第2話 マッチングアプリ②
食事を済ませた後、俺たちはもう少しレストランに居座ることにした。客の少ない店だ。誰一人、俺たちに向け「さっさと出て行け」と言わないだろう。
俺は水を、彼女は食前のコーヒーをやっと、一口飲む。そしてすぐ、彼女の表情が歪む。
「苦い?」
「う、うん・・。すっごく苦い」
「そんな、無理して飲む必要はないよ」
「でも、飲める・・から。勿体ないし」
そう言いながらも彼女はコーヒーをもう一口飲む。今回はさすがに我慢できなかったのか、彼女は顔いっぱい渋面を作っていた。
「ちょっと待ってね」
俺は店員を呼び、水を頼んだ。そして彼女のカップを俺の方に移した。
「これは俺が飲むよ。真由は水飲んで」
そう言ってストローを口にくわえようとしたら、真っ赤になって俺を止めようとする彼女が目に映った。
(間接キス・・・か)
確かに俺も小学生の時は、そういうのを気にしていたかもしれない。
俺はフォークとナイフが入っている箱から新しいストローを探し、それでコーヒーを飲んだ。彼女は胸に手を当てながらほっとしていた。
・・・想像以上に、純粋な子だった。
「ごめん。俺友達とかに結構鈍感って言われているんだよね」
「そう・・・ですか。い、いえ、その・・そうなんだ」
彼女は照れくさそうに笑った。急にため口というのは、やはりハードルが高かったようだ。
「自意識過剰とか、陽気とかではないけど、なんというか、他人のことあまり気にしない、というのに近いかな」
「どうすれば、そうできる、の・・?」
言われてみて初めて、自分の性格なんか真面目に考えたことがないことに気付く。
「良く分からないけど、最近の若者は皆そうだって、ニュースとかで騒ぐでしょう?そんなレベルだと思うよ」
まだ納得してないような彼女に向け、俺は少しだけ体を前に出しながら言った。
「真由が何言っても何やっても、俺は全然何も思わないからさ。だから、練習相手としてはちょうどいいでしょう」
「そう、かも・・」
彼女の表情が一層明るくなる。
「うん、そうかも!」
えへへ、と、彼女は今日初めて、笑ってくれた。
会計の時、自然と奢ろうとする俺を見て、彼女は明らかに戸惑っていた。
「いいよ。これぐらい奢らせて」
「で、でも・・・」
「最初はね、どんなに嫌ですとか私が払いますとか言っても、絶対先輩が奢るからね」
練習の一部、ということにしておいたら彼女も諦めたようだった。
レストランを出ると、俺たちは本屋に行くことにした。彼女は元々、俺と別れてから本屋に寄っていくつもりだったようで、俺は正直、この後彼女と何をすればいいのか見当も付かなかったからだった。
「この辺はよく来るの?」
迷わず歩く彼女を見て俺は訊いた。
「実は、初めてで」
「へぇ。なのによく知っているよね。道」
「調べておいたから・・」
「本好きなんだ」
彼女は微笑みながら頷いた。
「もし初心者でも楽しく読める本とかあったら、後で紹介して。せっかく出し、俺も読んでみるよ」
「本当?」
「本当って、本当に決まってるだろう」
彼女は笑みを浮かべながら「うん」と頷いた。
着いたところは、2階建ての大きい本屋だった。入っただけで本の匂いがする。
本屋に入ると、彼女はすぐとあるところに駆けつけ、夢中になって本棚を眺めていた。よく見ると文芸作品が集まっているところだった。
「あの、これはねえ、作家は・・」
そういう風に、彼女は楽しそうに本の紹介をしてくれた。俺も知っているぐらいの有名な作家もあれば、全然知らない作家の本もあった。もしかすると、彼女は新作を除けばほとんどの小説を読み尽くしているのかもしれない。
俺は陽気になって本の話をする彼女の横顔をちらりと見た。先ほどまでの人見知りな感じ、緊張した感じは完全になくなり、普通の少女みたいに笑っていた。彼女の本当の姿が先までの人見知りな姿なのか、明るく陽気な今の姿なのか、良く分からなくなるぐらいに。
