第4話 妖精魔女は愛に迷わない(上)

 その姫君が望めば、手に入らぬものはなかった。


「宝石なんてくだらない」


 姫君は海の底のどんな宝石でも似合った。


「踊りになんて興味ないの」


 姫君の舞は、ひと目見ようと城中の人魚が押しかけるほどのものだった。


「とうに息もしていない、人間の男や女なんてもってのほか!」


 見目美しい人間を海の底にいざなうことは人魚にとって大きな喜びであり、そのための歌だって姫君ほど巧みに歌う者はいなかった。


「わたしが本当に欲しいのは、そんなものじゃないのに!」


 だというのに、姫君は嘆くのだ。


「……誰もわたしのことなんて、わかってくれないのよ」



 魔女は呆れて首を振る。

 ──まったく、一体何が不満だというのか。

 魔女には、そのすべてがないのに。




   1




 日に日に、雨が降ることが少なくなった。鬱蒼とした森の木々は一層に青さを増す。日の光を存分に浴びた海面は丁寧にカットした宝石のように眩しく輝き、毎朝レーラの目を焼いた。季節の変わり目だ。

 崖の上の魔女の家。石壁の部屋にはいつでも、夜のようなひんやりと冷たい空気が満ちている。日差しから逃れるように、秘密の茶会は開かれ続けていた。



「──そして妖精の娘は谷底へと身を投げました」


 その日の物語は、叶えてはならぬ恋の話だった。

 自分と結ばれては愛する人がしあわせにならないと悲観し命を絶つ、美しき妖精の娘の話だ。


「谷底には今でも、妖精の愛した菫の花が咲いていると言われています──」


『今日は古い物語がいいわ』と、レーラが言った。だからいつものノエとは少し違う、古典的な語りでの話だった。


「今日は、おまえにしては脚色が少ないのね」 


 ノエの普段の語りは昔話を語るにしても少々捻くれた解釈が多い。それは魔女たちの嗜好に合わせるうちに身についたものだろう。


「少し思い入れがあるお話なのです」


 珍しく照れるようにノエははにかむ。テーブルの上の皿には、菫の砂糖漬けをのせたクッキーが並んでいる。とうに菫の季節は過ぎたにもかかわらず、紫色の砂糖の塊は生地の上で鮮やかに咲き誇っている。話の中で、妖精の身投げした谷に咲いていた花と同じもの。


「おまえ、今日の菓子を理由にこの話を選んだでしょ」

「はい、そうですが」


 レーラはクッキーを小さく齧る。花の芳香が味になって広がり、ついでのように物語に出てきた妖精の少女が想起された。味覚と嗅覚に思考を持っていかれたまま、レーラの脳裏で妖精の少女が身投げした。連想である。


「……どういう神経してるの?」

「思索をより呼び起こすかと思いまして」


 おかげで菫味が身投げ味だ。連想による回想は思索に効果的、と言われればそうなのかもしれない。菫の味で補うようにして、レーラは悲恋を咀嚼、嚥下する。

 ──いや、本当にそうだろうか?


「さて、レーラさまはこのお話、いかがお考えになりますか」


 物語を終えた後はいつも、ノエはそう問いかける。


「やはり理解できないわ。だって愛なんかに、身を投げるほどの価値があるとは思えないもの」


 たとえ命を投げ捨てる場面何度思い浮かべても、愛を物語るために説かれた心の機微──浮つき、満足、憂いや悲しみ、それらはやはり何か遠く理解しがたいもののまま、レーラの胃の底で固まっている。


