銀の魔術師と空の色

かける

銀の魔術師と空の色

 冷たい雨が、梢を突き抜け、荒く息吐く肩を打つ。

(最悪だな……――)

 シオンはくずおれそうな身体を樹の幹にもたせかけ、手にした杖でなんとか支えた。途切れそうな意識の中で、なお冷静に眼前の光景を見定める。

「おい、こいつ、魔術師様だぜ」

 男が五人。手に手に武器を持っている。みな年若いが、とても人がいいとは言えない顔つきだ。この近くを根城にしている盗賊風情か、ただのごろつきか――何にせよ、ろくな相手でないことだけは確かだった。

「随分お疲れみてぇだな、魔術師様はよ」

 シオンの褐色の肌に映える、腰元まで伸びた長い銀の髪。そして、夕暮れを凍らせたような澄んだ紫水晶の瞳――。魔術を扱う才のある者はみな、個々に違いはあれど、大多数のそうでない者は持ち得ない色を髪と瞳に宿している。それは、この世で生まれたものならば誰もが知る常識だ。

 彼らも最初にシオンの姿をしかと認めた一瞬は、その魔術師を示す髪色に畏怖の表情を見せた。だが、シオンが消耗しきっていると見て取るとあっという間に態度をひるがえし、周りを取り囲んでこのありさまだ。

(確かに、術どころか、指の一本も動かしかねるが……)

 目的は金目のものではないだろう。今のシオンは誰が見ても身ひとつと分かる出で立ちだ。ならば、彼らの嗜虐の色が溢れる表情からも、意味するところは他にない。

「〈災いを呼ぶ〉魔術師様は、ここで退治しとくのが、世のため人のためってやつだよな」

 愉快気に響く低俗な笑い声をともなって、距離が詰められる。

(ここで、目を閉じたなら――……)

 おそらく、もう開くことはないのだろう。けれど、髪を濡らし、頬を伝い、体温を奪っていく冷たい雨が、抗う気持ちをも消し去っていくようで、シオンは重たい瞼をそのままに、すべてを放り出しかけた。

 その時だ。

「おやおや、人の声がすると思って来てみれば」

 張り詰めた空気の中を軽やかな音色がふわりと舞った。その場の誰もが振り返った先に、その優雅な声の主は佇んでいた。

「なかなか穏やかならざる状況だね」

 言葉とは裏腹に楽しげに笑みをたたえる双眸は、陽の光に彩られた天空の色。耳元で切りそろえられた細い金糸の髪が、薄暗い雨の中でも鮮やかに、白い頬を縁どっている。すらりと伸びた手足の武装や胸当て、何よりその腰の剣から、おそらくは旅の剣士ということが見て取れた。

「うん。――ここで突如現れた僕としては、当然、そちらの魔術師殿の味方をするね。あと、一応、言っておくけど」

 笑んだ瞳でぐるりと状況を見てとると、流れるように剣を抜く。その舞踊を思わせる美しい所作だけで、目の前の彼らとは格が違うと伝わった。空気があっという間に支配されていく。

「一撃目は加減する。二撃目は、覚悟を決めるといい」

 整った唇が不敵に笑みを引いたと同時に、地を蹴った。閃く剣の軌跡と共に、構える間もなく頭目らしき男の剣が弾かれ、腹を横にないだ蹴りに飛ばされて、勢いのまま仲間を巻き込み、倒れ込む。

「骨はいってないと思うよ」

 さらりと笑顔で剣士は告げた。宣言通り、加減をした、ということらしい。しかし当の男は、立ち上がろうとするも咳き込み呻くばかりで、悪態の一つもつけないようだ。

 力量の差は歴然だ。見つめて立ち尽くすしかできなかった残りの男たちも、たじろぎ後ずさった。五人がかりでも、この突然の来訪者に敵いはしないだろう。

 眩い金色。薄れゆく意識の中でも、それはあまりにも明るくて、シオンは目を瞠った。

(なぜ――……)

 雨に銀糸が重たく濡れる。シオンは魔術師だ。〈災いを呼ぶ〉ものだ。なのになぜ――

(助けて、くれるのだろう……?)

 頭目の男が仲間に支えられながらなんとか立ち上がり、悔しげに涼やかな空色の瞳をねめつける。だが、空気を裂いて鳥たちの鳴きわめく声が響いた瞬間、男の顔色が恐怖に塗り替わった。剣士もすぐさま異変に気づき、男の視線の先を追いかける。

「魔獣……!」

 居合わせたもの、皆が息を飲む。そこには、木立を揺らして現れた異形の姿があった。

 身の丈は大柄な大人の男ほど。山羊のような角をいただきながら、頭部は狼のそれに似ている。鼻はなく、突き出た鋭い牙のある口から低いうなり声をあげ、切り裂いた傷跡のような六つの深紅の目が、彼らを見定めでもしているのか、ぎょろぎょろと不規則に動いている。二足で立ってはいるが身体は頭の割には細く、羽毛で覆われており、そこから伸びる太い尾だけが爬虫類の鱗に包まれていた。何より目を引くのは不自然に長い腕で、人の掌にあたる部分が鳥の脚に似た鋭い鉤爪となっていた。

 最悪は重なりに重なるものだと、シオンは杖を弱々しく握りしめる。

(せめて私に――彼を逃がすだけでも余力があれば……)

 シオンを助けに入らなければ、魔獣に出くわさずともよかっただろう、剣の持ち手を見つめる。濡れそぼった金糸の剣士は、切っ先を男たちから魔獣に変え、静かにその動静を伺っているようだった。

「魔術師が魔獣を呼び寄せやがった!」

「災いを招きやがった!」

 固まっていた男たちが、泣きわめくように叫び、散り散りに逃げ出す。

 それを追って、魔獣が動いた。長い尾が素早くうねり、宙を滑る。尾の先に光る研ぎ澄まされた棘が、逃げる男たちの背中に追いすがり、振り下ろされ、思わずシオンは目を背けた。だが――。

 金属のぶつかり合う音がこだました。割っていった剣士の一撃を受けて、魔獣の尾が軌道を見失う。

 救いの手にも振り向きもせず男たちは駆けていくが、それはお互い様のようだった。助けた男たちの無事を気に留める風もなく、空の瞳は淡く笑みをのせて魔獣を映す。

「やっぱり堅いよねぇ、その尾っぽ」

 しなやかに構えを直しながら、シオンをかばえる位置に移動する。気が付いて、シオンはかすれた声を懸命に張り上げた。

「私は、いい……! どうか、あなたも逃げてほしい!」

「ん~、確かにそれが得策だけど、それじゃあ、寝覚めが悪いってもんでしょう。それに、さ」

 煌めく髪先がふわりと揺れる。シオンの紫の視線を奪って、鮮やかに微笑みはいった。

「僕、ちゃんと強いから」

 金色の軌跡が走り抜ける。鞭のように振るわれる魔獣の尾の打撃や、棘の斬撃を捌ききり、瞬く間に間合いに入り込む。噛みつこうと襲う牙を躱した先で、振りかぶられた魔獣の両腕の鉤爪を剣で受け止め、抑え込む。一瞬、魔獣の動きが制された。その刹那に、左手で腰から抜き放った短刀が、魔獣の喉を突き刺した。

 割れんばかり絶叫がシオンの耳をつんざくも、もう一度力を込めて押し込まれた刃に断ち切られる。そのまま喉を切り裂かれ、真っ黒な血しぶきを上げながら、のけぞり倒れた魔獣の首をためらいなく剣の一薙ぎが跳ね飛ばす。頭を失ってなお、長い尾が標的を屠ろうと蠢き迫ってきたが、転がり落ちた頭部に容赦なく剣の切っ先を突き立てられれば、ぴたりと動きを止め、重たい音ともに地に沈んだ。

「魔獣とはいえこいつは弱点が狙いやすいから、単体ならまあ、こんなもんかな。ただ、本来群れで動くはずの種なのが気になるところだけどね。斥候的な個体だと困るから早く離れよう。君、動ける?」

