いたずら
ぜっぴん
流るる風はいたずらに。
私は仕事柄多くの人間の家に訪問する。特にこれといった甲斐も無く、生活の為とは言え殆ど徒に職務を全うするまでに過ぎないが、小さな面白みとしては、多くのあらゆる人間を目にし新たなる体験が出来る、事がある。そんな楽しみは結局繰り返されもはや一切が色あせてただ行うのみとなった職務の中のほんの気休めだ。下らない、つまらない。
そして今私はそれを見て驚愕し、抜け落ちていた景色の色が取り戻されていき、思い出された世界の彩りと、経験した事ない鮮烈な彩りに眩しさのような物を感じろうばいしている。六階建ての集合市営住宅、その二号棟の五階の一室。ベランダ側に回って見やると仰天、一見不気味な光景だった。壁には鞭のようなツルやコケが萌え立ち、二三本の小ぶりとはいえ目一杯に葉を湛えた木が、放たれた窓から顔を出していた。どうやら成長を抑制している気配はなく、のびのびと大きくなって六階のベランダにまで枝葉が及んでいた。私の見た角度からだと、近景に例の部屋に遠くに青々とした小山、雲の疎らな盛夏の空、といった鮮やかな風になる。この部分だけを写真で切り取れれば、きっと陰々とした団地を見上げての一コマとは到底判らないだろう。
エレベーターは設置されていなく、もう老人くらいしか住んでいないだろうに一段一段が変に高い階段を淡々と踏みしめる。丁度向かいの一号棟が遮る所為で二号棟の階段は蔭になっている。加えて冷たいコンクリートが炎天下に作業着で絶え間なく発汗する私を涼ませてくれ、凄く助かる。
この日も私は順番に避難梯子の点検をして回る。当然、避難梯子なんか異常なんてないのが普通なのだ。びっくりするほど簡単に終わる。だが先ほどの一室は別だ。これからあの部屋に赴く。
尋ねる前から不思議なことはある。この棟は明らかに虫が多い。さっきからやけにハエがちょこまかと飛び回っている。部屋の中でもハエが飛んでいたりもした。窓が開いてるうちにベランダから飛んできたのが入ってきてしまったのだろう。
億劫だ。いやな気がする、しかし仕事だ。
私はインターホンを押した。
「……はい」
扉が開くと中から強い匂いが吹き流れてきた。そしてその正体も察した。土と、カビのようなの匂いが混ざったような、それが薄まってあたりに充満していたのだ。扉を開けたのは、如何にもあの部屋に住んでいる人間といった、似つかわしい爺だった。爺は喉が枯れており咽ぶような声で返事をした。
「……如何様で」
爺は厳格な雰囲気を放っていた。短く生えて覆う口髭、顎鬚。癖づいた短髪、見て呉れはまるで狩人だった。
「いや、あのう、避難梯子の点検なんですけども」
すると、一瞬顔を顰め、
「……ああ。はい。どうぞ」
前もってお知らせを受けていたのを思い出したか、合点が入ったように私を家へ招き入れた。
中は思った通りというか、それ以上に、端的に述べて植物園の有様。居間には鉢を何個も並べて沢山の植物が植わっていた。チューリップにタンポポ、アロエやら、私には名前の知れない植物がその殆どだった。
「あの、ベランダの方は......」
そう言うと、爺ははっとした顔をした。
「あ! 参ったしまったおい!」
一秒前の雰囲気をかなぐり捨てるように、弾けた一驚の大声で飛び上がった。
「まずいね! これ! ね!」
爺がこちらに共感を促すように覗き込んできたが知った事じゃない。
何がです、と聞こうと思ったが、ある程度の推察は出来る。
「あれですよね」
聞くと、
「……これよ」
指を差す先。居間に入った時まず一番初めに目に入らずには居られなかったそれ。
正直家の中に林があるのかとさえ思った。
木々が成長途中という感じで植わっている。鉢に植わっているのではない。床を突き破って生えている。
さっき下の階の部屋に入った時、見上げると天井に力強い根っこが走っているのを見たのでまさかとは思っていたが、観葉植物を飼っているばかりに、愛しすぎたがばかりに植物に家を支配されてしまったかのようだった。
「ベランダ入れないくらい、幹がひしめき合ってますよ」
「……悪いね。これ入れないよね」
優しい言葉を使うのが意外だったが、しかし、点検とか言う前に、こんな燃える物ばかりで敷き詰められたみたいな家で、災害時用の設備が使えない状態である事に苦言を呈さねばならない。管理者として言ってやらなければこの仕事をしている身としての面目が立たない。
しかし、直球でどうこう聞かすのは、こんなおかしな環境で暮らすような人間が相手、憚られる。
遠回しに言わなければいけない。まずは爺にこの状態の言い訳を聞くことにしよう。言葉選びの材料に足す。
「……あのう」
話しかけたが、爺は物憂げな面持ちで樹木の幹を撫でて耽っていた。