「それで、おまえは? この話の答えを知っているんでしょう」


 気紛れの質問だ。単純な答えなんかで納得できるなら物語など収集していない。それでもノエなら、陳腐ではない答えを言うのではないかと期待した。


「答え、ですか? ひと口に語ってしまうのは無粋ですが、そうですね……」



「あら、答えなんて簡単よ!」


 突然。窓辺にて、甘ったるい声。二人ははっと、声の方を向く。そこには小さな少女がいた。レーラの家の窓枠に腰掛けて、細い素足をふらふらと揺らしいている。

 いつの間に。レーラは苦い顔をする。ノエは驚きに表情を硬らせた。

 薄紅の髪を左右に高く結い上げ、身体のそこかしこに花をあしらっている。野ばらのような可憐な少女は、窓枠から部屋の中へと軽やかに飛び降りて、言うのだ。


「そのお話の妖精は、ただ愚かだったってこと。だってそうでしょ? 欲しいものがあるならば手に入れてしまえばよかったのよ」


 その背中には、可憐で幼い印象を塗り替える優雅な黒蝶の翅がある。〝妖精〟だ。そして魔女レーラの作った結界をすり抜ける、それができるのは同じ魔女だけ。


 ──花の妖精魔女アンゼリカ。それが、少女の正体と名だった。


「レーラったら、まだ愛だの恋だのばっかり気にしてるのね。分かるわ、そういうお年頃ってあるわよね。──でも、まだ〝分かってない〟なんて可哀想!」


 妖精の少女はレーラを見て笑った。


「仕方ないから、アンゼリカが教えてあげる!」


 くすくすころころと、おかしそうに。楽しげな遊び唄を口ずさむように。


「愛ってつまり、好きってことよ。好きっていうのは、ワタシのお気に入りってこと。お気に入りってことはね、つまり、ワタシのものにしてあげるってこと!」


 並べるのはいかにも頭が空で、浅はかな言葉。

 可憐な顔に浮かべた幼気な笑みが、何故だか毒々しい。紅玉ルビーの瞳が歪む。


妖精ワタシに愛されたことを、人間はただ、光栄に思えばいいのよ」


 その瞳は、言葉は、レーラには向けられていなかった。

 アンゼリカは小さな手を、レーラの反対側へと伸ばす。瞳も言葉もすべて。人間の娘へと。


「さぁ、ノエ。ワタシの手を取って。アンゼリカに愛される栄誉をあげる!」



 ──魔女とは。まずもって人外である。人の外にある者でなければ強い魔法は扱えない。そして、人ならざる存在にはふたつの種類がある。

 一つ目は怪物──人によく似た化け物。生来より人間を脅かす悪しき魔性のこと。

 二つ目は幻想──人と神の間に生きるもの。時に人間のよき隣人となる美しき存在のこと。

 その中のほんの一握り、強い魔法の力を持って生まれた者を、共に〝魔女〟と呼ぶ。

 レーラもアンゼリカも、そんな魔女のひとりだった。



 乱入者の来訪と宣言から数秒。涼しい石部屋の時が凍りついたように止まり、アンゼリカは凍った空気の中でニコニコとノエの返事を待っていた。当のノエは石像のように固まっている。

 行き場をなくしたアンゼリカの手は、そのままテーブルに向かった。「あら、かわいいお菓子」なんて言ってクッキーから砂糖漬けの菫を剥がして摘み食いまでしている。その移り気と勝手はまるきり幼い子供のようだった。


 レーラは机に手をついて立ち上がり、ノエに顔を近付ける。顔面には面倒でたまらない、と大きく書いている。


「……おまえどうして、これに、妙な気に入られ方をしてるの?」


 ひそひそ声で、文句のような質問をする。アンゼリカが菓子に気を取られているうちに、だ。

 幻想に位置する妖精、その中でも花妖精の性質は純粋無垢。しかしアンゼリカは妖精以上に魔女だ。妖精が基本的に人間のよき隣人でも、魔女にとっては種族より魔女としての性質の方が濃い。我儘で強引で傲慢という、性質の方が。