 剣と短刀を収めながら、振り向く笑みは息を切らせた様子もなくシオンへと尋ねてくる。

 問題ないと応えなければと、シオンは口を開いたが――彼の体力はもうそこで限界だった。声も出せぬまま、眩しい金色をかすれた視界に残し、シオンは意識を失った。




 雨の音が、耳元でしていたはずだった。しかし、身体の芯はまだ冷えているが、頬には乾いた感触。雨音はどこかぼんやりと遠く、くぐもって聞こえる――。はぜる炎の音にはっとして、シオンは虚ろな意識から浮上した。

 薄暗い洞窟に、ちらちらと朱色の光を投げかけながら燃える炎。壁に這った、長く大きな人影――その主が、シオンのすぐ側に腰を下ろして、火の番をしていた。見つめるシオンの気配に気づいたのか、振り返る。

「やあ、お目覚めかい?」

 人懐こい、空色の瞳が微笑んだ。金糸の髪の上に、火灯りが朝焼けのようにきらめいている。

「顔色、随分よくなったね。何よりだよ」

 柔らかに反響する甘い音色が、耳に優しく心地よかった。動きを止めたままその姿を凝視するシオンへと、手が差し出される。

「僕はレミナス。レミナス・グランタ。君は?」

「私は、シオン……シオン・ロナードだ」

 礼を欠かないよう、慌ててシオンはその手を握り返した。歌うように弾んで響くレミナスの声とは対照的に、低く静かなシオンの声音は、岩肌に吸い込まれるように消えていく。

「先ほどは、すまない。助けてもらい、礼をいう」

「別にたいしたことはしてないよ。折よく居合わせただけだからね。――はい、これ」

 差し出された金属のコップからは、湯気とともに鼻孔をくすぐる爽やかで甘い香りがした。

「体を温めなよ。この香草は、気休め程度に疲れを取ってくれるよ。ま、少し味があった方が、ただのお湯よりは飲みやすいでしょ」

「すまない……。心遣い、感謝する」

 中途半端に起こしていた身をゆるりと持ち上げ、シオンは座り直す。口をつけると、喉を通り、胸から身体の奥にじんわりと広がる温もりが有難かった。

「あのあと、ここまで運んでくれたのか?」

「ああ。あの場に置いてきぼりってわけにもいかないだろ? 運よく馬を借りてたからね。この洞穴の入り口まではそいつに乗せて運んできた。ちょっと運ぶときにかすり傷がついたかもだが、それは大目に見ておくれよ?」

 くすくすとおどける軽口に、シオンは緩やかに首を振る。大目に見るも何もない話だ。

「本当に、あなたには世話になってばかりのようだ。その、どう恩を返したらいいのか……」

 身にまとった胸当てや籠手のせいでいささか分かりづらいが、レミナスは細身だ。背丈もどう見積もってもシオンよりは低い。シオン自身、そこまで体格がいい方ではないが、上背だけは人並みよりある。馬に乗せるのも、入り口からここまで運ぶのも、骨が折れただろう。

「別にいいよ。頼まれてやったことじゃなし。僕がしたくてしただけだから。まあ、たくさん感謝しといてくれたら、十分さ」

 シオンの謝意を微笑みひとつで受け止め流し、猫のように大きな釣り目は、それはそうと、と彼を覗き見た。

「君、なんでそんなに消耗してたの? これといった外傷もないし、病気という風でもない。あと、ただの事実としていうけど――君、魔術師だろ? 本来ならあんな場末のならず者崩れに、後れを取るわけないはずだ。奴らに出くわす前に、相当な何かがあったのかい?」

「それは……――魔獣から、逃げていた」

「魔獣から? さっきの奴かい?」

「いや、違う。別の種類だ。聞いたことはないだろうか? そう遭遇するものではないが、魔術が効かない魔獣がいるという話を」

 群れを成そうが、個で動こうが、命ある他種をあまねく襲い、屠る――それが魔獣だ。動物たちの捕食とは違い、ただ殺す。魔獣が現れると土地が死に、そこに住む生き物たちの無残な屍が、荒れた大地にそのまま残る。姿かたちは多様だが、どれも命を奪うことに突出した特徴をもつ点は共通していた。人や動物に比べ、生息数が少ないことがせめてもの救いだが、腕に覚えがなければ対抗することは難しい。

 魔獣が現れた際の討伐には、往々にして雇われの剣士やその地の兵らがあたるが、忌まれる魔術師もその時ばかりは重宝された。一角の術者であれば、剣や弓のような武器で戦うより、魔獣を仕留めやすいことが多いのだ。だが、何事にも例外はある。

 レミナスの眉間がとたんに険しく寄せられた。

「噂程度には耳にしたことがあるけど……。そんな厄介な相手が、この辺りにいるってことかい?」

「いや、巣をほとんど離れない種族だ。縄張りの移動期にならなければ、遭遇したのはここからは多少離れた所だから、この辺りならすぐさま危険ということはないだろう。私は運悪く、見つかってしまったというところだろうか……。魔術師は魔獣に狙われやすいからな。狙われた相手に、こちらの攻撃が効かないならば、逃げるしかない。そして逃げるには、魔力をそぎ落とす必要があった。魔獣は魔術師の魔力を追ってくる……」

「へぇ。で、そぎ落とすって、具体的には?」

「術を使う。効かない攻撃ではあるが、足止めや目くらましにはなる。術を使って使って、力の限り使いきった。だが、魔力が尽きれば、こちらも命が危うくなるので……感知されにくくなるよう、ぎりぎりのところまで消費して、なんとか魔獣からは逃げきったんだ。だが……そこで、間が悪く今度はやつらに遭遇してしまった」

 少し気落ちした風のシオンに、レミナスは苦笑する。

「ついてないねぇ。おまけにそこへ新手の魔獣まで現れるときたんだから、ちょっとした厄日だね。しかし、仕方がないとはいえ、もう少し後先考えた方法はなかったの?」

「あったのかもしれないが、咄嗟にはそれしか思いつかなくてな。まずは逃げることに精一杯だったもので……。強いていえば、おかげで先の魔獣が私を眼中にもいれなかったのが、不幸中の幸いだろうか――?」

「まあ、それはそうかもね。君より先にあいつらを襲ってくれたおかげで、追っ払う手間が省けたし」

 困り顔で投げかけられたささやかすぎる幸運に頷いて、レミナスは笑った。

「それに、僕としても、君に会えてその話を聞けて良かった。こっちに足を向けていたのは、何を隠そう魔獣退治が目的でね。この辺りで不自然な形で魔獣が出るようになったって聞いたんで、路銀も底をつきそうだし、近場の街で仕事にありつけないかと来てみたんだ。そこまでの大物がいるとは、正直思ってなかったけど、納得した。中型の魔獣が出てきて、一定期間あたりを荒らしては消えるって話だったんだ。おそらく、その大物と縄張り争いでもしてるんだろうね」

「そんな噂になっていたのか?」

「ああ、結構な評判だったよ。この森から南東へずっといった先にある街のそのまた先で聞いたからね。『北西の森の辺りに、魔獣が不規則に出ては消えていく。まだ数はそこまでではないが、土地は荒れてきているし、人死にも出ている。出現の仕方もおかしいし、何か悪いことの前触れじゃないか』って。君は、知らないで来てたの?」

「ああ。よほどのことがない限りは、あまり街に立ち寄らないからな」

「へぇ……そうなのか」

 逸らされた視線に気づかなかったのか、含みもなく返すレミナスに、シオンは胸中でほっと息をついた。

「しかし……逃げる最中に荷物はあらかた行方知れずになってしまったし、しばらくは休んだ方がよさそうだ……。次の街には、申し訳ないが少し寄らざるを得ないだろう」

「なら、僕と行こうか?」

「あなたと……?」

 レミナスの提案にシオンは目を瞬かせ――それをすぐに戸惑いに染めて俯いた。

「いや、遠慮しておこう。知っているだろう? 魔術師は『悪しきものを招き、災いを呼ぶ』」

 それは親から子へ、子から孫へ語り継がれる魔術師についての言い伝えだ。それも、伝説や伝承のような置き去りにされた昔話と違い、今もこの世で命をもって息づいている。

 だから人は魔術師を怖れる。だから魔術師は、ない居場所を求めてさすらう旅をする。

「『されど束の間ならば、幸運を呼び込む』だろ?」

 優しい響きが洞窟の中でこだました。視線を戻せば、好奇心といたずら心が溶け合った口角を引き上げて、レミナスがシオンを見つめていた。

「僕は旅の身ながら、とんと魔術師に会う機会に恵まれてこなかったものでね。だから、実は多少、魔術師っていうのがどんなものなのかと、身構えてるところがあったんだ。だけど――君は、なんかいい」

