第一章 人狩り その二
紬とヒスイは、村を出てから南西へ三時間ばかり歩き続けている。
ヒスイの背中を追い、森を進む紬の肌に汗が滲んでいた。
原因は疲労ではない。初夏に等しい森の中の気温だった。
足元に雪はなく、太い木々の根が寄り集まり、道となっている。
木々と言っても、余すことなく尋常のモノではない。
樹皮は磨いた白石のような艶があり、よく目を凝らすとざらざらと蠢いている。熟れた果実の芳香を放っているかと思えば、なんの匂いも鼻をくすぐってこない時もあった。
根を踏み締めるたびパキパキと軋み、時折水の流れるような音が耳まで登ってくる。
空は葉と枝に覆われて満月の輝きは届かないが、葉の一枚一枚が白く淡々とした光を放ち、寄り集まった輝きは朝日のように眩しかった。
ここにある木々は紬の知るどんな木よりも高いのに、故郷の村にいた頃は何故か見えなかった。
これほどの大木が連なる森ならば目に入りそうなものなのに、今に至るまでこれほどの巨木や広大な森の存在に気付かなかったのだ。村の者も近くにこんな森があることを誰一人として知らないはずである。
ヒスイの先導に従って歩いているといつの間にか、この見知らぬ森の中に足を踏み入れていた。振り返っても故郷の景色を眺めることは叶わず、視界を埋めるのは奇怪な木々の群ればかり。
「寂しいかね?」
村を出てから、初めてヒスイに声を掛けられた。
「はい……村を出たことは、ほとんどありませんから」
「そうかね」
ヒスイの返事は、素っ気ないようでとても心地の良い声色であった。
村を出てからずっと歩調を紬に合わせてくれていて、長く歩いているのに足が痛くない。先程まで会話がなかったのも、初対面の相手に戸惑う紬への気遣いであろう。
「紬、何か聞きたいことがあれば、聞いてくれて構わんさね。少しは慰みになるかもしれん」
「では……私は、どこへ行くのですか?」
精霊成りは、人狩りと旅をしなければならない。それが理なのだと諭されたら、従う以外の選択肢はなかった。けれどどうしても不安が燻ってしまい、心地が悪い。
「私は、これからどうなるんでしょうか?」
紬の問いに、ヒスイはしばし沈黙を挟んでから答えた。
「そうさね。お前さんの身体は、人か精霊か曖昧なもんになっちまってる。どちらに寄るかは誰にも分からん」
「ヒスイ様にもですか?」
「ああ。なるようにしかならんさね。完全な精霊になれば、お前さんは自然と俺の元を離れて生きていく。人に寄れば俺と一緒に旅を続けることになるだろう」
「人に寄れば人に戻れるのですか?」
「いや」
混迷の中、ようやく生じたかに見えた希望は、ヒスイの一声で脆くも崩れさった。
「曖昧な存在のままさね。そして異物は長く同じ土地に居続けると、その場所の平静を崩す」
「じゃあ精霊になれなかったら一生旅を続けなければならないのですね……」
「いや。本来自然の異物であるはずの精霊成りと相性の良い土地もある。それを探すため、西にある地還(ちがえ)しの大樹に向かうのさね」
大樹。それは尋常のモノではない樹木たちの総称だ。人が今の文明を築き上げる以前から存在していたという。
星に根を下し、土地を侵し、豊穣を約束する。大樹の傍の作物は陽の明かりや水さえも必要とせず育つ故、人は大樹に寄り添って生きていた。
大樹が人の群れを呼び、人は大樹の根本に町を作る。紬の故郷の村のように大樹の加護がない土地は貧困に喘ぐか、遅れ米のような奇跡に縋るより他にない。
「地還しの大樹は、世界で最も大きな大樹の一つさね。大地との繋がりが深く、遍く世界を見つめているとされている。そこへ行ってお前さんと相性のいい土地を大樹に探してもらうのさね。そこがこの旅の目的地だ」
「そこへはどれぐらいかかるのでしょう?」
「早くて一月半、遅ければ二月はかかるかもしれんさね」
精霊成りと化した紬と相性のいい土地。そんな場所があるのなら、なるべく故郷の村に近い場所であってほしい。そう願いながらヒスイの顔を見上げ、次なる疑問をぶつけた。
