第3話 小夜啼鳥は恋を歌わない(下)

 さて、これからどうするか。

 テーブルにはレモンタルトが相も変わらず魅惑の輝きを放っていた。茶会の用意は八割方できている。 


「中止、というには勿体ないわね」


 杖を鳴らし、魔法で椅子をもう一脚用意する。


「ナターリアと言ったわね。おまえにも一切れ分は付き合ってもらいます」


 まごつく女の手を、ノエが引く。


「ご安心ください。私はナターリアさんと同じ、〝人間〟です」


 ようやく肩の力を抜いたナターリアは素直に椅子に腰掛けた。


「折角なので、喉に効く薬草茶でも淹れますね。ついでに余りのレモンも使いましょう」


 ノエは籠からレモンを取り出した。紡錘形の果実は見事な黄色に熟している。レーラはふと気付く。今はレモンの季節ではない。


「おまえ、材料をどこから調達しているの?」

「昔知り合ったとある魔女さまと、使い魔を通して取引をしております」


 しれっと異常を答える。人間と取引をする魔女は珍しくない。その人間が、魔術師ならばの話だが。


「おまえ、本当に魔術師ではないの?」

「もちろんです。魔術の才はからっきしでしたので」


 流石に手を出したことはあるらしい。それを聞いて逆に安堵するのもおかしな話だった。

 そして、今度こそお茶会が始まる。レモンの輪切りが浮かんだハーブティーは、温かいのに涼やかな風味だった。均等に切り分けたタルトは蜂蜜の控えめな甘さが心地よかった。舌触りのなめらかなクリームと、ざくざつと荒い食感のタルト生地が口の中で混ざり合う。お茶もお菓子も、いつもよりも酸味が強い味わいだが、雨の日には丁度良い。


 ようやくひと心地ついたレーラはカトラリーを置き、依頼についての話を切り出す。


「私に持ってきたということは、鳥籠屋はこれを〝呪い〟だと見ているのでしょうね」


 魔法や呪いはかけるより、解く方が難しい。


「原因の究明、術者の特定、強引な解呪、取れる手段はそのあたりね。声が出せなくなる呪いにはいくつか心当たりがある。そう難しいものではないわ。解き方をひとつひとつ試してみましょう」


 さいわい、声の出せなくなる程度の呪いは大したものではない。上手くいけば、日暮れまでには終わるだろう。


「厄介なのは、これが本当に呪いなのかどうか、だわ」


 呪いでなかった場合、レーラに打てる手はない。


「ナターリアさん、お医者さまにはもうかかりましたか?」


 ナターリアはこくり、と頷く。まだ菓子にもお茶にも手をつけていない。そのことに気付いて、レーラはじっとナターリアを見る。ナターリアは観念したようにカップに口をつけた。恐る恐ると口をつけ、形のいい眉を潜める。


「お口に合いませんでした?」


 魔女であるレーラが聞いては萎縮していただろう問い。それを代わりにノエがする。ナターリアは睫毛を震わせた。否定とも肯定とも取れない。

 結局茶会の最後まで、ナターリアはタルトには手をつけなかった。




 解呪には多少手荒な手段をとった。というよりは多少手荒な手段しかなかった。

 例えば喉に何本も太い針を刺したり、頭が痛くなるような強い香を炊いたり、泥のような不味い薬を飲ませたり、と。そういう、あまり喜ばしくはない手段だ。つまりは痛みや苦痛を伴うものだった。魔法をかける側はそれなりに綺麗な手段を取れるが、無理矢理に魔法を解く側は、汚れ仕事になりやすい。


 何がしかの非人道的な実験か、とでも言いたくなるような解呪儀式に、ナターリアは抵抗を見せなかった。気弱で大人しそうに見えたが、案外肝が座っているのか、気丈に耐えていた。悲鳴こそ上げられなかったものの、表情には変化豊かな苦渋が現れていた。

 そんな実験を通しても、ナターリアの声は戻らなかった。効き目は、どうやらないらしい。


「手当たり次第はだめだったか」

「手当たり次第でとっていい手段じゃなかった気がするのですが?」

「そう? 次々試すのが一番効率的だと思うけど」


 ノエは珍しく苦笑いをした。魔法はレーラの領域だ。ノエは深く踏み込まない。


「やはり原因の究明かしら。どうして呪われたのか分かれば解き方にも当たりがつくのだけど」


 レーラはロビンソンが残していった資料を見る。そこには、ナターリアについての記録が書かれていた。


「ああ、なんだ。おまえも孤児なの」


 ナターリアは淡々と肯首する。十年前、ちょっとした流行病があった。王国は賢王と名高い名君のおかげで、被害を小さく収めたが。運悪くナターリアの両親は亡くなってしまった。