「なんか、いい?」

 困惑するシオンにお構いなしで、そうそう、と笑顔でレミナスは続ける。

「魔術師にまつわるそういった噂話には興味がある。けれど、気にはしていない。そもそも気にしてたら、ここまで君を助けてないよ。でも、当の本人である君が『悪しきものを招く』っていうなら、僕も一つ、魔術師にまつわる言い伝えにのって、君を誘う理由を説明しようか」

 炎の光が辺りに揺蕩い、鈍い茜色の光が、金糸の上できらきらと波打った。

「魔術師は、束の間ならば幸運を呼んでくれるんだろ? なら、君から幸運だけをいただいて、悪いことからは逃げきるさ。楽しそうじゃないか、運試し。僕、結構ついてる方だと思うんだよね。だからさ、『束の間』、僕の遊興に付き合ってよ。助けた礼と思ってさ」

 揺れる火影を宿して、天空の瞳は笑む。気づけば誘われるように、シオンの口から答えが零れ落ちた。

「束の間、ならば……」

「よし。決まりだね。外の雨が落ち着いたら出かけよう。森が終われば、すぐに街が見えてくるはずだ。何も厄介事がなければ、ほどなく抜けられるだろうさ」

「そう、願いたいな」

「安心して。万一があっても、また守ってあげるさ」

 くすくすと笑って、レミナスは再びシオンの手を取った。

「改めて、しばらくよろしく頼むよ。シオン」

「ああ……こちらこそ、その、よろしく頼む。――レミナス」

 握り返す。最初の時こそ気づかなかったが、会話して得る印象より、その白い手はずっと細い。けれどそのぬくもりのせいだろうか。弱々しさは感じさせない力があった。

(そういえば、久しぶりだな……――)

 誰かの名前を呼ぶのは――。

 夕闇色の瞳が、わずか淡く喜色に揺れたことに、空色の双眸は気づいただろうか。雨の音は徐々に小さくか細く、消えていきかけていた。




 街に着いたのは、雨雲の切れ端を鮮やかな夕陽が染め上げる頃だった。洗いあげられた空気に一段とまぶしく広がる夕焼け色が、露に飾られた落葉した木々の枝先を彩っている。空気は凛と冷えているが、濡れた大地から匂いたつのは芽吹きの香りだ。

 春先の空気を開け放った窓から吸い込みながら、ベッドに仰向けに身を投げて、レミナスがぼやいた。

「いやぁ、話の進みが早い」

「そうか?」

「そうだよ」

 怪訝げなシオンに、レミナスが笑ってごろりと体の向きをそちらへ変えた。

「僕がここに来るには、たぶんあと二日かかるね。宿屋、紹介所、面倒なやり取り、そして、ここ。それが魔術師ってだけで一瞬だ。さっき街の門前で衛兵と話したかと思ったら、もう長の屋敷の客間だよ? いくら魔獣に困っていたとはいえ、早すぎる。おまけにこんな厚遇だ。これは、今後の仕事の取り方を考えちゃうね」

「だが、追い出されるのも早いぞ……?」

 起き上がり、やれやれと肩をすくめるレミナスに、ためらいがちにシオンはいった。

 魔術師は忌避される存在だが、同時に、先のレミナスの言葉通り『束の間ならば幸運を呼び込む』とも信じられている。だから、わずかな滞在ならば喜ばれもする。けれどその歓待は、すぐ裏側にどうしようもなく拒絶が滲む。魔術で何かをされては困る、長居をされては堪らない――訪れた先の人々の丁寧な対応と取り繕われた笑顔には、細い針で幾度も身を突くような鋭さがあるのだ。

(それがただの根無し言ならば、抗うこともできるのだろうが……)

 俯けば、視界に流れる銀糸の髪。彼の力を示すもの。――彼の居場所を奪うもの……。

 下がったシオンの視線の中に、ぽんっと向かいから何かが投げ込まれた。とっさに胸元で抱き留めたそれは、部屋に置かれていた着替えだ。

「別にそこはいいよ。僕もそんな長居好きなたちじゃないし。仕事は早く済ませたいしね。とはいえ、今回の件は、内容自体は魔獣退治で至極単純だけど、相手が相手だからねぇ。君が遭遇した魔獣――長の方でも把握していたけど、そいつを倒せば事態は収束に向かうだろうっていう、長らの見通しに僕も同意。だけど、聞けばすでに何人か失敗してるらしいじゃないか。どう仕留めるか、少し考えないとね。依頼人もお困りだ。退治もしないまま、二、三日で追い払いはしないだろう。

 でも――今はそれより、君はちょっと温まってきた方がいいよ?」

 首を傾げるシオンに、聞いてなかったの、と笑みを乗せた声が問う。

「さっき案内してくれた使用人さんが話してたじゃないか。湯浴みが出来るって。すごいね。先行っておいでよ」

 確かに、つい昼前までは意識を失っていた身体は、優しい休息を欲していた。柔らかな笑顔に手を振って見送られながら、シオンは言わるままに、湯殿へと向かった。




「なっ……!」

 湯殿から戻り、部屋の扉を開けた瞬間飛び込んできた光景に、シオンは言葉を失った。

「あ? 戻った? どうだった? いい湯だった?」

 旅の出で立ちをくつろいだ装いに替え、暖炉前に腰掛けたレミナスが本から顔を上げて声をかけてくる。赤々と燃え盛る火のおかげで、部屋は随分と温まっていた。そのためだろうか。厚手の上着を一枚羽織っただけで、季節の割に薄い服装は、彼女が彼女であることを示す身体の輪郭を見間違えさせはしなかった。

「いや、その、あの……」

「ん?」

 凝視してしまっていたことに気づいて、ふわりと弧を描く胸元からシオンは慌てて目をそらす。

「じょ、女性、だったのか……」

「ん? ああ。そうだけど?」

 至極当然という受答えに、シオンはさらに動揺を色濃くした。

「す、すまない。なぜか、勝手に男性だとばかり……。その、すまない。失礼は、なかっただろうか?」

 大きな釣目、鼻筋の通った綺麗な顔立ちは中性的。声質は澄んで心地いいが、その高低は曖昧な響きで判別がつき難い。背丈は男性にしては小柄で細身だとは思っていたが、女性として見てみれば、背も高く、美しく整えられた体つきだろう。

 申し訳なさと気恥ずかしさで赤く染まる褐色の頬に、陽気な笑い声が返ってきた。

「いや、君が謝ることないよ。こちらこそ悪かったね。男を騙る気はないんだけど、やりたいようにやってると、分かりづらいみたいで。自覚はあるんだけど、あえてわざわざ言うほどのことでもないからさ。つい、伝えるってのが頭から抜けちゃうんだよね」

「いや、だが、今回はもっと早くに言っておいてもらった方が……部屋を分けてもらえたんではないだろうか?」

「ん~、着替えの時配慮しあえば、別に良くない? 君が嫌なら分けてもらうけど」

「いや、その、私は嫌というわけではないのだが、男と同室で……あなたは本当にいいのだろうか?」

 おろおろと気遣うシオンに、ありがとうと、レミナスは笑った。

「でもさ、君、女なら見境ないたちで、一緒にいると僕を襲っちゃいそうなのかい?」

「そんなことは……!」

「なら、問題ないんじゃないかな?」

 誠意あふれるシオンの否定に、さらりとレミナスは返す。

「それに、僕にも分別はある。君を襲ったりしないさ」

「襲う? あなたが? 私を?」

「ん? おやおや、可愛いこといって。そんなこといってると、危ないぞ」

 首を傾げるシオンを、おいでよ、と指先で招いてレミナスが立ち上がる。誘われるままにシオンが近づけば、にやっと、レミナスは悪戯を秘めた子どもの笑みを浮かべた。

 そのまま腕を引かれ、足元を掬うように払われたかと思ったら、シオンはレミナス越しにベッドの上で天井を仰いでいた。影差す顔に、空色の瞳だけがやけに鮮やかで、眼差しに縫い留められたように動けない。銀糸の波が、顔の真横に突かれたレミナスの白磁の指を絡めて、白いシーツの上に乱れて広がっていた。

