10 田園

 視界の左側を通り過ぎていく田園地帯と、その上を走るワンマンカーの振動。平行に並んでいる線路の先には、机の上のティッシュ箱みたいに何気なく消失点が存在している。消失点にたどり着いたワンマンカーは存在しない。それは、消失点に到達し得たワンマンカーがその瞬間に消失してしまうという主張を意味しない。予想さえしない。ワンマンカーは消失点に到達しない。そういう素朴な事実が、実はもっとも意味不明である。

「さて、消失点にたどり着くまえにやっておかなければならないことがある」

 車内アナウンスがひどく酷い仕打ち与える執行官のようなことを言う。ワンマンカーを操縦しているのであろうその人物の声音は、枯れ葉を踏みしだく子どもような渇きを帯びている。音の性質ではなく、声音の性質として。

「我が電車はこれより田園地帯を突破し、我々を取り巻くメタフィジカルな網の目をすり抜け、形而上の世界へと至る。うだつの上がらない人生を送ってきた我々を……たらしめる唯一の手段はこれに限られている」

「――唯一の手段はこれに限られている――秀逸な表現だね」

 乗客が言う。

「二度、二度傾いている。乗客のうち誰か左から右へ移れ。一人だけだぞ。銘々で確かめ合って、確かにたった一人だけが左から右へ移れ。直ちに。三、二、一、……」

 ワンマンカーは終着駅のホームにぴたりと停車した。

「己れの理念を他者に啓蒙するのが政治的であり、己れの理念を己れに実践し続けるのが芸術であるとするなら、彼は何者なのだろう」

 乗客がひとり言を言っている。

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