4 小さな港町のささやかな異常

 緊張は突如として起こった。回していたレコードが逆回転をはじめたかのような転変が目の前にはあった。これまでむやみやたらと幅を利かせていた秩序というものが気を抜いたのか、張り巡らされた法則の網が弛緩し、そして解体された行動が波紋状に広がっていくのがわかった。

 悠二は狂った猫を見た。港町で。

 漁師がその日の朝にとらえてきた新鮮な魚をもらい、時には家屋のねずみを捕食しながら、日々口に糊していた野良猫の群れは、漁師町の健康の証であった。

 ――猫は、表通りの陽の当たる路肩を歩いている。一歩歩むごとに体を左右に揺らしているが、重心はつねに同一直線上にある。肩と腰の骨が、毛皮の下でしなやかに動くのが見て取れる。人の体躯では到底表現し得ない超然たる態度がそこにはある。と、猫は立ち止まる。足、耳、尾っぽ、腹、眼球、すべての動きが停止する。そののちに解体が起こる。猫が、前足を動かしたかと見えると、次の瞬間には意味のわからない鳴き声がきこえた。四本の足が前後に激しく震え出した。何の力によってか、猫はすでに空中に飛び上がっている。投げ出されたその姿勢のまま、目をぱちくりともせず――しかし状況の異常さに気付いているようだ――足で空間を掻いている。壊れたおもちゃのようなけったいな動きではあるが。地面に叩きつけられたときには音はしなかった。横倒しになると、頭を中心にして体がぐるぐると回りはじめる。二つある耳のどちらかがすり切れる。毛が、あたりに散る。猫は体躯を旋回させたままどこかに流れていく。あるいは大地の上を流されていく。その先がどこであるかは猫にはわからないだろう。そのうち、なんとか四本足で立ち上がることができる。しかし身体の硬直と足の痙攣はおさまらない。猫は前倒しになる。前進を強要しつづける足の動力を、顔面が一手に担う。顔を地面にこすりつけながら、猫はやはりどこかへ向かう。猫のいたあとには毛と血が残る。

 猫には狐につかれたという発想はない。港町である。猫が不随意に飛んだり跳ねたり這いずり回ったりしていれば、そのうち混凝土の護岸から海に落ちて行く。海に落ち、水を掻きながら、猫は溺れて死ぬ。あるいは死にながらも猫は足を動かしつづける。そのようにして港町の猫は数を減らしていった。残されたのは魚を食わない、もっぱらねずみだけの偏食な猫である。

 悠二は偏食な猫を見なかった。探したが見つけられなかった。

 ある冬の日、空き家の庭の片隅で、運よく海に落ちずに済んだ猫の、野垂れ死んだ姿を見つけた。まだ腐っていないが、片耳がなく、全身の毛が削ぎ落されている。悠二はその猫を撫でた。背中から腰へ、腰から腹へ、腹を渡って背中に戻る。それが生命でないことがまぎれもない事実として認識される。悠二は表面を傷つけないようにやさしく触った。

 しかし確かな圧がその指先にはかかっていた。突如として逆回転をはじめたレコードを無理やり順行に回すときにも、悠二はそのようにするだろう。

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