 そして残されたナターリアを拾い、美しく育て上げたのがロビンソンだった。


「鳥籠屋のやつ、拾い癖があるのよね」

「慈善ですか?」

「残念だけど、違うわ。あいつの行動原理はただ一つ。美しいものを収集し、磨き上げ、売り飛ばすこと。あくまで鳥籠屋はただの商人よ。人間といえどひと角の魔術師、時間の感覚が違うから、商品を磨くためならば十年の投資も厭わないだけ」


 あとの記録はナターリアをどんなふうに育てたか。食事や美容や教育など、きっかりと日々の予定が組まれている。鳥籠屋は芸のある品物を好む。

 ナターリアの美貌はロビンソンの魔術的な手入れによるもので、よく見ると素の顔立ちは素朴だ。食が進まないせいかやつれ気味でもある。肌はきめ細やかだが、喉を覗いた際に見た口の中は随分と荒れていた。心労が、肉体に出ているのだろうか。


「あの宝石と同じ値段を付けられたということは、おまえの歌声はよっぽどのものなのでしょうね? どんな声か、あまり想像がつかないわ」

「レーラさまは……そうでしょうね」


 ノエが思うに、レーラは自分の声を聞き慣れている。ただ普通に言葉を発するだけで人を魅惑するその美声を、レーラは毎日のように聞いているのだ。人間の基準の声の美しさを、わからないのも仕方がないだろう。


「あとは、ナターリアを欲しがった顧客のリストね。人間の名前を羅列されてもどうしろと。やっぱり、原因を探ろうにも本人に聞けないんじゃ話にならない」


 レーラが机に放り出した紙をノエは拾い上げる。顧客のリストは魔術をかけられていて、ノエには読めなかったが。


「確かナターリアさんは、買い取り先が決まりそうになった矢先に声を失い、契約取り消しの憂き目にあったのでしたね。この顧客たちに何か手がかりがあるのでしょうか?」


 問いかけはレーラではなくナターリアへ。ナターリアは瞳を伏せたまま、唇を引き結び、『わからない』と言うように首を振る。

 ノエはしばらく考え込み、ふと、雨音がしなくなっていることに気付いた。窓を開けると、雨が止んでいる。「丁度よかった」と独り言。


「ナターリアさん。気分転換に、外の空気を吸いに行きましょう。いいですよね、レーラさま」

「遠くには行かないこと。足元には気をつけなさいよ。崖なんだから」




 家から出ると、雨上がりの草木の匂いがした。雲間から漏れる日差しに、地面の敷石は濡れて輝いている。ナターリアは目を細め、先を行くノエに付いていく。


「あまり、離れない方がいいですね。ここでお話をしましょうか」


 そう言って、ノエはナターリアの方を顧みる。

 話とは。気分転換、というのはただの方便だと気付き、ナターリアは表情を硬くする。

 レーラに聞かれないように、連れ出す必要があった。


「ナターリアさん、あなたは──本当は、声を出せるのではありませんか?」


 ナターリアはゆっくりを瞬きをした。気弱な瞳には動揺ひとつ浮かんでいない。その問いは既に何度も受けてきた、というように穏やかな眼差しで首を横に振る。


「なるほど」


 ノエは自分が、心ない問いを投げかけていることを自覚している。お前は嘘吐きだ、と追求することはいい気分ではない。だが、ノエとてなんの根拠もなく言っているわけではなかった。

 ノエはナターリアのぼろぼろの口内を思い出す。さぞやレモンが染みただろう。解呪の試みの際の表情を思い出す。唇を固く引き結んだ苦渋の顔。まるで悲鳴を堪えるようではないか。声など上げたくても上げられないはずなのに、ナターリアは口を開けようとすらしなかった。