 茫然とするシオンを見下ろして、けらけらとレミナスが笑う。

「ほらね。こんなことも出来るわけだからさ? 君が襲われることもあり得るわけだ」

「襲われたというよりは……倒されただけのような……」

「そりゃあね。だって、そんな雰囲気でこんなことしたら、僕のさっきの言葉、嘘みたいになっちゃうじゃん?」

 シオンの瞳に映り込む、戯れじゃれる幼子のような笑み。その端に、ふと柔らかな落ち着いた色が溶けた気がした。

「でも、なんにせよ、急に悪かったね。――手を」

 差し出したシオンの手を細い腕がしっかりと取り、引き起こす。

「すまなかったね。僕もお湯をもらってくるよ。作戦会議は明日にしよう。今日はもう遅いし、君の体調も万全ではないだろうから」

 ひらりと掌を振り、レミナスは部屋を後にした。急にしんと静まった部屋に、暖炉で燃えてはぜる薪の音が、沁みとおるように響く。

(なるほど……――)

 確かに、問題ないならば、同室の方がいい。ずっと慣れているはずの静けさが、なぜか居心地が悪かった。




 ガタガタと何かが揺れる音に意識の端をつままれた。重たい瞼が持ち上がらない。シオンは布団を引き込むように体を丸めて、まどろむ頭の片隅で、自分が眠りに落ちていたことに気が付いた。

(ああ……そうか――)

 ゆるゆるとうつつの世界の記憶が繋がってくる。自覚していた以上に消耗していた身体は、レミナスの帰りを待たずにベッドの上で意識を手放してしまったのだ。布団があるということは、彼女がかけてくれたのだろう。

(どれくらい、寝ていたの……か……)

 ぼんやりと浮かんだ疑問の答えは、突如差し込んだ陽射しが教えてくれた。眩しさに目をこする。ようやく引っ付きそうな瞼を上げると、朝の光を浴びて、窓際のレミナスが振り向いた。

「おはよう。よく寝てたところ悪いけど、朝食の時間らしい」

 先に耳に入ってきたガタガタという音は、彼女が防雨、遮光のための外窓を開けていた音だったようだ。

「まだ休んでいた方がよさそうなら、断っておくけど。どうする?」

「いや……大丈夫だ」

 いまだ半分眠った顔のまま、シオンはのそのそとベッドから起き上がった。見ればレミナスは、鎧までは身に着けていないが、すでにすっかり身支度が整っている。

「レミナスは、朝が早いんだな……」

「昨日は君につられて早寝したから、目覚めがすっきりでね。ベッドもふわふわだったし」

 満足げなレミナスに、シオンも口元がほころんだ。その時、窓の外――視界に影が映った。気配に気づき、身をひるがえしたレミナスのすぐ横をよぎって、それは部屋の中へと飛び込んでくる。

「カササギ?」

 どこからいつの間に取り出したのか、ナイフを手にしていたレミナスが、鋭い顔つきから一転、素っ頓狂な声を上げて動きを止めた。

「お前……! またついてきたのか?」

「また?」

 驚くシオンと怪訝げなレミナスを気にも留めず、シオンの側に羽を休めたカササギが一声鳴くと、間を置かずにもう一羽、カササギが窓から舞い飛んできた。シオンの左右に仲良く一羽ずつ並んで、羽根を繕いだしなどしている。堂々としたものだ。

「へぇ、慣れてるねぇ。その子たち、君の友達?」

「友達というより、いっとき保護をして以来、追われている……」

 興味津々といったレミナスに、シオンは困り顔だ。

「別れてから随分と経つはずなんだが、気づけばこうしてついて来てしまう……。来るなと言っているんだが」

「いいじゃないか。気に入られてるみたいだし。一緒に来させたら何か駄目なの? 君、鳥、苦手?」

「苦手ではない、が――長く私といるのも、その、良くないからな」

「ふぅん……」

 シオンは口ごもる。

 魔術師が悪しきものを招く――それは、世間ではしかとした理由を述べられる者もなく、しかし何の疑いも挟まれず流布している言い伝えだ。だが、自身が魔術師であるシオンは、それが決して間違いではないことを知っている。幼いころ、短い間共に過ごした同じ魔術師の父から諭され、魔力を操る中で自覚もした。

 魔力は、限りなく命――生命力に近い。魔術師は恐らく、通常の人間が生きるために持つ生命力以上に、その力を蓄えられる人間なのだ。その生きるために使わない余剰が、魔力となり、あらゆる事象を意のままに現出させることができる能力となる。器が大きれば大きいほど、余剰の魔力も増え、強力な魔術師となる。

 けれども、蓄えられる器があるだけで、結局は人の身だ。その器を満たすだけの生命力を自身で生成しきれるわけではなく、持って生まれているわけでもない。あくまでもそこは、他の人間と同じなのだ。だから、満ちない器は自分の体で賄いきれない分を外から吸い込む。本人たちの意思とは、関係なく。

(この身体の本質は、魔獣とさして変わらない――……)

 魔術師たちが自身に不利益な情報として秘匿するので、知り得るものはほとんどいないが、魔獣もまた、身体的構造は彼らと同質なのだ。魔獣たちは魔術師たちよりも器が大きく、渇く身体を満たすため、積極的に生命を襲い、吸収している。違いといえばそこだけだろうと、シオンは思う。魔獣に比べれば、どんなに強い魔術師だろうと求める余剰は少ない方なので、場所を転々とし続ければ、奪われた生命力は、そのもの自身の回復力で元に戻る。

 しかし、同じ場所にずっと居続ければ、まず、土地が枯れていく。そして次に、生き物たちが弱っていく。おそらく最後には、次の命も生まれなくなるだろう。その地の者から見れば、魔術師がいるだけで、収穫が減り、病人が増え、若くして亡くなるものが重なり、子どもも生まれなくなる――それはまさしく、災いだろう。

(旅をしながらならば、共にいる生物への影響はさほどではないだろうが……)

 傍らでくつろぐカササギたちを見下ろす。消極的に生命力を吸収する魔術師の身体が、まず吸い取るのは土地の力だ。ここ半年ほど、なんやかやと付きまとってくる彼らに不調はみられない。しかし、今後、一緒に居続けて、絶対に問題がないという保証はどこにもない。

 黒いつぶらな硝子細工のような目が、小首をかしげながらシオンを見つめた。

と、レミナスが近寄り、シオンの隣に腰掛けた。同時にカササギたちが小さく不機嫌そうに鳴いて、部屋の隅へと飛んで行く。チチチっとレミナスが舌を鳴らして誘っても、愛想もない。

「あの子たちには、僕の方がよっぽど厄介者っぽいけどねぇ」

 くすくすと笑い、レミナスは俯くシオンの夕暮れ空の瞳を覗き込んだ。

「シオンってさ、何が好き?」

「好き、か?」

 唐突な質問へのシオンの困惑を流して、レミナスは続ける。

「そ。好きなものさ。こうして一緒にいるのも何かの縁だしさ。お互いそれぐらいの個人的な情報を告げあってもいいんじゃないかって。ちなみに僕は、仕事終わりの一杯と銀細工が好き」

「銀細工?」

「ああ。金より銀の方がまだ手頃だし、何より落ち着いた色合いがいい。特に透かし彫りのが好きだね。こういうのね」

 レミナスが上着の裾を少し引き上げると、ベルト部分に銀鎖でつながれた小ぶりの細工物が下がっていた。立体的に三日月を模した形に、透かし彫りで花や星のような意匠が施されている。

「初仕事のあと買ったんだ。だからたいしたものではないけど、他の物は路銀が尽きた時に泣く泣く手放すことがあっても、こいつだけはずっと持ってる。お守りみたいなもんかもね」

「確かに、美しいな」

「ああ。だから、シオンの髪を見た時も、僕は綺麗だなって思ったよ」

 細工物に注いでいた微笑みを驚愕に塗り替えて、シオンはレミナスを仰いだ。朝日を受けて煌めく金糸の髪、空色の双眸がとても眩しく見えるのに、笑んだ唇から紡がれる彼女の声音は何も特別な色はない。

