第2話 平穏はやがて壊れる②


 翌日。


 昨日と同じく、気持ちのいい日だった。天気が崩れる心配もなさそうだ。


 「それじゃあ、行ってくるよ」


 「ああ。気をつけてな」


 「サグも、ギルの父さんもついてるから大丈夫だよ」


 リエルは父の声に答えながら短剣を腰に、えびらを背で結び、弓を手にして家を出た。


 エマは腰を痛めた父の代わりに畑を耕していた。


 「気をつけてねー」

 

 「うん、そっちも頑張って」


 村の出入り口に行くと、ちょうどサグとマイケルもやって来た。


 サグはつい最近十六の成人を迎えた、村一番の俊足である。

 ギルバートの父であるマイケルは、今日も


 村から狩場までは、少し距離がある。


 「サグももうすぐで大人だな。成人の儀の準備はしてるのか?」


 「いやあ、あんまり準備することもないですよ」


 「そうか? ……まあ、男ならそんなもんか」


 「はい」


 「相手はもういるんだろ?」


 「ええ、まあ」


 サグははにかみながら答えた。


 「リエルはどうなんだ?」


 リエルにとって、村のこういうところは少し苦手だった。


 「リエルさん、強いのになあ。なんでなんですかね。やっぱ、もっと強さを全面に押し出してったほうがいいんじゃないですか?」


 サグにはすでにお互いで心を決めた相手がいるらしく、年に一度、夏に行われる成人の儀というお祭りの後、すぐに結婚することになっているらしい。


 会話しながら、森に群生する草を擦りつけていく。獣は大抵、人間よりも目が悪く、その代わりに鼻がいい。これまでに村の狩人たちがその身を張って得られた智慧の集積のひとつだ。

 服が緑色に染まっていく。といっても、洗濯する頻度はさほど多くないため、今ではすっかり、そもそもが緑色に変色してしまっている。


 実のところ、他の村の男とは異なる不思議な、飄々ひょうひょうとした雰囲気もったリエルは女性の関心を惹いていたし、色白で繊細な面立ちも人気は高かった。しかし、密かなファンは多かったものの、シャイな女性が多く、リエルも口数が多い方ではないために、気になるけど話しがたい存在になっていた。そしてやはり、狩人の腕前は知っていながらも、結婚相手となると繊細な面立ちのリエルは頼りなげに見えるらしかった。


 三人ともが意識を切り替えて森へ足を踏み入れる。

 先ほどから聞こえてきていたさえずりの主は、まだ素っ裸な木の梢に留まっていた。尾ドリだ。

 リエルがさらにその上へ視線だけ移動させると、オオドリが悠々と旋回しているのが目に映った。空気を握りこむように立体的な翼を優雅に羽ばたかせながら、その猛禽の鋭い目で獲物を見定めているのだろう。


 視線を切って、地上を見やる。尾ドリのさえずりもかすかに捉えたままだ。

 狩人は常に全体を見ていなければならない。一点に集中することが許されるのは、標的を仕留めるときだけ。見て聴いて嗅いで五感を使う。


 それからしばらく。

 周囲を探るものの、標的となりそうな獣は発見できないでいた。


 「上から見てみます」


 リエルは進言し、マイケルの承諾の意を受け取ってから幹のちょっとした凹凸を手掛かりに、手近な木をするすると上った。武器を持ち動きが制限されている中での身のこなしに、「さすがだなあ」とサグが感嘆の声をもらした。


 マイケルとサグはゆっくりと慎重に歩を進めて獲物を探す。

 可能なところまで登ったリエルが、首を巡らせる。木々が乱立しているものの、葉をつけていないため見晴らしは良い。

 そして――


 「……っ…………」


 サグとマイケルの進行方向に、獣を発見した。


 ウィシシだ。

 黒褐色の毛に覆われ、前に突出した鼻面と平たい鼻先が特徴的な四足獣。特に珍しい獣というわけではない。が、その個体は異常といえた。


 一目で、あれが父の言っていた奴だとリエルは確信した。

 リエルは一刻も早くこのことを知らせたかったが、先行する二人へ合図して音を感知されてしまえば、かえって危険だ。そう判断して、自ら気づいてくれるように祈った。

 そして幸いなことに、すぐにサグも察知したようだった。サグが緊張した面持ちでマイケルに目配せをすると、マイケルがその意図を読み取り、サグの目線の先を追う。マイケルの体が強張ったのがわかった。


 リエルはひとまずほっとして、その個体を観察した。

 冬を越えたばかりだというのに、たっぷりと栄養を蓄えている。その大きさは目を見張るほどだ。

 平均的な個体は鼻面が成人の脚ほどの高さで、大きな個体であっても、せいぜい腰に届くかどうかといったところなのだが、目に映るのは、胸にまで届きそうな怪物だった。


 少なくとも、リエルはここまでのものを見たことがなかった。元々身体能力に秀でた生物でもあるため、ただ肥えているわけではなく、強靭な筋肉の鎧をまとい、その体の輪郭は引き締まっている。