「声を出してはいけない時、口の中を噛んでいませんか? 私も身に覚えがあるので。悲鳴を上げてはいけない時はよく、舌ごと噛み殺してました」


 そのことにロビンソンが気付かなかったのは、本当に大切に扱っていたからなのだろう。

 ナターリアは動揺を隠すように、唇を噛んだ。実のところ、その動揺はほとんどノエの発言の後半に由来していたけれど。


「それから……私は声を出せない人を身近に知っていまして、その経験上、少し違和感を感じたのです。あなたの振る舞いが、必死に声を出さないよう耐えているように見えてしまった」


 ノエは声量を抑えたまま、淡々と続ける。


「勿論すべて私の、心ない勘違いかもしれませんが。今は、私の推測が正しかった場合の話をさせてください。あなたのやり方ではいずれ襤褸が出るでしょう。魔術師を欺き続けることは容易ではない」


 ノエはロビンソンの顔を思い浮かべる。仮面の奥の、彼の瞳は何も読めない真っ暗闇だった。陽気で騒がしく俗気と茶目っ気のある男だったが、どうにも分かり合える相手ではないことは、少し話しただけでもわかる。それが、魔術師という生き物だ。


「よろしければ、真実と、理由わけをお聞かせください。力になれるかもしれません」


 ナターリアは、戸惑った。ノエの言葉には不思議な引力があった。飾らない言葉、誠実な面持ち。ただの人間を自称しながら、魔術師に臆さず、魔女と渡り合う詩人の少女は、ナターリアの目にはまぶしく見えた。

 ナターリアこそ正真正銘の普通の人間。魔術師に花よ蝶よと育てられた、ただの乙女だった。そして目の前にはこれみよがしに差し出された助け舟。心の中で張り詰めていた糸が、切れる。


「あ……」


 長い間出していないせいで掠れた声、けれど涼やかな響きのある声で、ナターリアは告げる。


「あたしには……、愛し合った人が、いるの」




 真相はこうだ。一年前、ナターリアを買い付けようと熱心に鳥籠屋の元へ通った青年がいた。とある富豪の従者を務める男で、主人の買物に付き添いにやってきただけの青年だった。

 ナターリアは鳥籠屋の誇る歌唄いの小鳥として、富豪に歌を披露する。ロビンソンは本当に欲しがった人間にしか商品を売らない。故に、籠越しに小鳥に芸を披露させ会話をさせ、客が心からそれを欲しいを思うかどうかをはかるのだ。

 富豪はしばらくナターリアの元に通ったが、結局は違う小鳥を買っていった。しかし富豪と共にナターリアの元へ通った従者とナターリアは、その逢瀬の間に惹かれあってしまったのだ。 

 けれど一介の従者である青年に、宝石の値がつくナターリアを買うことはできない。


「そのうちに、あたしは……他の人に買われそうになって。このまま話が進んだらどうしようって。あたしは、声が出なくなったふりをしたの」


 声が出ないふりは、その場しのぎのつもりだった。

 だが、ふと、ナターリアは考えついてしまった。


 ──自分が高値なのはこの歌声のせいだ。

 ──ならば。歌えなくなれば、自分の値は下がるのではないか?


「あたしは、だから。不良品になろうと思った。そうしたら、あたしの値段は下がる。あたしは……彼の手が届く女になれる」


 想い人と結ばれるため。想い人が買える値段の女になるため。自ら値札を下げるために、ナターリアは声が出ないふりをしたのだった。何ヶ月も、声を出さないように、耐え忍んで。


「主さまには、よくしてもらった恩がある。これは、きっと裏切りだわ。でも、でも……あたしは……裏切るしかないの。愛のために」


 気弱で世間知らずの籠の鳥は、燃えるような情念を、瞳に宿していた。


「ふぅん、そういう訳だったのね」


 杖と足音と、冷淡な美声が聞こえた。レーラが、ノエとナターリアの背後からやってくる。


「レーラさま、いつの間に」

「……ま、魔女さま。聞いて、ましたか」

「当然。ここはまだ私の結界の中よ。何を話しているかなんて、部屋にいてもわかるわ」


 ノエは肩を竦める。


「詰めが甘かったですね」

「どうだか。おまえ、説明する手間が省けたとでも思ってるんじゃないの?」

「ちょっぴり少しだけです」


 ナターリアが信じられないものを見る目でノエを見た。


「味方じゃ、なかったの……?」

「味方ですよ」


 ノエは嘘偽りを感じさせない笑顔で言う。それがノエの得意とするところだと知っているレーラは、胡散臭そうにノエを見ていた。


「それで、レーラさま。確認なのですが、今のナターリアさんの話をロビンソンさんに正直に話す、というのは可能でしょうか?」

「無理ね。話したとして、鳥籠屋は一片も同情したり、融通を効かせたりはしないでしょう。

あれは所詮、自分の作り上げた商品を売りつけるのが趣味の人でなし。親に金貨を握らせて愛された子を買うことと、放っておけば死ぬ捨て子を拾うこと、その価値が同列よ。人の情など期待しないことね」