「それで、シオンは?」

「私?」

「そうだよ。何が好きなの?」

「好きなもの、か。好きなもの……」

 戸惑いを飲み込み、思考を巡らせるも、シオンは頭を抱えた。

「すまない……正直、あまり考えたことがないので、すぐには出てこない」

「いいよ、いいよ。それならさ」

 しおれて下がるシオンの眉尻をレミナスは笑い飛ばした。

「出てきた時にでも教えてよ。シオンの好きなもの」

 レミナスが立ち上がり、ドアの方へと目を向ける。

「うっかり話し込んで、朝食の席につくのが遅くなっちゃったね。足音がする。迎えに来たみたいだ」

 彼女の言葉通り、ドアが几帳面な音でノックされた。カササギたちを死角にやり、受答えをレミナスに任せて、シオンは慌てて身支度を整えだす。

気づけばシオンにとってはかつてないほど賑やかに、温かな朝が動き出していた。



◇  



 乾いた大地を踏みしめれば、しなびた小枝がぱきりとか細い悲鳴を上げた。空は鈍色。重く厚い雲が垂れ込めている。少し前まで歩いていた、黒々とした葉に包まれた樹々の海は途絶えていた。生い茂る下草もなく、ひび割れた地面。倒れた伽藍洞の大木や、死んだ枝々をさらす樹ばかりで、生き物の気配もない。森は、枯れ果てていた。

「いよいよ本拠地って様相になってきたね。しかし、『魔獣が歩けば土地が死ぬ』っていうけど、ここまでひどい有様は見たことないなぁ。僕もそこそこ魔獣退治を請け負って、巣まで乗り込むこともあったけど、こんなになってるのは、群れに住みつかれて長いこと経ってた所ぐらいだよ。長によれば、件の魔獣が姿を見せたのは、月の満ち欠けが終わりきる前だろ。その前から多少、他の魔獣が現れていたとはいえ、これはちょっと異常だな」

「ああ、私が遭遇してからもまだ五日ほどだ。あの時は、ここまで酷くなかった。想定以上に周囲の生命力が吸い上げられている。縄張り替えも近そうだ。力が増大しているのか……気配が分かりやすくなっているのは助かるが」

 あの雨の日は直前まで分からなかった気配が、辿れるようになっている。魔力の気配は、それがどれ程強くとも、周りに生物、生きている自然があると紛れてしまうが、こうも枯渇していれば、おのずと露になるというものだ。

「ここまで近づけば、見つける前に、魔獣は私におびき寄せられてくるはずだ」

「魔術師ってのも、色々と難儀だねぇ。魔獣は寄ってくる、術を使えば身体への負担が激しい――僕、シオンに話を聞くまでは、術ってのは手軽に使えるもんだと思ってたよ。見えない大怪我で血が抜けてく感じだっけ? なんかやだなぁ。僕としては、それならいっそ、分かりやすく深手を負って、痛みでのたうちたい」

「それもどうかとは思うが……術の負荷については、魔術師のうちでも個人差もあるし、扱い方次第だ。そう出会った時のように術も使えないという失態は、さらさずにいられる……と、思う。魔獣については、どうしようもないことだ」

 魔獣にとってみれば、魔力という生命量の余剰を持つ魔術師は、より栄養価の高い食物といったところだろう。生命力を吸い取るために本能的に殺戮を行う彼らには、格好の標的だ。

 その時、突如鈍く地響きがあたりを揺らした。レミナスが口笛を吹きならす。

「小山ぐらいの大きさがあるって言ってたね。もしかして、あれかい?」

 倒れた大木が折り重なり、巨岩が転がるこのあたりは、土地の高低差が激しい。進む先の遠くも、岩肌がむき出しの崖のようになっているところがあった。その陰から、蠢きながら這い出てくるものがある。

「想像していた三倍ぐらい、実物は強烈だね」

 ずるりと現れた巨体は、太く粗い毛に包まれているようだが、さらにそれを暗色の緑の苔が覆っていて、しかと本来の色が知れない。頭部と呼べるものはなく、あちこちひび割れた赤黒い身体の隙間に、ずらりと目玉が不規則に並んでいる。だが、孵ったばかりの雛鳥のような、膜に覆われた黒々としたその眼が、どこに向いているのか、何かを映せているのかは分からない。四足は獣や人、生物のそれではない。鋭く太い刃のようで、その尖った切っ先を地面に突き立てながら歩んでいる。

「あの足、なんであの身体支えてて折れないのかねぇ」

 美しい所作と共に、剣がぬき放たれた。シオンもそっと杖を握る手に力を込める。

「本当にあれ、動き速いの?」

「ああ。狩りとなったら、巨躯を思わせないほど速い」

「うわぁ、ますます不気味なことで」

 整った唇に不敵に笑みを彩り、レミナスは身構えた。視線がすっと研ぎ澄まされる。

「――来る。シオン、頼んだ!」

 どこから発しているのか、魔獣が空気を揺さぶる唸り声をあげた。レミナスが駆けると同時に、シオンの短く歌うような呪文に応じて、杖が眩い光を放ち、彼女を包み込む。急速に速度を上げ突っ込んできた魔獣が振り上げた鋭い前脚を、レミナスの剣が受けて弾き飛ばした。

「いいね。いけるよ!」

 重い一撃を苦もなくいなし、次の斬撃を飛びのいて躱す。レミナスの身体も剣も、淡い光をベールのように纏って輝いていた。

 シオンの魔術で、レミナスの身体能力と剣の強度を一時的に強化する。それが、この魔術による攻撃を受け付けない、巨大な敵を相手取るために、二人が導き出した戦い方だった。魔術そのものの攻撃は意味をなさないが、強化となれば話は別だ。攻撃を受け、与えるものはレミナス自身であり、その剣なので、魔術による攻撃ではない。だから効くはずだ、との読みは当たった。

 下手をすると耐えらず、強化を受けたものが壊れてしまう術を、戦闘中常時、適切に維持し続けることができるシオンの魔術師としての力量。その強化を十全に生かしきることが出来る、レミナスの元来の身体能力の高さ。そして何より、二人の息が合うこと――そのすべてが奇跡的に合わさって、確かな力を発揮している。

「シオン!」

 飛び散る小石から片腕で顔をかばい、胴を薙ごうとする後脚を防ぎきって、レミナスが合図を送る。白銀のきらめきが、彼女の足元に一瞬で渦を巻き、レミナスは勢いよく地を蹴った。魔獣の上、遥か高くまで飛び上がる。それを逃すまいと、魔獣の体毛が無数の蛇のように蠢きながら、すさまじい勢いで迫ってきた。

「へぇ、そう来るわけ……!」

 絡めとろうとする魔獣の毛をレミナスが剣で薙ぎ払うも、数が多い。しかし瞬時に意思持つ突風が、彼女をさらに高く、天空へと逃して吹き荒れた。同時に巻き上げられ、降りかかる岩石を叩き落すため、魔獣の体毛が標的を変えて、周囲に散っていく。

「さすが」

 小さな独り言に笑みをのせる。彼女の眼下は、ちょうど魔獣の背と呼べる部分。その中央のひときわ大きく避けた身体の狭間から、他とは違う赤黒い巨大な目が覗いている。

 シオンが作ってくれた一瞬の隙を、無駄にする気は毛頭ない。レミナスは、足に纏う光の渦を弾くように空を蹴り、魔獣の赤黒い目玉へと急加速で落下していった。

 魔獣がそれに気づくより、気づいて再び体毛を蛇のごとく伸ばすより、レミナスの方がはるかに速かった。勢いよく目玉に突き立てた剣で、そのまま落ちる力に任せて魔獣の身体を裂け目に沿って切り裂く。雷鳴のような魔獣のうめき声と共に、か黒い血しぶきがほとばしった。それを全身に受けながらも憶することなく、レミナスは剣を構え直すと、再び地を蹴り、痛みに暴れる魔獣の前足の付け根を胴体から切り離した。