「いやぁ、困っちゃいますね」

「他人事みたいに言ってるんじゃないわよ」

「その……身に覚えがなくて」


 レーラから目を逸らすノエ。むべなるかな、妖精は少々人間に惚れっぽい性質だ。

 だがレーラに話しかけられたことで硬直が解けたらしい。ノエはしゃんと立ち上がり、アンゼリカに向き合った。


「おひさしぶりです、アンゼリカさま。薬の材料を採りに行くのをお手伝い頂いて以来ですね」


 丁寧な笑顔、けれどその社交辞令は本題からの逃げのようでもあった。アンゼリカは砂糖のついた指をぺろりと舐めて、言う。


「十年前、一緒に〝新月の夜霧草〟を摘みに行ったことね。あれはとても楽しかった! 一緒に妖精女王を怒らせて、一時はどうなることやらと思っちゃった。あなたは覚えているかしら」


「ええ、忘れたことはございません」


 知らない冒険の話に、レーラは眉をひそめる。〝新月の夜霧草〟、それは海の底に行くための薬には必要のない毒草だ。それに十年前とは。一体、ノエは何歳いくつなのだろう? 

 老いを知らない人外にとって、人間の年の判別は難しい。十五、六そこらかと思っていたが、二十五くらいと言われても違和感はなかった。


「それで。先程のお言葉の、意味を伺っても?」


 十年振りだ。ノエに覚えがないのも無理はない。けれど魔女にとっての十年は軽い。だからアンゼリカは、容易く愛を語ってみせる。


「言葉通りよ、ノエ。アナタがいなくなってから随分と経ったわ。でもふと、懐かしくなって会いたくなった。会いたくなったから、ワタシ、アナタを愛すると決めたの」


 〝愛している〟ではなく〝愛する〟。人間は普通、そうは言わないことを、レーラは物語によって知っている。嫌な予感がして端から口を出す。


「ねえアンゼリカ。おまえ、わかってる? この娘が人間だってこと」

「勿論よ。安心なさいな。アンゼリカはちゃあんと人間の作法を弁えて、ノエに愛を囁きに来たんですから!」


 なだらかな胸を張り、得意げに指をくるりと振る。アンゼリカが魔法を使う時特有の動作だ。


「ノエへの贈り物を用意したわ。どうぞ気に入ってちょうだいな!」


 ぽん、と魔法によって床の上に現れたのは、プレゼントの山だった。作りのしっかりとした箱に色とりどりのリボン。その包装は確かに人間の作法に則ったもので、それも上等なものだった。レーラは片眉を上げる。


「意外にまともな求愛ね」

「でしょう?」


 レーラは遠目に、プレゼントの箱に押された印に気付く。鳥籠の印だ。ロビンソンは小鳥・・の他に、品物を魔女に売りつけたりもする。


「さては居場所をアンゼリカに流したのは鳥籠屋か」


 魔女と魔術師の関係は上下。魔術師は、魔女自身についての情報はおいそれと漏らさないが、ノエは人間だ。所在を知りたがる魔女アンゼリカにはほいほいと売り渡したことだろう。


「口止めをしなかった私が悪いですね……」


 俯いて、反省の呟き。次に顔を上げたときには生真面目な顔をしていた。ようやく冷静さを取り戻したらしい。ノエはそしてアンゼリカに、深々とお辞儀をした。


「申し訳ありません」


 今までレーラが見た中で、一番慇懃で、無礼から遠く、親しみからは遠い動作だった。


「贈り物は受け取れません。アンゼリカさまの愛にはお応えできません。たとえ何を頂いたとしても」


 言葉飾らず端的に、突き放す。その丁寧さは冷淡さでもあった。

 返答を受け、アンゼリカは贈り物に囲まれて立ち尽くしていた。ノエの生真面目な顔を鏡写しにするように、アンゼリカから表情が抜け落ちる。


「そう。そうなの」


 アンゼリカの振る舞いは子供じみているが、思慮がまったくないわけではない。妖精は純粋ゆえに嘘も多少は見抜く。つまり、ノエの言葉を正しく理解できてしまう。それが、本心からの拒絶である、と。


