だったのだ。

 膝をついたノエに、ひらりと飛んで近付く。アンゼリカはひんやりと小さな両手でノエの頬を抱えて、上から覗き込んだ。逆光の微笑み。さらりと流れる髪がノエの視界に影を作る。甘い、花の香りが鼻腔をくすぐる。ノエは息を止めた。


「さぁ。お話をしましょうか。アナタの望む通りに」



 身隠しのローブを纏ったレーラは、遠巻きに一部始終を見ていた。

 途中、ノエの虚言に邪視を送り、アンゼリカの無礼に呪詛を吐き、それでもレーラは見物に徹していた。この世の大抵は自分の出る幕でないことを、海辺の魔女は知っている。

 妖精魔女は、麻痺の毒に侵された娘の頬を撫でながら、甘ったるい蜜のような声で似合わぬ理知の言葉を紡ぐ。


「ワタシ考えたの。ちゃんと考えて決めたのよ。ノエを妖精の国に連れていくって。アナタを、アンゼリカのものにするって。だって、そうしないと──アナタは海の底に行ってしまうでしょう?」

「……どうして、それを」

「こないだ他の魔女に聞いたの。その後ロビンソンに、ノエがレーラの家にいるって聞いて確信したわ。ノエの願いが、本当なんだって」


 十年前、ノエはアンゼリカに願いの内容を言ってなかったのだろう。アンゼリカと関わり手に入れたのは、海の底に行くには関係のない毒草だ。ぎり、と。歯軋りのような音が聞こえた。


「海の底へ、なんて! 人魚に会いに行くなんて、ありえない! 人魚なんてとんでもない怪物よ? 美味しいお菓子を味わうことも知らないで、花を愛でることも知らないで、奪って壊すしか能がないの!」


 喜怒哀楽の内、喜びと楽しみに生きる花妖精が、悲鳴のように激昂する。


「そんなものに、ノエをあげるわけにはいかないわ!」


 人魚という怪物は、破壊と掠奪を快楽とする魔性あくだ。アンゼリカの評にレーラも異論はなく、なんなら二、三、罵倒を付け足してもいい。

 だがノエは。アンゼリカの至極真っ当な非難に、すっと目を細めた。


「……ええ、私も〝人魚〟というものが、そういう存在であることは知っています」


 それは、先程までアンゼリカの好意に翻弄されていた娘の顔ではない。身動きもろくにできぬまま、冷ややかな紫色の眼差しが妖精の少女を刺す。


「だとしても。いいえ、だからこそ、私は行かねばならないのです」


 反駁、ふらつくままに立ち上がる。


「嘘! 毒が効いていないの?」


 何を投げ打っても構わない。かつてノエはそう豪語した。その願いに手を触れられては、黙ってなどいられない。


「大した気力だこと」


 レーラは呆れる。近頃は海の底なんてめっきりと言い出さないから忘れていたが。──この娘は、破滅に向かうろくでなしだ。

 腕を振り払い、逃れようとするノエ。俯きがちに、アンゼリカは。


「アナタの強情は、わかったわ。そんなことになる前に、ワタシがノエを手に入れなくちゃ。アンゼリカが大切にしてあげる。甘いお菓子のように、咲き誇る花のように、愛してあげる」


 再び理性を投げ捨てるように声を弾ませる。もう一度、何をどこまで理解しているのか読み解けない、すっからかんの笑みを浮かべて。


「アンゼリカがアナタの無謀を、願いを、海の底を、諦めさせてあげる!」


 指を振る。もう一度動けぬ蝶の毒を。今度はアンゼリカ自身の手で盛るために。


「加減はしてあげない。〈──もうnoli終わりの時間よsaltate〉!」


 黒い蝶の使い魔が、呪文に応じて毒針の短剣に姿を変える。かわいらしさのかけらもない武器は、アンゼリカの手の中に収まった。

 レーラはそれを、ただ、眺めるだけ。このままノエは捕まるだろう。


──別に問題はない。茶会はなくなり、ただ平穏が戻る。少々惜しむ気はあるが、願いに執着する面倒な人間をアンゼリカが回収してくれるというのだ。アンゼリカの主張は理解に足る。好き嫌いを横に置いて、味方をしてもいいくらいに。