 リエルは心算した。

 さて、あの大物を仕留められるだろうか。やるのであれば、確実にとどめを刺さなければならない。中途半端にやろうものなら、逆にこちらがやられてしまう。


 三人ともが音を立てず、ウィシシの足に踏みしめられる葉の音が静寂に広がる。

 

 距離はある。まだ向こうは気がついていない。


 ウィシシは通常、数頭の群れをつくって行動するものだ。にもかかわらず、この個体は一頭。辺りに仲間の気配も感じられない。森の中を悠々と歩く姿からは、人間を恐れる姿など想像できない。やはり、他の個体とは別物と思ったほうがよさそうだ。とはいえ、このまま放置していても村が襲われるのが目に見えている。奴に仲間がいないのは、こちらにとっては好都合。できるのなら、ここで仕留めてしまうのが一番だ。


 緩やかな、長い風が森を通る。擦りつけた草の匂いがウィシシの鋭敏な嗅覚をあざむく。

 草木の騒めきに呼気までをも合わせるようにして、三人は対象への警戒態勢をつくった。


 サグはあまり経験がない。が、平静は保てているように見える。マイケルはさすがに落ち着いている。


 マイケルが振り返り、リエルと視線が合う。リエルは『やりますか』とジェスチャーで問うた。


 個々の判断も重要であるが、連携が求められる狩猟において、最終的な意思決定はその中で最も経験豊富な者にゆだねられる。この中のリーダーはマイケルだった。


 マイケルは首を小さく横に振った。

 妥当な判断だ。リエルに否はない。リエルに加え、緊張した面持ちで判断を仰いでいたサグも頷いて了承を示す。


 さあっと、一陣の風が吹き抜ける。

 

 サグとマイケルは、ウィシシとの距離を離すため、少しずつ後退を始めた。ウィシシは嗅覚や聴覚に優れるが、目は良くない。

 リエルは余計な音を出すのを嫌い、樹上で動向を窺った。


 風が止み、ちょうど草の揺れが静まった時だった。

 

 ぱきり。


 嫌な音が鳴った。糸を張りつめたように空間が強張る。

 乾いた小枝を踏んだ音だった。花をんでいたウィシシが顔を上げる。その視線がぶつかり、サグの顔面が蒼白になったのがリエルにも分かった。


 音が鳴った時点で、マイケルは全力での逃亡を開始していた。しかし視界の隅でとらえたサグは硬直している。


 「逃げろ!」

 

 マイケルの声にサグの思考がやっと追いつく。ウィシシは既にサグへ向かい突進している。サグは即座に身をひるがえした。持ち前の俊足で逃亡をはかる。


 そもそも、ウィシシは基本的に草食で臆病な性格でもあるため、無闇に刺激を与えない限り積極的に攻勢を示すことはないのが普通である。が、この個体は自らの巨体の優位性を認識し、揺るぎない自信を持っているらしかった。


 サグは腰が引けないように必死に腕を振って脚を持ち上げて走った。

 極度の緊張状態の中にあってさえ、サグの走りは鈍ってはいない。間違いなく村一番のものだといえた。しかし、いくら俊足とはいえ四足獣には敵わない。

 マイケルがデカブツの標的を変えるため挑発するように声をかけるものの、サグを逃がすつもりはないらしい。


 サグの緊迫感がこちらにまで伝わってくるようだった。緊張によってリエルの息が急速に上がる。


 ふと、サグが縋るような目で樹上のリエルへ視線で問うた。


 

 ――ウィシシは目が悪い。自慢の嗅覚もサグに夢中で鈍っている。まだ自分は認識されていない。



 リエルは迅速に決断を下し、サグへ頷きを返した。サグが救われたような、申し訳なさそうな複雑な表情をして走る向きを変え、リエルのいる木へひた走る。

 

 リエルは一呼吸してすっと気分を落ち着けた。

 

 弓に矢をつがえ、引き絞る。矢じりが指すのは木の真下。標的は、サグからわずか一拍の距離。

 

 サグが通過する、と同時、リエルは躊躇なく弓を解放した。

 そのまま腰に携えた短剣をすらりと抜いて、標的へ覆いかぶさるように樹上から飛び降りる。矢じりが吸い込まれるようにウィシシの眉間に突き立つ。が、皮は厚く、死には至っていない。怯んだ様子のウィシシは反射的に鼻づらを上向け――そこへリエルがのしかかる。

 ウィシシを抱え込むように思いきり腕を回しこみ、流れるように短剣を突き入れる。


 刀身は分厚い筋肉の鎧に深々と埋まり、寸分の狂いなく、心臓の側を通る大動脈を穿うがっていた。


 ぐったりと倒れたウィシシは息を荒げ、やがて、動かなくなった。

 高まりきった緊張が爆ぜ、リエルの心臓は今になってようやく思い出したかのように激しく脈動した。


 短剣を引き抜くと、その刀身にはぬらりと妖しく光る血が付着している。穴からはせきを切ったようにこぽりこぽりと生命が流れ出ていく。


 「あり、がとう、ございました……。リエルさんは、命の恩人です。ほんと、死ぬかと思いました…………」


 全力を出し切ったらしいサグが、へなへなと地面に手をつきながら疲弊した様子で言った。


 「サグの走りもすごかったよ。僕だったら死んでた」


 リエルもまた、余裕はあまりなかった。笑顔にも力が入らない。

 互いに恐怖から抜けきらない曖昧な喜びを共有しながら矢を回収したところで、マイケルがやって来た。


 「すげぇな、リエル。狩りの腕でいやあ、もう村一番なんじゃねえか?」


 にっとマイケルの口角が上がっている。


 傷をつけすぎると、その分だけ腐食が早まり、味も落ちる。その点で言えば、頭に矢傷を負わせてしまったのは痛い。が、獲物の強大さを思えば、我ながらうまくやったな、とリエルは思った。