 大地を揺らして巨体が倒れ込む。しばらく苦しげに蠢いた後、魔獣は、動かなくなった。それと同時に、すべての目玉が自然と潰れ、黒い血の川が大地に溢れる。

「――依頼完了っと」

 肩で荒く息をつき、レミナスが血振りした剣を収める。打って変わった静けさは、剣が空を切る音を、離れたシオンの耳にまで運んだ。

 シオンも乱れた呼吸を整えながら、杖に込めていた力を抜く。微かな残照を残して、レミナスの周りから光が消えた。

 短い自身のマントを外して適当に顔や手の血を拭いながら、レミナスがシオンを振り返る。

「お疲れ、シオン。一、二度慣らしただけにしちゃ、最高に息があったんじゃない?」

 軽やかに、はずむ声。そこで張りつめていた空気が、一瞬でほどけた。歩み寄り、彼の目の前に拳を突き出す。シオンが首を傾げると、空の瞳は微笑んだ。

「ほら、シオンも」

 意を介さないままにおずおずとシオンが拳を作ると、こつんと、そこにレミナスが自身の拳を優しく突き合せた。

「やったね! ってやつさ。健闘の印に。こういうのもいいもんでしょ?」

「――ああ。やったな」

 輝く笑顔と目くばせに、シオンも頬をほころばせた。体中だるいが、いつもとは違う充足感が、なぜかそこには同居していた。

「しっかし、なかなかに身体にくるね、これは。いつも以上に疲れてる」

 そう言って座り込みながらも、レミナスは、満足げに口角を引き上げ、シオンを仰ぎ見た。

「でも、最高に動きやすかった」

「そうであったなら――私も力を入れた甲斐がある」

 それは彼が受けたことのない魔術への賛辞であり、そしてまた、シオンも感じていたことだった。彼女の指の先まで通した強化の魔術。それを通じて伝わる彼女の動きは、しなやかで精錬されており、いつどこに特に魔力を込めるべきか、シオンへの的確な指示となっていた。普通ならば、考えられないことだ。だからおそらく、彼女はきっと――

(本当に、理想的な――)

 続けようとした言葉に、驚いてシオンは思考を止めた。

「どうかした? シオン」

「いや……その、魔獣の血が、消えてきたようだな」

「ああ、そうだね。いつもこれ、不思議なんだよねぇ。もともと無臭だし、すぐ色もなくなるし、返り血浴びる身としては助かるけど」

 絶命ののち少し経つと、黒い魔獣の血は水のように透明になり、身体も二、三日も経てば、核と呼ばれる鉱石に似た塊を残して、あとは溶けるように消えていく。

(魔獣が死ねば、奪ったものが戻っていくだけだからな……)

 口にはせずに、シオンは雪解け水のように大地を潤す血潮を見つめた。これで土地も戻るね、というレミナスの声を遠く聞く。

 魔獣の死は、豊穣の先触れとして人々に知られていた。生きた魔獣は生物を狩り、土地を殺すが、その血が流れ、死体が消えた場所は肥沃な大地となる。忌まわしき動く災厄だが、倒すことが出来るのならば、その出現は瑞兆にもなるのだ。

(やはり、どこか――……)

 どこか似ている。魔術師も、魔獣も、禍福を両手に捧げ持つ。

(ああ、だから、私にとってはそうだとしても……)

 夕闇色の瞳の奥に、そっと映しとるのは、太陽のような眩い金糸の髪。吸い込まれそうな明るい空色の双眸。

(理想的なはずがない)

 握りしめた拳を、名残を惜しんでほどく。その時、ふと肌を刺す感覚に、シオンは顔を上げた。

「レミナス」

「何事かな?」

 低くささやくシオンの声に、レミナスもすぐ異変を悟って立ち上がり、剣の束に手をかけた。

「かすかだが魔力の気配がする。今までこの魔獣の魔力に紛れていたようだが、消えたことによって感知できるようになったらしい」

「なるほど。僕が知る限り、魔獣ってのは幼体はいないはずだから、大きいやつの影に隠れてた小物の魔獣かな? とりあえず、場所が辿れるようなら、油断せずに行こう」

「そうだな。あの崖の向こうだ」

 魔獣が現れた崖の向こうは、急峻な坂に続いていた。砂利を転がしながら滑るようにそこを下りると、広い窪地となっていて、枯れた樹々が折り重なって倒れ、行く手を阻んでいる。それを乗り越えていくと、奥まったところに、狭い洞窟が口を広げていた。

「……天然の洞窟じゃないね。人為的に掘ってある」

 入口の岩肌を触って確かめながら、レミナスがいう。

「こんなところに、固い岩を掘って洞窟作る利点って、何だい?」

「隠れるのだろうな……」

「だろうねぇ。この奥?」

「ああ。間違いない」

「でも、動くものの気配はないんだよね」

 レミナスは訝しみながら、そっと薄暗い洞窟の中を伺い見た。

「まあ、深くはなさそうだ。僕が先に行こう」

「いや、私が、」

「君は後方からも攻められるけど、僕は相手との距離が大事なんだ。万一の時に、後ろで何もできないんじゃ、二人いる意味がない。攻撃できる手段は、多い方がいい。だから、僕が先。いいね?」

 幼子に言い聞かせるように、けれど有無を言わさぬ視線で制してレミナスは笑む。気圧されて、シオンは大人しく頷くしかなかった。

 洞窟へと踏み込む。レミナスの言葉通り深くはなかったが、入口から届く光はか細い。几帳面に掘られた狭い道を進み、多少、薄闇に目が慣れたころだ。――彼らはそこに辿り着いた。

「これは……」

 少し広い空間。傷みの激しい机と椅子。もう灯りを灯すことのないランプ。隅には簡素なベッドがほこりをかぶり、錆びた食器と、わずかばかりの調理器具が砂にまみれて転がっている。そして、ぼろぼろの服をまとった髑髏が、洞窟の冷たい岩肌に静かにもたれていた。

「――魔術師だ」

 絞りだすような声で、シオンが呟いた。見れば遺体のかたわらで、壊れた杖が朽ちかけている。

「あの魔術師の遺体が、魔獣を呼んだようだ。遺体と杖に、魔力が残留している……。呪詛に、近い。レミナス。念のため、あなたはこれ以上近寄らない方がいい」

 レミナスの行く手を優しく杖で阻み、シオンは彼女の前に歩み出た。ひとり、魔術師の躯との距離を詰める。

「君に危険はないのかい?」

 大人しく立ち止まったまま、シオンの背にかかる問いかけに、彼は頷いた。

「ああ。呪詛の類は、直接的な攻撃手段にはならない。触れて何か起こるにしても、私ならば防ぐ手立てもある」

 わずかばかり距離を取り、シオンは動かぬ魔術師の側に屈みこんだ。視る、という行為に意識を集中する。

 呪詛は、呪文という言葉で対象に魔力を宿し、縛る。だからこそ、施された力が,何をなすものなのか、魔力を視ることで、声を聴くように、書を読み解くように、理解できる。けれど、遺体に渦巻く魔力には、明確に方向性を定められた形跡がなかった。

 だが、魔力は何もなしには留まらない。呪詛交じりの力が遺体を縛った理由は分からないが、何らかの働きで、この遺体に魔力が宿り続けているのだ。それも、何かを恨み呪う力を持ってだ。

(確かな形にはなっていないが、強く頭に響く雑音のような、怒りに任せた殴り書きのような……)

 喉の奥、胸の芯に、沁みるように鈍く痛みが走った気がした。

 洞窟には、孤独に、満ちない生活をした痕跡しかない。この人目につかない、暗く寂しい場所こそが、亡き魔術師が終焉に選んだ地なのだろう。魔術師として、留まらず、交わらず、最後までそうして生を終えようとした。けれど、そのいまわの際に、そんな己の生に、虚しさと悲しさと憤りを感じれば、それは言葉にならない呪いになったのかもしれない。

(いや――……感傷に引きずられた推測だな)

 これも呪詛紛いの魔力のせいかもしれない。そう、違うと分かりながらも、シオンは苦しいとか細く訴える胸の軋みを思考から切り離した。

(もう、これは終わっていること。私も、そう生まれたなら、もう――変わらないことだ)

 故人も、彼も、魔術師だ。永久に独り流離うべき存在だ。

 なにかを振り払うように彼は立ち上がった。レミナスの方は、見られなかった。

「――呪詛として意図されたものではないようだが、これが媒介となり魔獣を呼んだのは、間違いなさそうだ。不規則な中小の魔獣の出現も、あの大物の短期間での急成長もそのためだろう。放っておけばまた同じことになる」