 レーラは、思う。……何か、違和感があるのだ。石を飲み込んだような、不納得が。理にかなっているはずの、『このまま見過ごす』という選択に。

 箒に腰掛けたまま、視線は光差し込む窪地の二人に向けたまま、木陰でレーラは唇をそっと撫でる。疑問を二度三度と反芻する。思い出すのは、初めて会ったときのノエ。


『魔女さま。どうか私を海の底へ導いてください』


 レーラはノエと契約をした。それはノエの語る言葉に、愛を知ることへの希望を見出したからなどでは、ない。

 ──その無謀に、不可能を知らしめたい。その強情を、心を折ってしまいたい。


 ああなるほど。それが、契約の理由ならば。

 無謀を、願いを、海の底を、諦めさせてあげるのは。


「──私の、役割じゃない」


 箒から地面へ降り、杖を戻す。杖は地に足をつけるためのものであり、己の威を示すためのものであり、そして何より、魔法の呼水となす道具。

 ローブの中から小瓶を取り出す。中身は海水。海辺の魔女の、魔法の触媒だ。


「〈──水よmare〉」


 たったひと声の呪文で、水の粒は次々と魚の形に姿を変え、小瓶の中から飛び出した。レーラは周りをぐるりと泳ぐ、透明な魚たちに語りかける。


「ねえ、私。あれが〈──気に入らないのreicio〉」


 強請るように脅すように、レーラは薄く嘲笑い、杖を、鳴らす。水魚の群れは、二人の元へ。瞬く間にアンゼリカを飲み込んだ。


「な、何……、きゃ……っ……!?」


 毒針の剣が地面に落ちる。水の中で目を白黒とさせる妖精の少女。息を切らしながら、動きを止めたノエが、木陰のもとにレーラを見つける。レーラはつかつかと彼女たちの前へ出る。


「久々に使ったけど、私の魔法も捨てたものじゃないわね」


 レーラは杖をもう一度鳴らす。水魚の群れは、弾けて消えた。弾けた水を避けられず、ノエもまた濡れる。

 ようやく解放されたアンゼリカは、咳き込みながらレーラの足元にしゃがみ込んだ。翅はしっとりと濡れて、しばらくは飛べないだろう。


「なんで……レーラが、邪魔をするの? そんなのってないでしょう!」

「悪いわね。邪魔する理由なら、とびっきりのがあったわ。〝契約に割り込んではならない〟それが魔女の掟でしょう?」


 まったく悪びれずに続ける。


「私はこの娘と契約しているのよ。私が折れて願いを聞くか、あるいは海の底を諦めるか、という賭けの真っ最中」


 魔女の掟は少ない。自由すぎる彼女たちは掟に縛られることを嫌う。けれど、契約相手を掠め取られることは、どの魔女も許さない。


「つまりね、アンゼリカ。この娘の願いを摘み取る役割と権利は今、この私が握っているというわけ。妖精の国に連れて行かれては、困るのよ」


……もっとも、〝海の底〟なんて彼女たちが言い出すまで、気付かなかったのだが。


「抵抗するならおまえを海に放り込んでやるわ。おまえの嫌いな人魚共にでも捕まればいい」

「外道! 血も涙もないの!?」

「血はあるわよ。涙はないけど。というかその言い回し、人間くさいな」


 ロビンソンに頼ったこともそうだし、ノエを口説くために人間に随分と歩み寄ったらしい。 

 ずぶ濡れのアンゼリカは、最早唸りを上げるのみだった。


「ま、生粋の人外にしてはがんばった方か」


 ノエに目を向ける。


「おまえ、毒は?」

「大丈夫です。もう、抜けました」

「……頑丈ね」

「旅慣れていますので」


 証明するように愛想笑って手足を動かす。が、すぐに申し訳なさそうな顔をした。


「あんな啖呵を切っておいて、私、結局助けられてしまいましたね……。この御恩、どうお返しすれば良いでしょうか」


 魔女の魔法は安くない。それを理解しての殊勝な態度に、レーラは興味薄く髪をいじる。


「別に、助けたつもりはないわ。おまえが今いなくなると私が困ると気付いただけ」


 ──おまえの願いを手折るのは、私なのだから。


「だから、対価なんていらないわ。契約の、一貫に含めてあげる」


 抽象的な内容だから、口約束の仮契約だったが。やはり縛るものがないと忘れてしまう。


「この際だから正式に結んでしまいましょう。また邪魔が入っても面倒だし」


 レーラは杖を鳴らしてペンと巻物スクロールを呼び出す。ペンは紙の上をひとりでに走る。


『どちらかが諦めるまで茶会を続けること』『レーラが諦めればノエの願いを聞くこと』


 ノエが諦めた場合は差し出した物語になんの対価も支払われず、レーラは無聊を十分に慰められるだけだ。契約の証を確認のため、ノエに寄越す。受け取ったノエは、黙り込んだまま紙面を見つめる。