「じゃあ、しょうがないわね」


 アンゼリカは表情を脱落させたまま、物分かりよく、頷いて、



「──それじゃあ、アナタを妖精の国に、連れて帰るしかないわね?」



 妖精は純粋だ。しかし妖精の純粋さは、必ずしも善なるものではなく。

 そして純粋さと我儘さが同居した妖精魔女アンゼリカの性質は、人間にとって毒だった。



 やはりこうなるか、とレーラは思う。

 魔女に気に入られるとどうなるかなんて、一に誘拐、二に拉致、三に監禁である。

 まったく怖い話だ。レーラは自らを棚に上げて魔女を貶す。生まれを選べるならば魔女になど生まれていないと常々思う。

 堂々とした拉致宣言に、ノエは真顔を無機質な笑みで上書きする。にっこりと一部の隙もない笑顔は腹を括った人間のそれだった。


「レーラさま。少々はしたないですが、すみません」


 言い捨てた矢先、ノエはスカートをたくし上げる。何をするかと思ったのも束の間、ノエは椅子を踏みつけ、背もたれを飛び越えた。

 ノエが目指すは扉の方向。ブーツで床を蹴って瞬く間に出口へと飛び出す。脱兎の如くとはこのことだった。

 呆気にとられたように、アンゼリカは瞬きをする。


「どうして逃げたのかしら?」

「さぁね。おまえにはわからないでしょうよ」

「いいわ。捕まえて、ノエに聞くもの」


 アンゼリカは蝶の翅を震わせて、ノエの後を追う。

 置いてけぼりのレーラは憮然としたまま、一瞬にして無人になった部屋を見回す。蹴り倒された椅子に、散乱した色とりどりの贈り物の箱たち、中断された茶会の様相。


「本当に。ろくな客が来やしない」


 魔女同士は不可侵の掟がある。これはノエの問題で、レーラには関係のない話だ。

 カップを傾ける。しかし中身はとうに空で、なけなしの雫一滴が唇を濡らしただけ。

 レーラは開けっ放しになった扉の方に目をやって、仕方なく、杖を箒に変えた。



   2




『アナタを妖精の国に、連れて帰るしかないわね』


 それを聞いて、ノエはアンゼリカの前から逃げ出した。

 あのまま留まって会話を続けることはできなかった。アンゼリカのあの目はいけない。澄みきっているのに、どこを見ているのかわからないような、恐ろしい目。──あの目をした時の魔女には、話が通じない。


 だが実際のところ、逃亡の要因は七割が危機感で、三割が困惑だった。困惑の方は魔女だとか人外だとか関係のないところに起因している。

 ノエは苦手なのだ。──自分に、恋愛の感情を向けられることが。

 物語ならば純も不純も語れる。外側から他人の色恋を眺めることに難もない。けれど、その中心にノエ自身が引き摺り出されると駄目だった。途端にどうしていいかわからなくなる。うまく、口が回らなくなる。


「……ああ恥ずかしい。純情ですか、初心ですか、いつまでも生娘みたいに……」


 自己嫌悪が呟きになって漏れ出す。浮かれているのではない。むしろ、反対。


「困ります……私……」


 足早に歩き進むこと数分。森の中は昼間でもどこか薄暗い。青々と茂る針葉樹の合間を抜けて、湿った黒土を踏みつけ、奥へ奥へ。心につられて自ら迷子になるような足取りで。

 所詮、逃亡などその場しのぎにすぎない。


「ねえ、待って。待ってってばー!」


 アンゼリカの声が追いついてくる。後を見やれば、森の中でも際立つ華やかな髪色と虹色に輝く黒翅。

 追いつかれるのはわかっていた。逃げの目的は、会話に少し間を空けることだから。ノエは頬を叩き、思考を切り替える。結局のところノエに取れる手段は〝説得〟の一択しかないのだ。