見過ぎたのか、ぱっと彼女と目が合ってしまう。彼女はすぐ頬を赤らせ、本を開いて顔を隠す。やっぱりこっちが本当っぽい。
そんな彼女が最終的に俺に渡した一冊は、薄い黄色の、目立たない色の表紙のものだった。
「この本、臨場感が凄いの。『夏の家』に自分が本当にいるような気がして、私もこんなところで過ごしてみたいな、と思うんだ」
本を渡されると、俺は本を開けてあらすじを確認した。ただの建築物語と思いきや、あらすじの最後の辺に『ひそやかな恋』という表現も書いてあった。
中をめくってみると、小さく細かい文章が400ページぐらい続いている。これは、読むのに一か月はかかりそうだった。でも、自分で紹介してって言った以上、もう買うしかない。
「じゃあ、俺はこの本にするよ。ありがとう」
「うん!」
彼女は嬉しそうに笑った。
俺と彼女は一冊ずつ本を持ってレジに並んだ。彼女が先に会計のためにバッグから財布を探す。でも、その手がなぜか止まらない。
「どうしたの?」
心配になって訊くと、彼女の顔が真っ青になっていた。
「財布が・・・ない」
今すぐでも泣き出しそうな潤った目。
俺はとりあえず 彼女を連れて列を離れた。彼女は慌てながら必死でバックの中を探した。
「本当にない・・」
「ここに来てからバック使ったことある?」
彼女は少し考えてから首を振った。
俺は慌てすぎている彼女の代わりに冷静になって状況を整理した。
「じゃあ、ここで落とした可能性はあまりないということね」
彼女は唇を結びながら頷いた。大きな瞳が涙で歪んでいる。
「探してみよう。ここじゃなければ次は昼のあの店でしょう。レストランまで戻りながら、落ちてないか確認してみよう」
涙を堪えた目付きで彼女は俺を見た。
「いいの・・?」
「いいに決まってるじゃん。時間もまだあるし」
「でも、夏樹くんには何の責任も・・」
また控えめになっている彼女に向け、俺は当然のように言った。
「誰だってそうするよ」
彼女は複雑な表情で頷いてくれた。
俺たちは、念のため本屋を一回り探してみてから店員に忘れ物の届を出した。その後、ファミレスまでゆっくり戻りながら、落ちている財布がないか道端を探した。
週末の繁華街は人が多く、もし財布なんか落ちていたらすぐ誰かに拾われているだろう。その人がいい人なら警察に渡してくれたはずで、悪い人ならお金だけもらって財布はどこかに捨てたはずだった。
せめて、悪い人に拾われてないように、俺はそう思った。
レストランに入り、財布の忘れ物があるか確認したが、ここも外れだった。
俺はがっかりしている彼女を連れて、休む間もなく使い交番に行く。立ち止まってしまったら、彼女が泣き出しそうだったからだ。
しかし、交番でも成果はなかった。
交番を出たときはもう夜になっていて、吹いてくる風に嫌なほどの寒さを感じる。生足の彼女はきっと俺より寒いはずたが、寒さを感じる余裕すらないように見えた。
これ以上探す手掛かりもなく、俺は途方に暮れた。
「どうしよう・・」
彼女の声は震えていた。本屋にも、レストランにも、交番にも財布がないということは、もはや探せないと言っていいだろう。
ただ少し、彼女の反応には違和感を覚えた。財布の紛失は確かに非常事態ではあるが、ちょっと探してみて見付からなかったら、運が悪かったことにして新しい財布を買えば済む話でもあった。
「とりあえず今日は帰ろう。ちょっと面倒になるけど、財布ならまた買ってもいいし。身分証とかももう一回発行してもらえればいいし」
思っていたことをそのまま口にしてみたが、彼女は首を振った。
「大切な写真が、入っているの・・」
震えながらも力の入っている声だった。
どんな写真かと訊こうとする俺に、彼女は言った。
「夏樹くんはもう、帰ってもいいよ」
それは彼女なりの配慮だったのだろう。初めて会った人への。
しかしその配慮を受け入れるには、彼女があまりにも不安定そうに見えた。
「何言ってるんだ。先言ったろう?一緒に探すって。そして大切なことって聞いて、ああじゃあ俺は知らん、さようなら、と言える人がどれだけいると思う?」