「なるほど。対処は?」

「魔力を留めている器を壊す」

「それは僕には門外漢だな。任せても?」

「ああ。もちろんだ」

 簡潔なレミナスの問いに、淡々と返す。依頼の一部、仕事として処理をしようとする、彼女の淡白な応対がシオンにはありがたかった。

 意識を杖の先へと移し、呪文を紡ぐ。

(一瞬で――)

 そう、一瞬で片をつけよう。何へも思いを馳せぬうちに。心ひとつ揺らがぬうちに。灰にして無に帰してしまおう。

 杖を包んで揺らめいた炎が、瞬く間もなく遺体と傍らの壊れた杖を飲み込んだ。暗い洞窟内が束の間、眩い朱色に染め上げられる。渦巻く紅蓮が消えた後、そこにはもう、何も残らなかったかに見えた。

 しかし――

「お疲れ。もう近寄っても平気かい?」

「ああ、問題ない。もうここの空間にも、この周囲にも魔力を感じるものはない」

「よし。ならば重畳」

 歩み寄ってきたレミナスが、シオンの脇を通り過ぎ、ひょいと躯の倒れていた辺りで屈みこんだ。あちっと小さく声をあげながら、彼女が何かを取り落としたはずみに、かすか堅い音が響く。

「指輪?」

 先の炎のせいで黒く焦げ、形がやや歪になってしまったようだが、溶け切りはしなかったようだ。それは確かに、指輪だったものだった。

「そう。あのご遺体がしてたんだろ? 大切なものか……は、分からないけど、最期に一番側にあった品だ。遺体の代わりに弔うには、これがいいんじゃないかと思ってね」

 どこかに仕込んでいたらしい傷の処置用の布を取り出して熱を防ぎ、もう一度レミナスが指輪を拾い上げる。理解の追い付かないシオンに、レミナスはにこりと笑った。

「外に墓を作ろうよ。魔獣を寄せる遺体は残せないにしても、最期を見つけたものとして、これで片を付けるんじゃ後味が悪い。簡易な形だろうと、そういう弔いは、僕らのためにも必要だよ。それに、僕のおせっかい心としては、終わりの場所は、暗い洞窟の中より、陽の当たる所の方がいいと思うんだよね。外はまだ荒地だけど、いずれ緑が戻ったら、少なくともこの中よりはいい場所になるだろうしさ」

 いうだけいってレミナスは、すたすたと早くも入口へ向かって歩き出した。束の間ぼうっとしてしまったシオンが急いで後を追えば、この辺りがいいかな、などと、木が茂っても日当たりのよさそうな一角に目をつけて、短刀でがつがつと地面を掘りだしている。その深めに掘った小さな穴に布で包んだままの指輪を入れると、レミナスは手持ちぶさたに立ち尽くしていたシオンに土をかけて埋めるよう頼み、自身は倒木から太めの枝を三本ほど切り取って何やら作り始めた。長い枝の先をやや鋭角に削り、切り裂いた己のマントを紐代わりに、短めの残り二本の枝を交差しあうようくくりつける。

「こんなもんかな」

 指輪を埋めた側にその枝を突き立てれば、簡素ではあるが、確かにこの地域でよく見る墓標となった。周囲でもしここまで足を運ぶ者があったならば、一目でこの場に眠る魂があると分かるだろう。

「はたしてこの亡き魔術師殿の流儀かは分からないけど、これがこの土地のやり方ってことで、違っても大目に見てもらおう」

「理想郷への槍、か」

「そうそう。死者の御霊の案内人。美しき常世の女王の子らが持つ、魂を悪霊から守り、いくべき理想郷への道を示す光の槍。この墓標は、死者の旅路が安寧であるよう、残される者たちが贈れるささやかな守りの印さ。そういう考え方、僕、嫌いじゃなくてね」

 遠く空の彼方を指し示し、光を背負う槍を意味するこの墓標の形は、比較的広い地域で信仰されている神話から生まれている。シオンも旅の中で幾度も話を耳にし、目にしていた。けれど、ひどく簡易であろうと、実際の葬送の場に居合わせるのは、初めての経験だった。

 彼ら魔術師には、送る人もいなければ送られる人もいない。少なくとも、今までのシオンにとっては、そうであったからだ。

「さ、お祈りといこう」 

 そう言ってレミナスは、剣を腰から外して片膝をつき、胸元に握った手を添え、こうべを垂れた。略式でない、正式な祈りの姿勢。剣の構えもそうだが、彼女はそうした型が見惚れるほど自然で凛々しい。目を奪われ、一拍遅れて、シオンも慌てて彼女に倣った。

「常世の女王の加護の元に、恒久の安らぎのあらんことを――」

 瞳を閉じたまま、シオンが姿勢を落ち着かせた気配を察してレミナスがそう囁いた。それは死者へ送る決まりきった文句だが、彼女の声音には、確かに敬意と優しい祈りが込められていた。

(そうか……。死者への悼みとは……こう、表すものなのか)

 わだかまっていた胸の疼きが、レミナスの祈りにほぐされる。ここで孤独に死んだ魔術師に、おそらく死後ようやく、誰かの手からぬくもりが与えられたのだ。

 それが生前の故人には、何の救いにはならないにしても、でも、それでも――

(私は、救われたのだろう……)

 祈りをささげるレミナスを伺い見る。整った輪郭に流れかかるその髪は、薄暗い曇り空の下でもきらきらと、褪せない眩しさがある。焦がれるような、光の色だ。

(ああ……だが、だからこそ、もう終わりにしなければ……)

 レミナスとの約束は、〈束の間〉だ。もう存分に、その輝くような〈束の間〉は味わわせてもらった。

(この一時だけで、私には十分だ……)

 言い聞かせるように、制するように、静かに己へ言葉を紡ぐ。その時、ぽつりとシオンの頬に何かが当たり、肌を濡らして、顎へと伝って落ちていった。

「雨だね。降ってきた」

 祈りを終えたレミナスが、空を見上げていう。重い雲が泣き始めた。冷たい雫が、ぽつりとぽつりと降り注いでくる。

「……レミナス」

 立ち上がり、小さな声を何気なく響くようふり絞る。そうだ。こういう暗い雨空がお似合いなのだ。

「しばらく降り続きそうだ。雨除けの術は施すが、少しでも急いで帰ろう」

「そいつは助かるけど、別にいいよ。使いすぎは疲れるだろ?」

 笑って見上げてくるのは、今は雲の向こうの青空の瞳。優しく淡いその色は、ずっと見つめていたくなる。

 ――『シオンってさ、何が好き?』

 ふと蘇ったレミナスの問いかけ。その答えが、今更に見つかった。

(明るく、吸い込まれそうな……晴れ渡る青空――)

 それが、きっと彼は好きなのだ。鮮やかなあの眩さに惹かれるのだ。けれども――似合うのはこの雨空だ。

「雨除けぐらいならば、さしたることはない。風邪をひいては困る」

 ほのかな笑みを唇にたたえ、シオンは術を紡いだ。最後まで、ささやかでも、側にいるからこその仕事をしたかった。

 じゃあお言葉に甘えて、とのレミナスの返答に、雨音が重なっていく。随分としっかり降ってきたようだ。雨の軌跡を上へと辿れば、分厚い雲には切れ目がない。

 輝く空は、遥か遠い。




 冷たい雨がこずえをすり抜け、深く息吐く肩を濡らす。

(まいったな……――)

 樹の幹にもたれ、シオンは空を振り仰ぐ。西の空はかすかに明るくなっているから、もうしばし待てば晴れるだろうか――そんなことを考えながら、木の根元へと座り込む。

 あのあと長の屋敷に着いてから、報告や事後対応をレミナスに引き受けてもらい、その隙にシオンは逃げるように街を後にしたのだ。しかし、焦る気持ちとは裏腹に、身体は思っていた以上に消耗していたらしい。募る疲れから、彼は街道はずれの雑木林で、休息を余儀なくされた。本来ならばせめて一泊は、街の確かな寝床で休むべきところだったのだろう。

(だがそれは、できない……)

 そうしてしまうと、願ってしまいそうだったのだ。どうかあともう少しだけ、この〈束の間〉を――と。

 風がこずえを吹き抜け、彼の銀糸と戯れていく。先ほどまで雨とともに頬に打ち付けていた風とは違う。湿った土の香りに、春の息吹が混じっていた。ほのかな温もりをはらんだ風だ。