 ──芸には、魔法に似た力が宿る。ノエはうたを生業とする吟遊詩人。その経歴は長く、その芸は〝ほんの少しの魔法〟に足る。

 ノエの言葉はほんの少しだけ、相手に通じやすいのだ。するりと心に滑り込む話術。人と違う論理で生きる魔女たちと渡り合える一因はそれだった。もっとも、動揺しては無意味だが。

 ひらひらと翅を動かして、こちらへと飛んでくるアンゼリカは落ち着いて見える。先程の、問答無用でノエを連れ去ってしまいそうな迫力はない。会話の続きも、成り立つか。ノエはアンゼリカと距離を取ったまま、振り返る。


「もう、ノエったら。逃げるだなんてひどいじゃない」

「すみません。私、驚いてしまって」

「ふぅん? ま、逃げられると思っているところも、かわいいのだけど」


 頬をばら色に染め、紅い瞳をうっとりと歪ませた。落ち着いて……いるだろうか? ええいままよ、とノエはいつもより、強引に話を運ぶ。この話題は、躊躇しては押し負ける。


「アンゼリカさま。確かめたいことがあるのです。私が好きだと、仰いましたが。どこが、どんなふうに、教えていただけませんか?」


 情緒もへったくれもない無作法だが、まずは意図を正しく解かねばならない。真意をだ。ノエの不躾な問いに、アンゼリカはにっこりと余裕に満ちた笑みを浮かべる。


「いいわ。アンゼリカは教えてあげる。……アナタの目が好きよ。朝焼けに染まる野ばらのよう。アナタの顔立ちが好き、小さな鼻が、よく笑う口が好き。ずっと見ていたいわ。竪琴を奏でるアナタの細い指先が好き。触れたい。声を聞きたい。言葉が欲しい」


 つらつらと並べるそれは、至極真っ当、恋する乙女のような文句。止めのように笑みを満面。


「アナタが好きよ、ノエ。本当にアナタのことを気に入っているの」


 赤い瞳が歪む、歪む。


砂糖菓子と同じくらいに・・・・・・・・・・・!」


 ──ああやはり、こうだった。


 アンゼリカの語った愛の言葉の質量が軽くなる。意味が浅くなる。予想はついていた。深い仲ではなかったが知らぬ仲ではない。顔に浮き出そうになる苦味を抑える。


「アンゼリカさま」

「どうぞアンと呼んで? ワタシとアナタの仲じゃない」

「アンさま。私は砂糖菓子ではないのです」

「そうね? 見たらわかるわ。でも。──それが一体、なんだというの?」


 頭が冷えていく、三割の困惑を、危機感が上書きしていく。

 アンゼリカは言った。愛することは〝お気に入り〟にすることだと。その言葉通りアンゼリカは好ましいものを等しく愛しているし、気に入ったものを収集し所有しようとしているだけ。

 本気で、砂糖菓子を口に入れることと、ノエを攫うことが同列なのだ。それが、妖精魔女にとっての〝愛〟だった。


 アンゼリカの瞳が、澄んでいく。慄くようにノエは一歩、後ろに退がる。アンゼリカは、躊躇いも気負いもなく、指を振る。


「〈──木よarbor〉〈──木々よarbores〉」


 くるりくるりと、指先は二本の木々に。


「〈────踊りなさいsaltate〉」


 魔法をかけられた木々は、地面から引っこ抜いた根を足に変える。枝葉を腕に変える。うろでできた顔を作り上げる。即興の使い魔だ。


「アンゼリカがアナタを愛するんだから。ノエだって、ワタシを愛してくれるでしょう?」


 相思相愛を、当然の決定事項として。鬼気携える使い魔を背後に、ノエを見つめるアンゼリカの透き通った目の奥。純粋さすら禍々しい。木の虚でできた瞳は闇の中にノエを捕らえている。脅しであることは明白。