「でももう、遅いし・・」
俺は携帯を出して改めて時間を確認する。
「終電までならまだまだ時間残ってる。それまでなら付き合ってあげるからさ、今は余計なことは考えないで、まず財布を探してみようか」
「あり、がとう・・」
それから、一時間以上財布操作が続いた。レストランから本屋まで、今日俺たちの同線をもう一度チェックし、最初待ち合わせをした駅まで戻った。それでも、財布はどこにもいなかった。その間、彼女の表情は悲しみから、どんどん諦観に代わっていった。
俺は、悔しいというか、情けないというか、言葉では表現できない複雑な気持ちで胸がムカムカした。もしレストランで俺が奢ろうとしなかったら、その時点で財布を落としたことに気付いていて、今頃彼女は自分の家で、その大切な写真を見ていたかもしれない。
俺にも責任は、あるのだ。
どこだ、どこにあるんだ。
思考を巡らせ、財布がありそうなところを考える。
彼女と会ったのはこの駅前。彼女はおそらく俺より早く着いていて、遠くから俺という人間が怪しい奴かどうかを確かめていたはずだった。
俺は昼、彼女が立っていた壁のところを確かめた。すると、視界の限界のところで何かが光るのが見えた。街路樹の芝生の中だった。
近付いてみたら、そこには女の子の財布が草に巧妙に隠れていた。思わず笑ってしまった。持ち主とそっくりだな、この財布は。
「探した!」
俺は財布を手に持ち、大きな声で彼女を読んだ。俺の手を確認した彼女から喜びに満ちた声が聞こえた。
「それ、私の財布!」
彼女は声を上げた。周りの視線が彼女に向くのが感じられたが、彼女は気付いていないようだった。
彼女に財布を手渡すと、これまで我慢していた大きな涙の粒がいくつか地面に落ちてきた。
「よかった・・・よかった・・・」
彼女は腰を90度ぐらい曲げてお辞儀をした。
「ありがとう。本当に、ありがとう」
「当たり前のことだし。気にしないでよ」
「ううん。本当にありがとう。感謝してるの」
まだ涙が残っている目で彼女は温かく微笑んだ。
「そっか・・・。まあ、じゃ、感謝しろ」
「うん!ありがとう!」
そして彼女は声を出して笑った。今日初めて見る爽快な笑顔につられ、俺も一緒に笑ってしまった。
「あの、夏樹くん」
別れる直前、彼女はふと思い出したように声を掛けた。
「お礼を、言いたくて」
「別に、そんなの要らないよ」
「ううん、お願い」
らしくない強い態度に、俺は思わず頷いてしまう。
すると彼女はバッグから携帯を出した。
「ライン、教えて」
すごく震えている手。
俺は彼女から携帯をもらい、自分のラインを登録する。トップ画もなく、ただ『
「なんでもいいからトップ画ぐらい設定してよ」
携帯を返しながら言うと、彼女は恥ずかし気にまごまごする。
「使うこと、なかったから・・」
俺が何か突っ込む前に、彼女は腰を曲げながらお辞儀をする。
「今日は、ありがとうございました!」
そして、走って駅の方に消えていく。と思ったら、壁から俺の方を覗き込みながら言う。
「ま、またね!」
同じ駅なんですけど、と思いながら、俺はつい笑ってしまう。
俺はプラットフォームで彼女と行き当らないように、近くのコンビニで適当に水を買ってから駅に入った。
プラットフォームに着いてから周囲を見渡してみたが、彼女の姿は見えなかった。俺は近くのベンチに適当に腰を掛け、疲れのため息を吐いた。
ポケットのスマホの震動を感じたので出してみると、彼女からのメッセージが届いていた
【真由:今日は本当にありがとう!】
メッセージで緊張を表現できる機能はまだないはずだが、俺はなぜか、そのメッセージから人見知り特有の緊張感を感じる。
そしてなぜか、少し高揚感も感じてしまう。
プラットフォームに電車が入る音が聞こえる。
俺はベンチから立ち上がった。
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