「なに? 文句でもあるの? 細かい条件をつけるのは面倒なんだけど」


 ノエはゆっくりと首を振る。


「いえ、いいえ」


 ノエは思っていた。契約で結ばれた関係だからこそ、レーラを利用したくないと。

 だが……レーラが出した結論は、その、真逆。


「レーラさま。──ありがとうございます」


 魔女は、礼の意味をわかっていないような顔で、首を傾げた。


「おまえ、そんな笑い方をするやつだったかしら?」


 ノエは思わず零れたような、それでいて何か困ったような、こそばゆい笑みを浮かべていた。


 ──ああ、気付いてしまった。このひとは、やはり。

 ──悪い魔女に、向いていないのだ。




「……どうして?」


 ずぶ濡れのアンゼリカは、地べたにぺたんと蹲み込んだまま、二人を見上げていた。

 子供の駄々のように、恋に心痛める乙女は詰る。


「妖精の国に連れて行っちゃだめなのはわかったわ。海の底を諦めさせるのも、レーラの番が先っていうのもわかった。でも」


「それとこれと、ワタシがノエを愛してることは別じゃない!」 


 恋の言葉だが、そこには理性があり、理屈があった。


「どうしてノエはワタシに応えてくれないの?」


 髪から滴る雫が、まるで涙のように頬を伝う。嗚咽のように、「だって」



「愛したのだから、愛されてしかるべきだわ!」


 

 そう言って。幼子のように純真な妖精は、この世すべての悲恋を切って捨てた。

 相思相愛以外を認めないその我儘はいっそ見事で、その通りだと思わず頷いてしまいそうな魔力さえあった。

 レーラは溜息を吐き、流し目をノエに向ける。これを宥めるのは自分ではない。愛を説くのはノエの役割だ。

 その視線の意図を正しく受け取って、ノエはアンゼリカに近近づいてしゃがみ込む。アンゼリカと視線を合わせる。涙を知らぬ妖精は濡れた子犬のようで、泣き顔に似た表情をしていた。


「アンさま。愛には種類があるのです。人は必ずしも、砂糖菓子のように愛されることを受け入れられない」


 まずは前提。価値観の違い。


「けれど、たとえ別の愛で愛されたとしても、私は、あなたのものになることはできません」


 恋は必ずしも叶うものではない。拒む自分が言っていいことではないが、幾つもの悲恋を物語ってきたノエにとって、それが当たり前の道理だった。


「私は、誰かのものになることができない人間なんです。私は、私の人生の使い道を、もう、決めてしまったから」


 難しいことを考える必要なく生きる永遠に幼い妖精の魔女と、簡単なことを語るのにも遠く回り道をする詩人の少女は、分かり合える相手ではない。

 けれどアンゼリカは、ノエの道理を飲み込んで。


「……じゃあ、ノエにとっての愛って一体、何なの?」


 核心に飛び込んだ。ノエは苦笑する。ノエは自分が恋情に巻き込まれることに慣れていなかった。その理由は、簡単だ。


「実は私も、まだよくわからないんです」


 ノエの答えに驚いたのはレーラの方だった。


「おまえ、今更そんなことを言うの? てっきり恋のひとつふたつやみっつ、したことがあるものだと思っていたわ」

「お恥ずかしながら……ひとつも」


 まるでもなにもない生娘そのものの恥じらいで、ばつが悪そうに。


「恋は避けられぬ運命じゃなかったの」

「海の底に行きたがるような女に、運命なんてきませんよねー」

「その冗談、あまり面白くないわ」

「う。この手の話は苦手なんです……どうかお許しを」


 自分の恋愛を語れないノエは、頬を手で隠す。


「そのざまで、よくあんな契約を申し出たわね」


 ノエは頬から手を離した。


「知らないことすらも語るのが詩人ですから。それにきっと、愛なんて、ひとによって違うんです。レーラさまの欲しい答えはレーラさまが見つけるもので、私の契約は、その手助けをすることですもの」


