第一章 人狩り その三
始まりは一ヶ月前であったという。
巨狼は東にある洞穴で友のアクウという精霊と酒を嗜んでいた。アクウは牝鹿の身体に鰐の頭と魚の目を持った精霊で巨狼の特に親しい友であった。
話は他愛のない話題ばかり。
道に迷った親子を人里まで案内してやったら礼に草団子をくれたとか、知り合いの精霊が沼にはまって出られず四ヶ月もそこにいて死にかけたとか。
舌と喉が渇くとさくらんぼの酒で潤し、昼も夜も四日程、取り留めもなく話し続けた。
間もなく五日目になろうかという夜半、彼らの元を一人の男が訪れた。まだ二十歳になっていないらしい若者で白い肌と蒼い目と黄金の髪を持つ北方の民である。
ぞっとする程、美しい顔をしていた。世で絶世の美女と謳われる者も、この男を一目見れば、恋慕の情を抱く前に嫉妬で心を満たされてしまうだろう。
黒い着流しは肌の白さをさらに引き立て、怖気のような色香を漂わせた。自然の美を数百年見続けていた巨狼とアクウの瞳をも奪い、頬を火照らせる程だ。
「森の中を歩いていたら迷ってしまいました。よろしければここで夜を明かさせてもらえないでしょうか?」
男の懇願に、アクウは喉の奥を鳴らした。
「わしは、構わんが客がいる故。狼よ、お前が良いというならそれで良い」
『ここはお前の住処だ。私は構わん。お前が決めよ』
「そうか。ならばゆるりと過ごされよ。人の身に、この夜道は危険じゃ」
「ありがとうございます」
会釈をして男は、アクウの傍らに座した。
アクウが宙をかき混ぜるように前足を回すと紫煙の香りが広がる。やがて香りは霞となり、白い碗と酒瓶へ姿を変じた。
「夜風で身体も冷えたろう。酒でも如何か?」
碗と酒瓶が綿毛のようにふわふわと宙を舞っている。宙を浮かぶ碗に、男はぎょっと目を見開いたが、恐る恐る碗を受け取るとアクウの酌を受けた。
「いい香りですね。この酒はどこで?」
「山の麓の造り酒屋じゃ。良い酒を造るでな」
「その方があなたに献上を?」
「まさか。わしは、そんな大物じゃない。この美酒に見合う物を払っておる」
「見合う物?」
「黄金の粒じゃ。人はどうにもこれが好きじゃ。わしからすれば石だがな」
「……石ですか?」
「色の違う石じゃ。そうとしか思えぬ。何故、人は黄金を欲する?」
アクウの問い掛けに、男は口に含んだ酒を舌で転がし、喉を鳴らしてから答えた。
「人の世は金が行き交う。金で買えぬものを、叶わぬ願いを探す方が難しいでしょう。だから人を殺してでも奪う人は多くいるのです」
「なるほど。そういうものか」
『巷には赤子を殺してまで黄金を奪う男がいるとか』
アクウは、ぎょっとしながら頷き、酒を舌先で舐めた。
「聞いたことがある。ちょうど、この山の麓の話じゃ。わしの所にも何とかしてほしいと乞う者が来たよ」
「どうされたのですか?」
男に問われ、アクウは苦々しく声を震わせた。
「精霊に人は狩れぬ。理じゃ」
『私も同様に乞われ、同様に答えた。獣に人を狩ることはできぬと』
アクウが口を開くと、喉の奥から黄金の粒が一つ転がり落ちてきた。
「こんな石のために赤子をか。むごい話よ」
落ち込んだ声音のアクウの碗に酒を注ぎながら男は言った。
「しかし赤子も金で買えますからな」
「だが子への愛情は?」
「金で買った赤子でも世話をしていりゃ芽生えるでしょう。それは愛情を金で買ったことになりますよ」
「なるほど。そういうものか。難儀じゃ」
『それが人の世か。難儀よ』
そのような会話をしながら三名は朝まで過ごしたという。
翌日、男は礼を言って洞穴を後にし、巨狼も自分の住処へと引き上げた。
それから二十日程して再び巨狼が酒瓶を咥えてアクウの所を訪れると、アクウの鰐のような首が血溜まりに沈み、蠅がたかっていた。
どうやら刃物を使って首と身体が切り離されたらしい。しかも牝鹿のようなアクウの身体は、どこにも見当たらなかった。
その理由を巨狼は知っていた。
アクウの胃袋は六つあり、そのうち一つに黄金を蓄えている話を件の男に聞かせてしまったのだ。
そして巨狼が人との取引のために黄金を住処に蓄えていることも――。
「なるほど」
事情を聞き終えたヒスイは、肩から下げていた袋を下して中に入っていた物を取り出した。金属と木で作られた細長い筒である。
ヒスイの持つ物の威容を初めて見た紬は驚嘆し、巨狼の瞳には畏怖が湧き出した。
『ほう。それがあの……』
「小銃(ライフル)といいます。最も野蛮で、最も洗練された道具です」
生き物の殺傷にこれ以上適した得物は存在せず、対象に無慈悲なまでの死を約束する。
「火薬の破裂で金属の塊を音より速く飛ばす。考え出した過去の人類と忠実に再現した北方の民は、まこと賢いものです」
三百年程前、蒼い瞳と白い肌を持つ北方の民が小銃を始めとした銃の残骸を旧文明の遺跡から発掘した。
銃が再現された当初これらの武器は、獣や精霊を狩るために心なき人々に使われもしたが、今では人狩り以外持つことを許されず、人を狩るためだけに使う道具となった。
「北方生まれのこれで北方の民を狩るとは、いささか皮肉ですな」
ヒスイは槓桿(こうかん)を引き、薬室に弾丸が装填されていることを確認して、すくっと立ち上がった。