 魔法と魔術は、厳密には違う。魔法は人外の生来のものや、魔女の扱う全般や、人間の極めた芸の力など、幅広く内包する。よい意味で使われることもある言葉だ。けれど〝魔術〟は、極めるには非道な行いが必要となる技術だ。どんなに人当たりがよくても魔術師の根は悪人。


「では、レーラさまはどうなさいますか?」

「鳥籠屋に突き返すわ。おまえの小鳥に問題はなかったって」


 同情では動かない。それは、魔女であるレーラにも言えることだった。結果的に〝声を取り戻す〟という依頼は果たしたわけだから、気前のいいロビンソンならば報酬は出すだろう。

 ナターリアは泣き出しそうな顔で縋る。


「お、お願いです……! 主さまに言うことだけは、どうか」

「その願いを聞く理由が、どうして私にある?」


 力なくよろめいたナターリアの肩を、ノエが受け止めた。


「レーラさま。ロビンソンさんとは割り切った関係だとおっしゃいましたよね」

「そうね」

「では、鳥籠屋の依頼ではなく、ナターリアさんの依頼を受ける、ということは可能ですか?」


 願いを聞く理由がなければ、理由を作るまで、か。レーラはその提案をしばし、吟味する。


「私の興味と、対価次第ね。この娘が条件を満たせるのなら。だけど、ただの人間よりは魔術師の方が興味深いし、鳥籠屋は今まで対価をきっちりと支払ってきたわ。一体この娘が私に、何を差し出せるというのかしら?」


 その通りだ。ナターリアは俯く。大切にされているとはいえ商品(どれい)。ナターリアの私物はすべてロビンソンから貸し与えられたもの。彼女自身のものは、何もない。

 しかし、ノエは迷いなく、対価を提示する。


「愛の物語を」


「まさか、代わりにおまえが支払うとでも言うつもり?」

「いいえ、私ではありません。彼女の用意する物語です」


 ノエは悠然と微笑んで、言葉を弄し囀る。


「気になりませんか? ナターリアの、恩に背を向け、主を騙し、苦痛にも耐え、そうして手に入れようとした〝愛〟が、どんな道を辿るのか。


 ナターリアの、愛の行く末。その記録。


「レーラさま。生きた愛の物語に、ご興味は?」


 それが、ノエの提案だった。レーラは皮肉げに、ハッと笑い飛ばす。


「その悪趣味、魔女よりも魔女らしいわ。──そうね。悪くは、ない」


 対価としては上等だ。ならばあとは、願い次第。それが、レーラの興味に届くかどうか。

 濡れた敷石を杖が鳴らす。ノエに抱き抱えられたまま青褪めるナターリアに、レーラは詰め寄る。レーラの暗い水底の瞳に映る、純朴なナターリア。見上げる両目に浮かぶのはひとならざる魔女への怯え、恐れ。魔女は、誰もを魅了する美しい声で、誘惑を囁いた。


「さぁ、ナターリア。おまえは何を願うの? おまえの口で、言ってごらん。私が聞き届けるに足る望みを、言ってごらんなさい」


 女は、考えて、逡巡して、目を瞑り。涙の滲む瞳で、魔女を真っ直ぐに見つめ返した。



「──あたしの声を、潰してください」


 

 その、答えに。


「ふ、ふふ、あはは!」


 レーラは笑い出す。ノエの初めて聞くレーラの哄笑は、高らかで、底意地の悪い、魔女の笑い方だった。


「よりにもよって、その嘘を真にすることを望むか! 愛のために、己の価値を投げ打つと!」


 杖を鳴らす。レーラはその手に紙とペンを呼び出した。契約の用意だ。宙に浮かぶ巻物に、白羽のペンがひとりでに文字を走らせる。


「気に入ったわ、ナターリア。おまえの愛の末路を、その物語を、いつか私に差し出しなさい」




   4




 対価の一部として、声を潰す前にナターリアに歌を歌わせた。

 ナターリアが選んだのは情熱的な愛の賛歌だった。内気に見えて随分と挑発的なことをする。

 声そのものの質よりも積み重ねた研鑽が滲む歌声だった。確かに宝石の価値はある歌声だった。その声に、惜しむだけの価値があるからこそ、潰すことに意味がある。魔法をかけるのは呪いを解くよりも簡単だ。