 「いや、運が良かっただけです……、けど、良かったです」


 「おう」


 マイケルがリエルの肩を軽く小突いた。


 「サグもよく逃げ切った。俺にはできねえ芸当だ」


 サグは照れくさそうに笑った。


 「二人とも怪我はないか?」


 「はい」


 「大丈夫です」


 「よし。焦る必要はねえと思うが、じきにこいつから退避してた獣たちが戻ってくるだろう。軽く処理して、早めに帰ろう」


 「はい」


 リエルとサグが同意を示す。


 空をあおいでみると、厄介な簒奪者さんだつしゃであるオオドリも、こちらへ来るつもりはないようだった。


 適度に気を緩め、リエルは作業に移った。


 ウィシシの脚を持ち上げ、体内の血を押し流す。さすがの巨体とあって、一人では荷が重い。

 体はまだ温かく、とめどなく流れ出る血が寒気を越えたばかりの冷たい空気にさらされて、生命の残滓ざんし揺蕩たゆたうかのように湯気が立ち昇った。


 リエルとマイケルがウィシシを持ち上げ、サグは辺りの警戒をする。解体するために、足早に沢へ向かった。


 村近くにある小さな川はいくつにも枝分かれしていて、それらは用途によって使い分けられていた。

 生活用水とは別で獣の処理用に使われている沢に着くと、リエルとマイケルは獲物を置いた。


 マイケルが獲物をずれないように抑えつつ、リエルが腹を切り開く。

 袋を損傷させてしまうと、かなり臭う。袋を破かないよう腑分けするのには技術がいるが、幼い頃から父に狩人としての教えを受けていたリエルにとってはこれもまた慣れた作業であった。


 リエルは内臓を慎重に取り出していく。いまだに温かな熱をもち、表面の血がむわりと両手に絡みつく。


 「上手くなったなあ」


 マイケルは、息子の幼馴染とあって小さい頃からよく知っているリエルの成長に素直な感心を示した。


 「終わりました」


 「ん、よし」


 幾分軽くなった巨体を水流にかけ、残った血を洗う。

 短剣を水流にさらして血を落とし、布きれで水気を切る。


 「いやあ、しかし、これは村の伝説になるぜ」


 マイケルがリエルの方を向き、にやっと上機嫌に笑んだ。

 

 「さすがに大袈裟じゃ」


 「そんなことないですよ! これはすごいことなんですよ!」


 「ああ! 間違いない、俺が保証してやる!」

 

 リエルは二人の必死な様子に思わず笑みを零した。


 「嬉しいです」


 これでまた作ってくれるだろうかと、リエルはエマの料理に想いをせた。


 「んじゃ、村に凱旋だ!」


 「はいっ」


 マイケルやサグの喜びようにリエルもつられて笑顔になる。

 そうして三人は帰路についた。



 リエルたちは村を上から見渡すことのできる道に出るため森のなかを進んだ。

 直線距離を考えれば少し遠回りになるが、その道には滅多に獣も姿を見せない。それはその道には辺りに生息する獣の嫌う草花が茂っているからであり、それも村人たちの智慧の賜物たまものだった。


 望外の成果に三人の心はどこか浮足立ち、大きな獲物を運んでいるというのにその足取りも軽やかだ。

 そしてその道に出たとき、


 「煙だ」


 サグがぽつりと零した。

 サグの言う通り、村の方角から微かに煙が上がっているのが確認できた。


 「焚火でもしてんのかねえ?」

 

 そう言うマイケルも疑問が晴れないような顔をしていた。

 リエルの胸にも次第に焦燥が湧き上がってきた。

 

 木や茅や藁など植物性の住居が建つ村なかで、遠目にその煙が確認できるほどに大きく焚火を起こすとは考えられなかった。

 向かい風があるわけでもない。


 なにか強い凶兆を感じたのか、サグは荷物を放り出しながら、息せき切って村へ駆け出した。


 「おいっ!」


 マイケルが咄嗟に声を掛けるがそれに返答があるわけでもなく、サグの背はぐんぐん遠のいていく。


 「僕たちも行きましょう」


 「おう」


 リエルとマイケルは互いに顔を見合わせ、名残惜しさを感じながらも獲物を置く。

 リエルは短剣を除きかさばるものを外し、マイケルも同様にした。


 身軽になった二人はサグを追いかけるようにして村へ駆けた。

 




*****




  

 ごく平凡に、穏やかな生活が営まれていたとある村。

 その村が今、襲われていた。


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