(風が変わったなら、すぐにでも晴れるか……)

 再び西の空へと目を向ける。雨の線はか細く、薄れていく灰色の雲の先が、ぼんやりとした光に溶けていた。そこへ――

 聞きなれた鳴き声とともに羽根を羽ばたかせ、背後の林から黒い影がふたつ、彼の目の前に降り立った。

「お前たち、また追ってきたのか?」

 丸く黒い小さな瞳が小首をかしげながらシオンを見上げる。白黒の色合いの中、翼の先にだけ映える暗い瑠璃色――見紛うことない、いつものカササギたちである。気づけば、随分と馴染み深くなってしまったものだ。

 シオンは思わず、柔らかく苦笑した。

「本当に、毎度毎度、よく私を見つけられるものだな。魔術でも使っているのか?」

「それ、僕も同感。実に的確で驚いた」

 珍しくカササギに伸ばしかけていた腕を、ぴたりとシオンは止めた。どうして、だけが頭の中を駆け巡る。おもむろに振り返れば、光の色の髪を風に遊ばせながら、空を切り取った双眸が、楽しげに笑みをたたえていた。

「シオンも、そういう冗談いうんだね」

「レミナス……どうして、ここに?」

「いやぁ、ちょっと君を捕まえに」

 ひらりと軽快に木立の合間から歩み寄り、シオンの隣にレミナスは腰を下ろした。

「部屋に戻ったら、君じゃなくてこの子たちに出迎えられるんだもん。驚いたよ。君はどこに行ったのかと思案したけど――彼らは実に優秀な案内人だった。飛び去られて見失わないように、借りた馬を用意してから放ったんだけど、ちゃんと僕のことを待ちながらここまで飛んできたからね。この子たち、もしかして人の言葉が分かってたりするんじゃないの?」

 ねぇ、と撫でようとしたレミナスの腕を逃れて、カササギはぴょんと横へ飛びのく。つれないねぇ、とぼやく彼女の隣で、立ち去る機会を逃したシオンは、必死で状況を整理しようと混乱する頭を抱えた。

 カササギたちのことをうっかり失念していたのは、確かにシオンの落ち度だろう。いくら外に放っても戻ってくるので、仕方なく部屋に残したままにしていたのだから。しかし、例え彼らのことを覚えていたとしても、それがレミナスを導いてくると想像できただろうか。

「それに、馬、とは……?」

「ん? あっちにつないであるよ」

 見えない存在に思わずこぼれた疑問を拾って、レミナスが林の奥を指し示す。

「カササギたちが下降したのが見えた時にね、蹄の音で僕の接近まで気づかれちゃ良くないと思って」

「随分と、周到なんだな……」

「周到ってほどじゃないけど、ある程度、事の次第を想定するとさ。接近を悟られるのは得策じゃないなぁって、なるだろ? 例えば出会った時のように、君が何かに巻き込まれて、危機的状況にいるとかさ」

「私を案じてくれたのか?」

 思いもかけない言葉にシオンは目を瞬かせた。

「万一程度にね。ほぼその可能性はないとは思ってたけど、いきなり消えてたからね。事件性も考慮するさ。そうなると、さっきまで組んでた相手の失踪を放っておくのは、さすがに人としてどうかと思って。無事でよかったよ」

「すまない。心配をかけてしまうとは、考えても、いなかった……」

 ひどく肩を落とすシオンに、レミナスは声をたてて笑った。

「大丈夫だよ。万一程度って言ったろ? こういうのもなんだけど、君が気落ちするほど心配してないから。安心して。追ってきたのは、どっちかっていうと、まずこれね」

 レミナスは腰のベルトに下げていた革袋を外し、二人の間に置いた。威勢よくぶつかり合う金属音が、小さくなった雨音をかき消して響く。

「今回の報酬。いい重みの金貨だよ。きちんと君の分け前を受け取ってもらわないと、僕が落ち着かない。それに、こいつがないとシオンも困るだろ? 君、あの街に入る前に、ほぼすっからかんの荷物なしになってたんだから」

 それはまさしくレミナスの言う通りであり、そもそもその状態を解消するために、珍しくシオンは街に赴くことにしたはずだったのだ。

 何も言い返せず、きまり悪そうに押し黙るシオンに、レミナスはくすくすと少し人が悪そうに笑ってみせた。けれどそれは、不思議と心を温かくさせる。

「それで、こいつが一番の本題なんだけど」

 そう、レミナスは次の瞬間、シオンに柔らかな眼差しを向けた。甘い空色に夕闇色をからめとられる。

「もう少し僕と組まないって、誘いに来たんだ。どう?」

 ひどく当たり前のことを聞くように、それは投げかけられた。あまりにも飾りなく投げ込まれたせいで、その誘いは無防備にシオンにあたり――そのままに、跳ね返っていった。

「――私で、いいのか……?」

 気づけばこぼれていた言葉。口を覆うより先に、美しい空の瞳が優しく溶けるような弧を描いた。

「もちろん。僕は君がいい」

 目尻の端が、温かい痛みに痺れた。息とともに、なんとかそれを飲みこみ、堪える。

「私は……魔術師だ。共にいて、何かがない保証がない……――」

「それなんだけどさ、何かがある確証もないんだろ? だったら、何かあった時に考えるよ。だから、そうじゃない部分で、君にも検討してほしいんだけど」

 なけなしの力で制した心を、見つめる微笑みひとつで引き寄せられる。

(どうして――)

 そんなことを言うのだろう。離れがたい気持ちになってしまう。その隣が心地よいと、思い知ってしまう。

 心の声が、意識しない間に声になってしまったのだろうか。レミナスが首をかしげて答えた。

「どうして、って、僕ら最高に相性良かっただろ? やりやすかったし、何より、もう少し組んでた方が楽しそうだからね」

「――楽しそう?」

「ああ。シオンは、違う?」

 澄んだ空色に問われれば、〈束の間〉の日々を思い返すまでもなく、その答えは明白だった。

「いや……違わない」

 噛み締めて、素直にシオンは頷いた。

「じゃあ、決まりだ」

 端正な唇が満足げに引きあがる。どれほどあつらえた言い訳も、紡ぎあげた理屈も、鮮やかなこの輝きには抗えない。

 いつしか雨はやんでいた。風が散り散りに吹き散らす雲の切れ間から、青空がのぞき、光が差してくる。

(ああ……そうだな。私は、きっとどうしようもなく――)

 この空と光に焦がれている。

「引き続き、よろしく頼むよ。シオン」

「ああ。――よろしく頼む。レミナス」

 あの日と同じように差し出された手を握り返す。きらきらと雲間からあふれ出した陽射しが、レミナスの髪の上で眩く踊っていた。

「さて、そうと決まったら、さっさと次の街に行くとしよう。幸い雨はやんだが、君も僕も濡れ鼠だし、今朝の疲れも取らないとだろ? それに何より――」

 にやりと笑い、レミナスはシオンに目くばせした。

「君のおかげで、仕事終わりに一杯やり損ねてるんだ。次の街で付き合ってよ。そしたら、シオンもやみつきになるさ」

「ああ――そうだな。楽しみに、相伴しよう」

 シオンはとろけるように破顔した。

 目を奪われて、レミナスは相好を崩す。

「うん。やっぱり、いいね」

 濡れそぼった銀糸の髪が、淡く陽の光を宿している。その透き通る煌きに、魅せられる。

「なにがだ?」

「そりゃもちろん、君がさ、シオン」

 きょとんと自身を見つめる紫の瞳に、レミナスはただ笑った。

 立ち上がり、彼女が馬を引き連れて戻ってくると、カササギが先導するように先へと羽ばたきだした。シオンを馬の後ろへと乗せ、二人は次の街へと進みはじめる。

 蹄の音も軽やかに、馬は街道を駆けていく。

 洗われた空気に光が翻り、気づけば、澄み渡る空が吸い込まれんばかりに広がっていた。

「……レミナス、そういえば、見つけたんだ」

「なにを?」

 背後からの声に、手綱を操りながらも少しレミナスが振り返る。空の瞳が、シオンを映して笑んでいた。

「私は、この雨上がりのような――晴れ渡る空が好きらしい」

 くすぐったそうな、幸せがほころぶ音色でシオンは告げた。


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銀の魔術師と空の色 かける @kakerururu

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