 信じること、思い込むこと、己に嘘を吐くことが魔法の第一歩であり、その嘘を真実に帰るのが魔女の生業だ。

 そしてレーラは、ナターリアの声を封じた。


 日暮れ前になってもノエは帰らなかった。ナターリアが引き取られるまでは、と居座り、夜になった。再びロビンソンがやってくる。レーラとノエは、家の前でロビンソンを出迎えた。


「私には手に負えなかったわ」


 突き返したナターリアは早々に鳥籠に仕舞われた。


「左様でしたか、いやはや残念です」


 ロビンソンは大袈裟に肩を落とし、仕方なさそうに結果を受け入れた。

 雨は止んだままだったが、雲が月を隠してどんよりと暗い。ランタンの明かりに照らされて、暗闇の中で金属の仮面ばかりが光っていた。ロビンソンはぽつりと零す。


「レーラ様の手にも負えないとなると……やはり、恋の病でしたか」


 内心ぎくりとしたが、レーラは表情には一片も出さない。


「たまにあるのです、恋に病んで小鳥が壊れることが。あたくしに恋はわかりゃしませんが。その病がどんな薬でも魔法でも治りやしないことは現実です」

「……そうね。恋の病は、本当に厄介だわ」


 そっと薄い唇を撫でる。


「なにやら実感がこもっていますなぁ。レーラ様も恋なるものを経験済みで?」

「ハッ。ばかいわないで。私はそんな愚かな真似はしないわ」


 恋。それは、レーラの知りたい〝愛〟を知るためには、避けては通れぬ観念だった。


「ねえ鳥籠屋、参考までに聞かせなさいな。──おまえにとって恋とは何?」


 湿った夜風が流れた。ロビンソンは髭一本ない顎を撫でる。


「ふむ……むむ……そうですなぁ」


 珍しく胡散臭い笑みを消して、


「確かに厄介な病ではありますが。恋をすると、綺麗になるらしいのです。あたくしの見立ててでは、それもあながち間違いではない。実際、恋を経ることによって値段が跳ね上がった小鳥もございます」


 ロビンソンは答える。


「故に、恋とは、商品を壊すことも、当方の想像を超える美を作り出し、小鳥を完成させることもある──まったく予想の付かない、不運であり幸運とでも言いましょう」

「不運であり、幸運」


 レーラは反芻する。隣でノエが言う。


「言い換えれば〝運命〟ですね」


 ぽつり、と水滴が空から落ちてくる。水滴が二滴、三滴と続く。再びの雨が降り始める。


「おまえはどう思うの?」


 そうですね、と。ノエの眼差しは空へと向く。重い雨雲が空を満たしている。雨こそまだ弱かったが、今にもごろごろと鳴り出しそうだった。


「昔、ある詩人が一目惚れを〝雷の一撃〟と喩えました。その言葉に倣って、一目惚れに限らず、恋とは雷のようなものだと仮定しましょう。雷に打たれては死んでしまいますが、雷に打たれた人間は不思議な力に目覚めることもあると言います。不運か幸運かは、結果次第」


