7 喫茶店にて
喫茶店の店員は空になったマグカップを音もなく回収していった。店内にはバロック期の弦楽が流れている。流線的にうつりかわっていくメロディーの裏にある、何者かが奏でたはずのベース音を、悠二はさがしていた。しかし周到に折り重ねられた内声部の和音が悠二の耳をそれよりも下へと向かわせなかった。
悠二の目の前に座っている女は、ときどきメロディーを口ずさみながらコーヒーカップに残っている味のしなくなったコーヒーをのんでいる。彼女は何度となくカップを口に運んでいたが、それは一向に空にならなかった。喫茶店でコーヒーをのむのにこれだけの時間をかけられるのなら、なぜ彼女は何も話し始めようとしないのか悠二にはわからなかった。店員が静かにこちらを見つめていることが、確かめたわけでもないが背中のうずきによって察せられる。この女には店員の視線が見えているのだろうか。
音楽がワルツに変わった。時代はよくわからないがクラシック期だろう。店内には悠二と女以外の客はいない。モーニングのラストオーダーが過ぎてどのくらい経ったのだろう。悠二は座ったまま両うでを体の横でゆっくりゆらしていた。コーヒーの香りが強く、漂ってくる。これまでにない濃密な、粘液的な重みのある香り、それが悠二の意識をつつんだ。
クラシック期のワルツが、漂ってくる香りとその正体との距離感をつかめなくさせる。
匿名の何者かがその空間には決定的に欠如していた。
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