「何故、人狩りの方がこのようなお仕事を? 人を狩るのがお仕事では?」
「俺たち以上に旅歩いてる連中もおらんさね。それに精霊成りを狙う人間というのもいないわけじゃない。俺たちといた方が色々と安全ということさね。他には何かあるかね?」
「では、もう一つだけ……この巨木も大樹なのですか?」
「ここにあるのは、その若木さね」
若木と呼ぶには、あまりにも巨大過ぎる。ヒスイが嘘をついているようには見えなかったが、枝葉で空を覆い尽くすこれらが若木などという話を鵜呑みにもできなかった。
「これで……若木ですか」
「それも正確ではないかもしれんさね。この森はできてから数年足らず。正しくは、芽と呼ぶべきか」
「芽!? こんなに大きいのに!?」
「世の理の根幹さね。膨大な生命力は人に豊穣を、獣に言葉を、そして遺骸を精霊に変える」
「精霊が遺骸……じゃあ私は死んでしまったのですか!?」
狼狽する紬を尻目に、ヒスイは微笑している。
「お前さんは生きてるよ。それに死んだ者が必ず精霊に変われるとも限らん。大樹に認められた者の遺骸だけが精霊になれるのさね。そしてそれはとても稀なことだ」
「私は生きていて精霊成り……選ばれた遺骸が精霊に……精霊とは不思議なモノなのですね」
精霊のことは故郷の皆が時折口にするも、彼らには不思議な存在程度の認識しかなく、紬も同様であった。
「よくは、知らんか?」
「はい」
紬が頷くと、突如ヒスイは足を止めた。
「ちょうどいい。あれを見るといいさね」
翡翠色の視線が指し示したのは、地面に横たわる狐であった。銀色に煌めく美しい毛皮の持ち主だ。けれどピクリとも動かない。眠っているわけではないと、すぐさま理解した。
「ヒスイ様、あれは……」
「外傷はない。寿命さね」
淡々と告げて、ヒスイは顎をしゃくった。
「よく見ていなさい」
言われるまま狐の亡骸を眺めた。すると狐の周囲の根が裂けて、縄のように細い根が首をもたげる。根は一つではない。幾十かそれ以上の数が躍り、狐の亡骸を蝶の繭のようにくるんでいく。細い根で象られた繭が完成すると、太い根の裂け目にゆっくりと飲みこまれていった。
「ああやって生き物の亡骸を取り込み、異なる生き物同士を混ぜ合わせて精霊とする。精霊とは混ざり者。命の集束体さね」
「もしかして人の亡骸も?」
「場合によっては」
「混ざり合って新しい命が生まれる……つまり蘇るということでしょうか?」
「いや、まったく別の生き物になるのさね。まぁ中には生前の記憶を持つ者がいるという話も聞くがね」
目の前で起きた奇怪な光景とそれを自然の理としてありのまま受け入れているヒスイの姿に、紬の当惑は深まっていく。
そんな内心を察したのか、ヒスイは紬の頭を一撫でしてから歩き出した。
「俺の仕事を見ていれば、おいおい分かるかもしれんさね」
「仕事とは、人狩りの?」
「四つ抱えているんだ。こなし終える頃には、俺の生業や世の理を理解できるだろうさね」
ヒスイの言を信じて、それ以降紬は口を開かず歩き続けた。
深更になった頃、ようやく大樹の若木の群れを抜ける。そこは山毛欅(ブナ)の生い茂る森だった。
故郷の村からどれほど離れているのか、正確な距離は測りかねるが積雪はない。しかし気温は低く、吐息が夜闇の中でも白く色づいているのが分かる。
樹齢数百年に達する古木が見渡す限り居並んでいるが、寒さに耐えかねて葉を落とした姿は、大樹の若木と比較するとまるで痩せ衰えた赤子だ。
足元には雪の代わりに、山毛欅の落ち葉と枯草が隙間なく敷き詰められており、地面を覆い隠している。
ついさっきまで眩しいぐらいに降り注いでいた大樹の若木の放つ光はどこにもなく、振り返っても大樹の若木の森の姿はない。役目を終えて消え失せたようであった。
柔く注ぐ月明かりはとても頼りなく、人に歩を進めることを躊躇わせる。