「その娘を迎えに行く道すがら獣や精霊に尋ねましたが、件の男はこの数日、洞穴の近辺に姿を見せているとのこと。夜に乗じて間もなくここへ来るでしょう。今夜中に仕留めます」
『すいませぬ。私の代わりに』
恐縮した巨狼に対して、ヒスイは首を左右に振った。
「自ら選んだ仕事です。気遣いは無用ですよ」
『しかし……』
「均衡を崩したのが人ならば、人の手で正すべきなのです」
サクッ――。
落ち葉を踏み締める音に、洞穴の空気が張り詰めた。
『娘は任されよ』
紬と巨狼の姿が霧散するかのように溶けていく。紬自身の目にも自分の手足や着物の裾が透けて見えた。
突然のことに声を上げそうになるも、ヒスイの邪魔をしてはいけない。飛び出そうになった驚嘆の声を喉の奥に留める。やがて紬と巨狼の姿が完全に消え失せて、洞穴の闇と一体化すると、足音と気配は洞穴に足を踏み入れた。
ヒスイが気配の主に視線を振ると、そこには一人の男が立っている。
怖気すら覚えさせる端正な面立ちと、それを飾る黄金の髪と新雪のように白い肌。ゆったりと纏った黒い着流し。彼が件の男であろう。
「ここに何か用かね?」
尋ねると、男はその場に胡坐をかいた。
「ここにでかい狼がいるはずなんだ。あんた知らないかい?」
男に尋ねられたヒスイが洞穴の天井を見やった。
「さぁね。俺は、ここで夜を明かそうと思ってね」
「こんなところで?」
「月明かりが頼りでは、この森を抜けるのは難しいさね」
「そうか。だが宿が目当てじゃないだろ?」
金属の擦れ合う音が鼓膜を突き刺した。男の手に短刀が握られている。柄は洞穴の闇の中でも上等と分かる漆塗りだ。
続いて鼻腔を血の匂いが抜けていく。何年にもわたって使い続けたことで血の層が幾重にも重ねられ、刃に香りが染みついているのだろう。
「物騒なもんは、しまってくれんかね」
「できねぇな」
「何故?」
「黄金は俺のものだ」
「あれに価値を見出すのが、確かに人の愚かさかもしれんさね」
「黄金はどこだ!」
「しかし美しい男さね」
ヒスイは、引き金に指をかける。
「人の狂気は何故か美しい。だから花が如く散るのだろうさ」
そして嘆息と共に、男へ冷たい銃口を向けた。
「っ!? 人狩り!?」
洞穴を橙の閃光が染め、耳障りな残響を伴う。放たれた鉛は音よりも素早く飛翔して男の心臓を貫き、黒い着流しに血の花弁を咲かせた後、地面に伏させた。
小銃の槓桿を引くと、役目を終えた真鍮の薬莢が躍り出る。宙で薬莢を握り締めてから、ヒスイは手をそっと開いた。
『終わりましたかな?』
呆然とした紬と共に姿を現した巨狼に声を掛けられるまで、ヒスイは薬莢を見つめ続けていた。
紬に視線を移したヒスイは、曖昧な微笑を湛える。
何故そんな顔をするのか?
そう問いたい紬だったが、問うてはいけない気がして疑問を飲み込んだ。
「ええ。終わりましたよ」
『では、これを』
薬莢を乗せたヒスイの掌に、どこからともなく大豆程の大きさの黄金の粒が雨のように降り注ぎ、どっさり積み上げられた。
『その一発を買う金で大の男が三ヶ月飯を食えるという。報酬は、これでよろしいか? もっと必要か?』
ヒスイは掌の黄金の粒を全部地面に零して、一番小さな一粒を拾い上げると、巨狼に薬莢を差し出した。
「これをお納めください。仕事をした証です。依頼した方全員に差し上げています」
ヒスイが差し出した薬莢を、巨狼は口で咥えて受け取った。
巨狼が薬莢を受け取ったことを確認してから、ヒスイは小銃を絹の袋にしまい、紬の手を引いた。
「それでは私どもはこれで」
『行かれるのか? 人の目にこの夜道は危険ですぞ』
「慣れています」
紬とヒスイが洞穴の出口へと足を向けると気配が一つ洞穴へ入り込んできた。
それは鰐の頭と魚の目玉を持ち、牝鹿の身体をした生き物。恐らく精霊である。
〝聞き覚えのある精霊の姿〟に、ヒスイは訝しんだ声を上げた。
「あなたは、もしや……」
「はて? わしは、あなたの顔に覚えはないな」
ヒスイは精霊と巨狼を交互に見やった後、観念したかのように破顔した。
「巨狼様。謀りましたね」
『はて。何のことやら』
巨狼はとぼけた顔をしている。紬の瞳にはそう見えた。
翡翠色の輝きは続いて精霊を射抜く。しかし精霊も巨狼と同様に素知らぬふりをしているのがありありと伝わってきた。
「さて。何のことやら」
紬がヒスイの顔を見上げると、彼はうっすらと苦みの香る微笑を浮かべていた。
「お二方で、人間を困らせている男を狩らせる大義名分をお作りになられましたね?」
人を狩れぬ獣と精霊が人殺しを狩らせるために講じた策略。彼らの話のどこまでが真実で、どこまでが嘘だったのかすら定かではない。
確かなのは、いくら問い詰めたところで巨狼と精霊は何も答えないということ。
諦めたのか。あるいは呆れたのか。それとも感服したのか。ヒスイは曖昧な笑みのまま巨狼と精霊から顔を背けた。
「まぁ……良いでしょう」
そう言ってヒスイは、紬の手を引きながら深更の闇へ消えていった。
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