「……これは、だめですね」


 勘は経験上。爛々と光る目は話が通じない証だった。アンゼリカは、平静ではない。

 魔女の性質。意地が悪く、性根が悪く、頑固で、気難しく、我儘で、傍若無人。そんな彼女たちは機嫌を損ねた時、容易に正気を投げ捨てる。正気などない方が、魔法を使うには都合がいいのだという。怒らせてはならない所以だ。

 理不尽を相手には、とりあえず逃げるしかない。ノエは踵を返す。落胆している暇はない。


「行きなさい! ワタシのノエを、捕まえて!」


 ──ォロロロォン、と。木の使い魔たちが唸りを上げる。虚でできた真っ黒な目と口を、大きく開いて。その様子は如何にも悪霊じみていて、暗い森に似合いすぎている。夜風のような怖気が肌を差す。

 それらが、走り出したノエを追いかけてくるわけで。ノエは「うぇ」と声を上げたくなるのをすんでのところで耐えた。夜も雷も嵐も愛せるが……流石にこれはちょっと、嘆きたかった。



 花妖精の飛ぶ速度はさほど速くない。黒蝶の翅は綺麗だが、速く飛ぶには向かない。だから代わりにアンゼリカは、使い魔にノエを追わせるのだ。

 根の脚が蛸のように、地面をうぞうぞと這いずる。練り合わせた枝葉で出来ている腕の先、よく動く指は楽器すら弾けそうだった。その器用さがまた気味悪さに拍車をかける。

 魔法の力を自在に操る魔女から逃げるのは困難だ。この逃亡劇は始めから人間に不利。わかりきった結末を待ち、アンゼリカは後ろで悠々と構えるの、だが。


「意外と、やるのね? 手加減をしすぎたかしら」


 蓋を開けてみれば、逃亡劇は案外と成り立っていた。木々が枝葉の腕を伸ばしてノエを捕まえようとする度に、ノエはひらりと躱し、丸太や段差をひょいと飛び越えては、魔の手から逃れる。その絵面は逃亡劇というよりも、鬼ごっこか追いかけっこ、つまりは子供の遊びのよう。

 アンゼリカはにんまりと笑う。


「ええ、それでこそワタシのノエ。折角だから楽しみましょう! すべてのことは、楽しまなくちゃ!」


 瞳には穏やかならぬ光を湛えたまま、弾む童心と遊び心。感情を取り繕っているのではない。アンゼリカという少女は喜怒哀楽の内、楽しみを表すことばかりに特化している。


 ──流石に私は、楽しむほどの余裕は、ないのですが! とノエは心のうちでぼやきながらひた走り、使い魔たちをなんとか引き離す。

 服は長袖で露出がない。足元は走りやすい頑丈なブーツだ。走れど枝が肌を引っ掻くことはなく、小石に足を取られることもない。スカートの裾は捲り上げたままボタンで固定していた。服の中に刃物を二本ほど備えてもいる。扱いは不得手だが。


 さて。どうしたらもう一度、話ができるだろう? まずはアンゼリカに落ち着いて貰わなくてはいけない。ノエは武人ではないし、武器はできるだけ使いたくない。たとえ無礼を許してくれる魔女でも歯向かう者には厳しいものだ。刃を向けでもしたら、火に油を注ぐ羽目になるだろう……。