ヒスイは闇の中で蛍のように淡く輝く瞳で紬を一瞥した後、親指で背後を指差した。
「若木たちはな。俺たちが歩きやすいよう、案内してくれたのさね」
「案内?」
「根を踏み締めると軋んだろう?」
「はい」
「水音も?」
「聞こえました」
「あれは俺たちがどこへ行きたいかを悟り、音で案内してくれたのさね。あれらは若木。子犬のように懐っこいが、言葉を持たんからな。ああして人と交流を求めてくる。この辺りは慣れていないと迷うから、あれらなりの親切さね」
言いながらヒスイは、ここが自らの庭であるかのような足取りで歩き出した。
しんしんと降りてくる夜の色を森の木々の葉がしっとりと吸い込んで重くなっている。獣道すらありはせず、人の立ち入ってよい土地ではない。許されないのではなく、いられない。およそこの場所は、そういうふうにできている。
けれどヒスイは違う。
さくりさくりと落ち葉を踏み締める靴底の感覚に微かな嬉々を感じながら、闇に恐れを抱かない。恐らくそういう男である。
彼に苦もなくついていける事実が、紬に自らが人の理を外れた存在であると自覚させた。
人ならば恐れを抱くべき場所で安堵を覚えている。
歩を進める度、生まれ育った村への郷愁が零れて失われていくようであった。
それから南西へひたすらに歩き続け、ヒスイの足は洞穴を前にして止まった。
「ここだ」
洞穴の天井はヒスイの背丈の何倍も高く、横幅も人が十数人入ってもまだ余裕がありそうだ。
微かな月光では穴の奥まで照らしてはくれない。常闇が住み着いているかのように黒く染まっている。
しかしヒスイに躊躇はなかった。だから紬も恐れない。
二人は明かりを灯すこともせず、奥へ奥へと進んでいく。
『ヒスイ殿か?』
重い鐘の音のような声が響き、紬とヒスイは足を止めた。
闇の中でも、精霊成りと化した瞳はよくよく凝らせば声の主を日中の如く映してくれる。
灰色の狼であった。
小さく丸まって座して尚、洞穴を埋め尽くす程の巨狼である。
「はい」
ヒスイが頷くと、巨狼は静かに息を吐き出した。
『そちらは精霊成りか?』
「はい」
ヒスイが答えると、巨狼はヒスイを見つめたまま、
『過酷な……』
そう呟いてから紬を一瞥した。
優しい眼差しをしている。慈愛を形にすると、このような瞳になるのだろう。
『では、よろしいのか?』
「人狩りのご依頼……ですね?」
獣は人を狩れぬ。精霊は人を狩れぬ。
何故か?
学者曰く、人は病んだ大樹を癒す術を持ち、木々をより大きく育てるための技もある。大樹にとっても人の存在は繁栄に不可欠故、人より大樹の影響を濃く受ける獣や精霊に人は殺せぬのではないかと。
これ以外にも、いくつかの学説が唱えられているが厳密なところは誰にも分からない。獣や精霊ですら理である以上の理由を知らなかったのだ。
人とて原始的な本能に理屈をつけるのは難しいのだから、当たり前かもしれない。
大樹の恵みを口にすることで、獣は言葉と知恵を得た。
命を終えた生き物の遺骸は大樹へと還り、混ざり合って新たに生じる。大樹から生ずる生命を人は精霊と名付け、彼らもこの呼称を気に入った。
人と獣と精霊は大樹の恵みの元、互いを尊重し敬愛し、理に従って生きている。
だが、その理を乱すのは往々にして人だった。ならば始末を付けるのも人の役目である。狩れぬ者の代わりに狩る者。それが人狩りだ。
「ですが、人狩りは人殺しではない。狩るに足るかを判断するのは私です」
獣や精霊の言うままに、無闇やたらと人を狩ればよいのではない。
彼等は人を殺せぬ代わりに、人を謀る性根の者が少なからずいる。依頼者の証言の真偽を確かめて狩りの有無を判断するのは、人狩りにとって最も重要な仕事だ。
「事情を聞かせていただいてよろしいですかな?」
『……全てを話しましょう』
ヒスイはその場に胡坐をかき、巨狼と向き合った。
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