9 何者でもない何者

 美術館の一階のラウンジで、日の当たる窓辺のイスに座って時間をつぶしていると、「やあ」と何者かが声をかけてきた。そして悠二の名前を呼んだ。

「だよね?」「俺のこと覚えてる?」

 悠二は初春のうららかな天気のような意識の中にあって、ふと顔を上げてその人に微笑みかけた。しかしつづく言葉が出ない。その人は何者でもなかったからだ。それだけを悠二はすぐに了解した。

 悠二の隣のイスにしずかに腰かけた何者かは、目も鼻も口も耳も、多くの人間がそれを取り付けているであろう顔面の定位置に持ち合わせている。だから――と言ってはなんだが――何者かはやはり人間に見える。しかし、悠二にはそれが人間でもなければ、存在として扱っていいものでもないことはよくわかっている。そういう意味ではやはり、悠二は何者かのことをよく知っているとも言える。そして今、この何者かが悠二に話しかけてきたことには、何か重要な意味があるのだろう。きっと人間が積み上げてきた言語の体系だけでは説明しきれない何かが。

 それはテーブルに肘をついて、下から見上げるように悠二の顔を見た。

「お金に困っているんだ」とそれは言った。「ほとんど無一文と言っていいほどに、金を持ち合わせていない。本当だぜ。見ての通り確かに僕はこんな格好をしているけれど(それは、体の前面を悠二に向けてひけらかした。高そうなスーツを身にまとい、両足には十分前に磨いてきたばかりというようなピカピカの革靴を履き、ネクタイのセレクトも品がある。とても窮乏しているようには見えない。また、髪型も引き締まっている)、これはお金とはまったく関係ないんだ。というか、こんな格好をしたところで、一度地に落ちちまったものは取りかえしようがない」

「お金がないなら消費者金融に行けばいい」

「あそこで手に入れられるものなんか高が知れている。あんなものに価値はない」

「でも、あんたはお金に困っていると言っただろう。それはつまり、君の中でお金というものの価値が、これまでになく高まっているということだ。そうだろう?」

「違うね。まったくもって違う。僕がお金に困っていると言ったのは、お金がこれまでになく価値を失い始めているからなんだ。加速度的にあらゆる価値が堕落していく。そのさまを間近で見ていて、平然としていられる方がおかしいんだ」

「株価が大暴落しているとか、あるいは高騰したとかいう話は聞かないね。今朝のニュースを見た限りでは」

「やはり君はものの価値を、世の中の価値をわかっていない。お金の価値もね。あらゆる価値という価値だ。それら全体がしのぎを削りあって、価値の頂点に立とうとしている。それが世界だ。世界はどちらかと言えば、人間のためというよりも、価値のために存在しているんだ」

 気がつくと、何者かの声が、悠二の今いる空間全体に響き渡っている。周囲にはほかには誰もいない。彼らはいつのまにか歩み去ってしまったのか。悠二もやはり他の人がそうしたであろうことと同じように、その場を立ち去りたかった。あまりにも衝動的に。

「あらゆる人間が、あらゆるものが、己の価値をより高みへ運びあげようと躍起になっている。そういうのを僕はずっと見てきた。そして初めから僕はそれを馬鹿々々しいと思っていたんだ。だから僕は何もしなかった。生きていくうえで重要なこと以外、何も。僕はヒエラルキーなどと呼ばれている、巨大な、どこにつづいているかもわからない階段の隅っこに腰をおろして、みんながそれを登っていくのを眺めていたんだ。時々何かをしくじって転がり落ちていく人もいたよ。きみが、金融工学の理論を理解するために微分方程式だか積分方程式だかを一生懸命に解いているのも見ていた。一度僕の横を通りすぎた人は、二度と僕の前には現れなかった。気づいたときには、僕は階段の片隅にぽつんと残されていた。きっと僕はその階段を下らずとも勝手に下っていたのだろう。僕のまわりには誰もいなかった。生まれたばかりの赤ん坊でさえも、僕のはるか上にいるのだろう。そういうシステムになっているんだよ。

 どれくらいそうしていたのかわからない。けれど、気づいたときには僕は退屈で退屈で仕方なくなっていた。それまで僕が、目の前を通り過ぎていく人々の苦労する姿を見て退屈を紛らわしていたということに、僕は気づいたんだ。それを知ったとき、悲しくなってしまったんだ。……まあ、これは正常な反応だね。それに気づいておきながら自らを憐れまない人間は、やはりどこかしら欠陥がある。僕もやはり、人並みにこの行くあてもない階段を昇っていくという生き方に戻ろう。そう思って腰を上げかけたとき、僕よりも下のほうから人が昇ってきたんだ。彼は白人だった。ブロンドの髪の毛を伸ばしたいだけ伸ばして、髭を汚らしく蓄えている。浮浪者と言って差し支えなかった。彼は、あと一歩でも踏み出せば倒れてしまうだろうというほどに消耗している。僕は、彼が僕を抜くのを待ってから歩き始めようと思った。彼に付いていこう、と。けれど、彼は僕よりも少し下の階段で蹴躓き、倒れ、動かなくなってしまった。