 ノエは庇のから出て、空の下へ。雨を掌に受けながら、続ける。


「何よりも。空模様ならば人には如何ともしがたいもの。天の采配は避けられぬ運命。恋もまた、そういうものなのかもしれませんね」


 恋は雷。雷鳴らす天は神の領域。故に恋とは運命。雷のように、避けることのできないもの。それが、ノエの言葉の意味だった。

「……ばからしい」


 レーラは苛立たしげに呟いて、杖を天に突き上げる。


「〈────雨よpluvia〉」


 唱えるは呪文。レーラの魔法が、一瞬、ノエの真上に降る雨だけを強める。

 バケツをひっくり返したような雨に、ノエは「きゃっ」と猫のような悲鳴を上げた。


「人には如何しようもない? それが何よ。魔女ならば、空模様ぐらい操ってみせるわ」


 ──運命の恋なんて、笑わせる。

 ずぶ濡れのノエは悪びれず、貼りついた前髪を払う。


「もう、レーラさまったら。意地悪です」




 レーラがナターリアにかけた魔法は、不完全な魔法だ。


『声が出せなくなるのは十年。十年の間、真実を誰にも伝えてはならない。さすれば、おまえの声は戻るでしょう』


 さて、己の価値である美声を失った籠の鳥が十年後、吐くのは呪詛か、愛の賛歌か。

 如何な結果であれ、それが意味を見出せるものであればいいと、レーラは思う。




   5




 ナターリアの一件を終え、ノエは思案にくれていた。

 あたりはすっかりと夜になってしまった。それに雨も不安定な降り方をしている。旅慣れたノエといえ、こうなればひとりで森を抜けるのは少し、よろしくない。


「ロビンソンさん、帰り道をご一緒してもよろしいですか?」

「よいですとも。あたくしひとりで魔術を使おうかとも思いましたが、普通に歩いて森を越える、というのもたまには乙です。それにノエ殿と話をしながら、というのはなんとも魅力的ですからね」


 ロビンソンは変わらず上機嫌に見えた。ナターリアの声は失われたままだというのに、それを悲しむそぶりもなければ、レーラを疑うそぶりもない。


「送らせるのはいいけど、礼はしなさいよ」

「ありがとうございます、ロビンソンさん。」

「なぁに、あたくしとお話をしてくれることこそが、喜びですとも」


 微笑みを返しながらノエは案じる。少し、気に入られ過ぎてしまったか。


「鳥籠屋。私の客・・・に、手を出さないように」


 レーラが溜息まじり、牽制を寄越す。気を使われてしまった。

 ──明日はしっかりと、レーラさまにお礼をしなければなりませんね。



 降ったり止んだりの雨が、針葉樹の葉を打ち鳴らす帰路。外套を纏う魔術師と少女は、手提げの灯りを頼りに進む。


「さぁさ、何をお話しましょうか!」


 先行するロビンソンは、暗い森に似合わないご機嫌な調子で言う。


「あたくしはさっきの、雷の話が気に入りましたよ。さぁ、話をしましょう! ノエ殿ならばどんなことでもお答えしますぞ。何か聞きたいことはありますかな?」


 どんなことでもというが。何を聞くのが正解か。迷った末に、ノエは自らの興味を優先した。


「どうしてロビンソンさんは、魔術師に?」


 魔術師。まともな人間ならば選ばない道だ。不老不死のため人外を目指すとはいえ、辿り着けるのはほんの一握り。半端者になってしまえば、人間の魂を、永遠を、ただ失うだけ。

 死後の苦痛や虚無への恐怖よりも生前の快楽を選ぶ、人間でありながら人でなし。そんな魔術師が、一体何を考えているのか。ノエは知ってみたかった。


「どうして。なるほど。どうして、と言いますか。よい質問ですな」


 ロビンソンはくるりと振り返る。そのまま前を見ずに後ろ歩きをしながら、仮面の下の唇を大きく歪める。仮面で目元は見えないが、おそらく子供のような、満面の笑顔を浮かべていた。

 片手にランタン、片手に鳥籠。ロビンソンは両手を広げ、朗々と謳う。


「あたくしは、世界を愛しているのです。だから永遠が欲しい。死にたくないし、ずっと楽しいことをしていたい。そのために、魔術師になったのです」


 たとえ、いずれ地獄に至るとしても。しくじり、すべてを失う可能性があるとしても。


「これは、まさに魂を賭ける価値のある生ですとも!」


 仮面の奥の瞳は暗くて見えない。けれどその穴は、まるで、あなたはこちら側だと糾弾するような暗闇だった。


「──貴女には分かるのでは?」


 ノエは湿った森の空気を深く吸う。肺が膨らむことを意識し、心臓の存在を確かめる。ロビンソンは隣を歩きながら静かにノエの返事を待っていた。騒がしさは鳴りを潜めている。

 少女と魔術師は暗い瞳で見つめ合う。浮かべるのは透明な、けれどけして無垢ではない笑顔。


「ええ。そうですね、私も」


 たとえ、願いの果てに、得るものが何もないとしても。


「この生に、賭ける想いがありますから」


 二人は歩く。進む。立ち止まらない。水溜りに映る自分の姿を、ノエのブーツが踏みつける。

 水溜りの中の少女は、波紋で掻き消えた。

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