 そう、走りながら考えていたから。後ろの使い魔たちには意識を向けても、前方へと躍り出た魔女には気付かなかった。急停止、旋回。と足を止めて気付く。


「なんだ、レーラさまですか」


 箒に軽く腰掛けた、銀髪の魔女が目の前に。


「その顔。警戒心がなってないわ」


 ほっとしたのを仏頂面で咎めるレーラは、森に紛れるような深緑のローブを羽織っていた。ローブには軽い身隠しのまじないがかかっている。

 一体何をしに来たのだろうか、疑問に思う。


「見物よ。ただの」


 いつまでも止まっているわけにはいかない。走りだしたノエの側、レーラは地面すれすれを箒で並走する。空を飛ぶのは嫌い、とはいえ低空ならば忌避感はない。


「おまえ、よくもまあちょこまかと動けるわね」

「昔とった杵柄です」

「どうやったらとれるのよ」

「何事も経験、と言いますか。魔女さまの、不興を買って殺されかかることも、一度や二度ではありませんでしたから。逃げ足に、自信もつくというものです」


 家に通うようになる前に森の地理を覚えていた。魔女の家を訪れるにあたり、いざという時の逃げ道を把握しておくのは基本だ。レーラはふぅん、と興味なさげに相槌を。


「でも。いつまでも逃げられないわよ。この森で生まれたモノたちは、森のことをよく理解している。地の利はアンゼリカにはなくとも、使い魔には備わっているわ」


 その言葉を示すように、追い迫る使い魔たち。会話の最中でもノエの動きは淀みなく、息も上がっていない。が、このままではじり貧になることは明白だ。決め手がない。

 レーラはぽつりと零した。


「おまえ、私に助けを頼まないの?」 

「助けていただけるんですか?」


 ノエは目を瞬いた。考えもしなかったという顔だ。


「ああ、そう。最初からその気がないのね。かわいげのないこと」


 気怠げに、レーラは首を傾ける。


「求められたら一考ぐらいは、してやったわよ」

「────」


 開けた口から言葉が出ない。

 アンゼリカという魔女に目をつけられた、それはノエの問題だ。レーラには関わりのない話で、〝魔女〟はけして味方ではない。それが、人間としての常識だ。けれど。


「ありがとうございます。でも私」


 『一考ぐらい』、きっとレーラは本当に一考するだけだろう。ただの気紛れで、考えた上でも放置するかもしれない。だとしても──嬉しかった。だから。


「レーラさまのお力を、利用するような真似は、したくないのです」


 かつて良好な関係を築こうとしたのは打算、願いのためだった。今は違う。


「だって」──愛を知りたい。と、レーラの願いを知って、あの契約を結んだその日から。ノエは、詩人として、レーラに向き合っている。そこにあるのは矜恃と意地と義理。


「願いの引き換えには、対価があるべき。でしょう?」


 契約で結ばれた関係だからこそ。対等でいたい。だから。その手は、取らない。


「立場を弁えているのは、よいことね」


 魔女は、満足げに口の端を上げた。


「あ、でも、助言とかは欲しいです」


 ノエは掌を返した。それはそれ、これはこれ。無理は無理だ。


「……臆面なく言える図太さも、感心だわ。ある意味」


 上げたままの頬を痙攣らせる。


「身の程を弁えているのもよいこと、か。口出しくらいはしてあげましょう」


 だがその前に。まずは近づいてきた追手を何とかしなければ。ノエはぐねぐねと入り組んだ樹林の中へと飛び込んでいく。レーラはその後を余裕の箒さばきで付いていく。樹木を盾に、使い魔を遠く引き離し、一呼吸。

 レーラは脚を取られる使い魔たちに目を向けなから、教授を始める。


「使い魔には二種類あるわ。獣や鳥や虫、動く命を使い魔にするか、物に形を与えるか」


 ローブから、水の入った瓶を取り出し、栓を抜く。実演だ。杖を鳴らせない代わりに、レーラは指を鳴らす。瓶の中の水が一滴、小魚のような姿をとって飛び出した。透明な小魚は、レーラの周りをぐるりと泳ぐ。


「植物や事物、モノを利用して作る即興の使い魔には制限がある。時間が短かったり、動ける範囲が少なかったり」


 言い終えぬ間に、水の魚は、弾けて消えた。


「あの木の使い魔は、この森からは出られないわ」


 助言はこれでおしまいだ。瓶に栓をし、ローブにしまう。


「ま、せいぜいがんばりなさい」


 レーラの箒はノエから遠ざかり、森に紛れて見えなくなった。

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