 僕は助けに行こうとは思わなかった。その男の体がひどく汚れていたからではない。彼はそれだけ長い道のりを昇ってきたわけだから、僕には無価値に思えて仕方ないこの価値の競争にこれ以上参加させようとするのはむごい行いのように思えたのだ。僕は彼を見ていた。死んでいるようには見えない。けれど中々動き出さないでいるのが気がかりではあった。あるいはやはり死んでいるのかもしれない。死んだまま、変わらない価値の位置を与えられたのかもしれない。

 そうこうしているうちに下からまた一人、いや二人上がってくるのが見えた。その二人は、足取りは別々だったが、ほとんど同じ高さのところで歩むのをやめ、段上に座った。先ほどの浮浪者よりも少し低いところで。彼ら二人は僕の顔をうらめしそうにじろじろ見つめてきたので、僕はすこしだけ居心地が悪くなった。たぶんそれは僕がこんな格好をしていたからだろう。(そういって、何者かは先にそうしたように、悠二に自分の服装を見せた。)浮浪者ほどではないが、今よりもずっとみすぼらしい身なりをしていたんだ。

 僕たち四人はとんでもなく長い時間そこに留まっていたと思う。たとえばエベレストと同じ大きさの氷の塊を太平洋の真ん中に浮かべて、それが全部溶けてしまうまでにかかる時間と同じくらいの時間が、僕の目の前を流れていった。その間に一人、また一人と、下のほうから人がやってきて、そして僕を追い抜く――といっても僕は逃げてすらいないわけだけれど――ことはなく、下の階段で立ち止まった。彼らはもう一生そこで過ごすための準備を始めているみたいだった。

 僕の足の下には、悠に百は越えるであろう人々が留まるまでに至った。砂粒よりも小さな姿になってもその下にどんどん人が連なっていくのが、見晴るかす階下の景色の奥まった消失点の手前に見えている。これだけの人はいったいどこから来ているのだろう。そう思い巡らしていると、僕の退屈はどこかへ消えていった。

 しかしそのような感興も長くはつづかなかった。眼下に広がる景色に見慣れてしまい、そして彼らがただそこにいるだけだということに気づき注目してしまったときには、ふたたび僕は自分が無限に小さくなっていくような自己憐憫に苛まれた。僕もやはり、人並みにこの行くあてもない階段を昇っていくという生き方に戻るべきなのではないかという気持ちが、かつて自分がそう思ったときの気持ちとそっくりそのままの形で現われ出でた。そして今度こそ僕は、長らくいたその段の上に立ち上がって階段を上へと昇りはじめたのだ。

 僕の下にいた人々は、みんな驚いた表情で僕を見上げた。しかし、自分も立ち上がって上へ行こうというものは一人もいなかった。僕はとりあえず彼らの姿がまったく見えなくなるまで昇ってしまおうと心に決めた。

 そのとき背後の人の群れの中から僕を呼び止める声が聞こえた。その声は僕の名前を呼び、『君はそれ以上どこへも行けないよ』と言った。『君が先に行ったところで何も変わらないんだ。宇宙が膨張しつづけても我々に何の影響もないのと同じようにね。だからせめて我々の目の届くところにいてくれないかね。誰も、もうこれ以上競争したりしないのだから。だから戻って来るんだ。これは忠告だよ。お願いでもなんでもなくね。戻ってこい。無駄だ……。無駄なんだ……』

 僕は声を置き去りにし、一度も振り返ることなく階段を昇っていった。不思議と、誰かと出会える気は全くしなかった。段に足をかけ、重心をずらし、段の上に体重をかけ、体を上げる。この作業を延々と孤独のまま繰り返すのだ。そう思ったし、そうするべきだと僕は考えた。僕の目の前を過ぎ去っていった人々がそうしていたのと同じように」

 何者かは、どのようにしてここまでたどり着いたのかは話さなかった。それは相変わらずイスに座ったまま下から覗き込むようにして悠二の顔を見つめている。悠二はその表情から愉悦の感覚を感じとった。まるでこの世界にどれだけ太い線が引かれてもその線を跨いでいくことができることを確信しているような愉悦を。そして悠二もまた、その感覚を何者かから教え諭される形で享受している。彼は我知らず足をばたつかせはじめ、何も見ていないかのように目を見開いている。目の前に広がっている景色が二つに分離し、うすらぼやけ、左右に広がっていった。……

 イスから転げ落ちそうになった瞬間、悠二は我に返った。何者かはちょうどイスから立ち上がろうとしていた。それは「またね」と言って、右手を顔の高さでかるく振り、悠二に背中を見せて歩いてゆくと、美術館の二階につづく階段を昇って消えた。

 一階のエントランスにはちらほらと人影が見え始めた。休日の昼下がりであるから、人々は窓から差しこむ光を受け流しながら、目的の展示室へと向かっていく。悠二は自分の目の前を通り過ぎていく一人ひとりの顔立ちを入念に見つめていた。あの何者かについて、心当たりがあるとするならば、悠二はこの美術館の中のどこかであの顔を見たことがあるような気がすることである。

 悠二はイスから離れ、もう一度、二階の展示室に向かおうと階段のふちに足をかけかけた。しかしその直前で思いとどまり、踵を返して出口へと向かった。

悠二は上野のあたたかい風の中に出ていた。地面は風と太陽にさらされて乾いている。往来のざわめきが悠二の耳に飛び込んできた。人々はみんな笑っている。それは道の片隅に転がっている昆虫の死体でさえも、鼻歌を歌い出してしまいそうなほど静かな春であった。

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