 契約の内容に、答えるのは詩人としての言葉。


「……それに、私は、確かに知っていますから。愛の美しさを」


 夢見るような目だった。海の底を目指す時の情念に似て、けれどもっと無邪気な、童心のような、嘘を吐く時にはできない目だった。


「まあ、いいわ別に。おまえの経験がなんだって」


 その間、アンゼリカは先程まで一声も囀らず、思考の海に潜っていた。その軽い頭で、ノエの言葉を考えて、考えて。それでも納得がいかないまま、アンゼリカは結論を絞り出す。


「どうしても応えてくれないのね」


 至ったのは、ただ単純な、理解だった。


「はい」


 ノエの言葉は正しく伝わり、一連の騒動は、ここに終着する。後に残されたのは、恋破れた小さな魔女だけ。否、大人しく引き下がるなんてことはしないだろう。だから契約を正当な理由に、レーラが無理矢理放り出して話は終わり──、


「ですが」


 ──の、はずだった。


「私は魔女さまも驚くほど我儘らしいので。頂いた好意を、突き放すこともしたくないのです」


 その終着を、ノエ自身がひっくり返す。先程まで逃げ回り、あまつさえ囚われていた当人が、何を言う。魔女たちの訝しげな様子に、人間の娘は構わず言葉を続ける。


「アンさま、愛には種類があります。〝友愛〟ならば、私にも、応えることができます」


 レーラは呆れ果てて言葉も出なかった。この娘は、よりにもよって、魔女と友になろうと言っているのだ。それがどれほどありえない話か、わからないノエではないだろうに。


「友愛――〝友達〟ね? 人間の世界には、そういうものがあると知っています。ワタシたちには縁のないものだわ」


 魔女は人外の種族の中でも異物であり、たとえ魔女同士でも馴れ合うことはしない。


「それに、なんの価値が、意味が、あるというの?」


 アンゼリカの疑問は当然であり、その言葉そのものが拒絶を意味するものだ。魔女は超常の者、人間は魔女を畏れ、願いを乞うか、敵意を向けるかの二択。友と呼ぶべき対等な関係など、ありえない、あってはならないのだ。人間と友誼を結ぶ魔女など。

 だが、ノエは。恐れ知らずの愛想をもって宣う。


「恋愛に至るにはまずは友愛から、という一説もあるのですよ」


 それで丸め込むには無理がある、とレーラは思った。思ったのだが。アンゼリカは、悩ましげに凍りついていた。そして、絞り出す。


「…………どんな作法が必要なの?」


 通じて、しまった。


「これといった決まり事はございませんが、ひとつ挙げるならば。〝共に楽しい時間を作り上げること〟でしょう」


 アンゼリカは、思慮をとうに使い果たしていた。悲しみ、憂い、寂しさ、怒り、そういった暗い感情を、持続させることに向いていない。花妖精は楽しみのみに生きる存在もの

 そこにするりと詩人の言葉が滑り込む。空いた頭を〝楽しい時間〟という言葉で一杯にする。


 ──芸を生業とする人間は、魔法に似た力を宿す。詩人の言葉は、常人よりも少しだけ通りやすい。


 ノエは、アンゼリカの手をとる。


「妖精の国には共に参れませんが、代わりに、友として。何か私に叶えられる願いはありませんか?」


 すべてを諦めるか、あるいは妥協か。どちらが楽しいか、なんてわかりきった誘惑。その誘惑に、楽しみに、アンゼリカはもう抗えなかった。


「ならば夜会を!」


 赤い瞳をきらきらと輝かせ、ノエの手を握り返し立ち上がる。


「共に歌い、踊り、遊びましょう。アンゼリカは、アナタと一緒に夜会をしたいわ!」

「ええ。喜んで」



「……ひどい茶番だわ」


 レーラは冷ややかに、手を取り合うノエとアンゼリカを眺めていた。魔女が人間と友誼? まったく、ありえない。同じ魔女として恥ずかしくなる。


「……まあ、丸く収まるなら茶番も上等か」


 どうせ、レーラには関係のない話である。

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