「いや、あのう」
今度はもう少し大きく声掛けする。
「これ、切んなきゃいけないかね」
爺は振り向かず、ほそぼそと儚い声の表情だけが私に、もの惜しい理由がある事を教えてくれた。
「聞かせてくださいますか……」
すると、なお顔を向けずに小さく頷いてくれた。きっと貴方には度し難いと感じられると思うよ、などと前振りをした。
──私には、妻がいた。
出会った頃から頭一つ抜けた、かわいい馬鹿だった。
彼女と私は大学で出逢った。それが同じ生徒同士なら、否、出逢ったのが私でなかったのならもっと幸せだったろうか。
植物科学科の専任講師だった私に、生徒だった彼女は恋をしてしまった。私は彼女の誘いを初めは断り続けていたが、卒業してから私と彼女は最早恋人になっていた。
結婚するのも比較的早かったと思う。
彼女はもっと構って欲しかったと思うが、私は仕事柄彼女に仕事をさせる事なく家事を任せ、殆ど彼女の事を省みずにいた。子供も作ることはなかった。本当に寂しい思いをさせていたと思う。
彼女は、いつからか植物を飼い始めた。作らなかった子供の代わりか、或いは愛情表現の怠りが著しかった私の代わりか、母情のような慈愛を、趣味というよりも、徒に施せば施すだけ応えてくれる、さも言葉を話さない子供として彼女は育てていた。
初めはチューリップ一つ程度だった。気付けば二つ三つ、と鉢は増えていった。私はそれを疎ましく思いさえしてしまった。そして、彼女もそれを知っていた。
お互い言葉を交わすことも少なくなっていた。不思議だが彼女は私に文句を言う事もなかった。きっと、浮気をする事も無かったと思う。今ではそれも不思議に思えてしまう。
鉢が増えるほどに、居間が緑に侵食されていくほどに、彼女はコケていった。私には理由は分からなかった。病院を勧めたが、いいの、と口にしてはぐらかされた。
その内彼女は立つことも覚束なくなった。私が無理矢理に病院に連れて行くと驚いた。彼女は死に至る病に罹っていた。手遅れだった。あとは痩せて、逝くのを待つだけだと。
彼女は病を自覚していた。私は怒鳴った。怒鳴るだけ怒鳴った。しかし彼女は最早冷たくなった乾いた声で淑やかに応えた。
貴方の、邪魔をしたくなかったのだと。
彼女の愛は本物で、その私への慈愛と言うのは、徒で際限も無くこれという理由すらなかった。ただ、妻として愛していた。だから私を受け入れ、自分の病すら邪魔になるのではと打ち明ける事もせず私に飯を作り続けていた訳だ。
怒鳴る資格などなかった。あの時怒鳴るほどに至った私の彼女への怒りというのは、その一瞬に彼女という尊さをやっと思い出したに過ぎなかっただけだ。
私が彼女をどやしつけるのはこの上なく僭上な事だったと、私はなみだを流しながら彼女を抱き締めて謝罪した。
去ってしまう命という儚さを、私はそこらの人間よりもよっぽど詳しいはずなのに、失う頃に私は思い知らされてしまったのだ。
愚かだった、苦しいほどに愚かだった──
「この植物達を飼い始めたのも、病を発症した時らしい。だから私は守り続けなければいけない。こいつらを、私達の子供を」
私は涙が流れた。私は仕事をしながら感動する事など無かったし、家族がいないので家に帰っても一人、所帯を持ってもきっと仕事ばかりに気を取られ省みることは怠って仕舞うだろうと軽く考えていた。
それは罪となるのかも知れない。彼は、その悲しみを背負いながら贖罪に今も生き続けている。
「……大丈夫です。この部屋は見逃します。お邪魔して申し訳御座いませんでした」
汗に蒸れた作業着で肌がむず痒く、前のジッパーを開いて空気を入れ替え、袖でなみだを拭い私は踵を返したが、一つ最後に聞こうともう一度向き直した。爺は今もなお幹に抱きつき寄り添っていた。
「……仕事、そんな忙しかったんですか」
何でそんな事を聞いてしまったのか、言ってすぐに自分で訝った。
「……いいや」
そして愕然とする答えが帰ってきた。そんな訳がない。そうでもなきゃこんな事にならなかったじゃないか。
「じゃあ何で」
爺は、面を掌で支える形で、申し訳無さそうに教えてくれた。
「……女に逢っていた。事もあろうに他の生徒に。私はそのような、女を悪戯して回る男だったのだ。本来は彼女もその一人だった。それでも彼女だけは特別だと思って結婚までした──それなのに、私は」
掛ける言葉を目一杯探して、一個溢して立ち去った。
「馬鹿は、あんたの方だよ」
もう一度外から見やっても、炎天下の風に揺れる不自然な樹木の枝葉は鮮やかだった。
いたずら ぜっぴん @zebu20
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