岩と鉄砲玉
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麻衣が引きずられてきたのは、
桜の樹のそばには、見知った顔も知らぬ顔も、一様に眠って横たわっていたが、麻衣のあげた声に気づいて、起きてくれる者はいなかった。異能ゆえの事態だ。目覚める時が来るまで、起きられないのかもしれなかった。
そう理解しても、麻衣にとってそれは絶望だった。助けてくれる者は、ひとりもいない。
川原の端で、痣が出来るほど強くつかまれていた腕を離される。逃げようと走ることも出来たのかもしれないが、麻衣の膝は自然と地につき、座り込んで
許しを請うその姿を、しばし立って眺め下ろしていた洋平は、おもむろに麻衣の前にしゃがみこんだ。
「違いますよねぇ、麻衣ちゃん。どうしてそんな簡単なことも分からないほど馬鹿なんですかね。僕は麻衣ちゃんに、いつもちゃんと教えてましたよね? 麻衣ちゃんは馬鹿で何もできないから、僕の言うとおりにしないと、ひどい目にあいますよ、って」
怯えて震える肩に降る声は、柔らかく穏やかに響く。が、拭いきれない、耳障りの悪い悪意の棘が、肌を突き刺してきた。
「僕の言う通りに家事も奏の世話もできないくせに、僕、優しいから、ちゃんと毎回駄目なところを指摘して、改善の機会を与えてあげてましたよね? それも全部麻衣ちゃんのためだったのに、嫌だからって逃げ出して、こんな大事にして。麻衣ちゃんが駄目な奥さんだって、隠してあげてたのに、みんなにバレていいってことなんですかね」
伏せたままの麻衣の顔を覗き込もうとする口元は、弧を描いている。だがそれは、笑みではない。その両目は、月明かりの元でも分かるほど、ぎとぎととした嗜虐の色に濁っていた。
「ねぇ、謝るばかりじゃなくなにか言ったらどうです? もうこんなことしたら取り返しつかないんですよ? ねぇ、謝っても遅いんだよ。ね? 分かってるのかって聞いてんだよ!」
唐突に激昂した洋平はそのまま麻衣の横顔を拳で殴りつけた。身体を打ち付け倒れ込んだ麻衣の髪を、掴んで引き起こす。
「ごめんなさ、」
「声が小せぇんだよ! 謝るならもっとちゃんと謝れよ! 謝り方のひとつも知らねぇのかよ!」
洋平は怒鳴り散らすと、やめて、痛いと呻く麻衣をそのまま川のそばまで引きずっていった。
「ちゃんと謝れるように教えてやるよ!」
洋平は怯える麻衣の頭を、そのまま川の中へと突っ込んだ。じたばたともがく脇腹を蹴り飛ばし、息も絶え絶えになったあたりで、引き上げる。
噎せる彼女を打ち捨てて、また、妙な猫なで声が苦しむ彼女を見下ろして言う。
「ほら、ちょっとは分かった? 自分が馬鹿で何も分かってなかったって謝れますか? 僕に悪いことしたって思ってます?」
けれど、麻衣は荒く呼吸を繰り返すばかりで答えられない。ちっと舌打ちの音がした。かがみこんだ洋平が、足元から手ごろな石を拾い上げる。
「すぐに返事しろって言ってんのに。そんな簡単なこともなんで出来ねぇんだよ。馬鹿な女はこれだから手がかかるんだよ!」
叫んだいきおいのまま、手にある石を麻衣の頭上へ振り下ろす。
が、その瞬間。
川原に面した木立を揺れ動かして、影が飛び出してきた。金色の髪が、月明かりに濡れて煌めく。
飛び出たその人影は、ひと跳びで距離を詰めると、石を手にした洋平の手を捻り上げ、投げ飛ばす勢いで麻衣から引き離した。
強かに、近くに露出していた巨岩に背中を叩きつけられ、洋平が呻く。
突然の痛みと望まぬ妨害者に、怒りもあらわに洋平が睨みつけた先。そこには涼やかなかんばせが、月に照らされ、彼を見下ろしていた。
ふわりとその緻密な繊細さが、微笑みをたたえ、警察手帳を掲げる。
「警察です。栃田さん、いま、奥さんになにされてました?」
ぎくりと栃田は固まったが、ふともう一度北瀬を眺めた瞬間、侮りの色を顔に浮かべた。
月の光に浮かび上がる姿は、男にしてはたおやかで、その体躯も顔立ちも儚く弱々しい。怯える相手ではなく映った。
「いや、その……ちょっと話し合いを」
「話し合い? どのようなご内容ですか?」
穏やかながらその口調は、圧がある。それが洋平の癪にさわった。なよなよと弱そうな分際が、警察というだけで偉そうだ。
「どんな内容だっていいでしょう。夫婦間のことです。警察は民事不介入でしょう?」
得意げに口端を醜く引き上げる洋平に、あくまで笑顔のまま、北瀬は頷いた。
「そうですね。民事なら。でも、暴行罪や傷害罪となると、話が違ってきます」
「は? 僕は別に妻に何もしてませんよ! 勝手に転んで溺れそうになってたのを助けてやっただけだよ! なのに疑ってのか? ひょろっちい警察が調子乗るなよ! 訴えてや、」
「おっと、失礼!」
噛みつく洋平を、にこやかに遮った瞬間。北瀬の拳が風を切り、洋平の頬すれすれに叩きつけられた。ピシッっと亀裂の走る音が響き、次には轟音とともに、巨石は洋平の背後で粉々に砕け散った。
「すみません。聞いた話なんですけど、この辺、危険な蛇が出るそうで。いま、その蛇が岩を這ってたんで駆除させていただきました。あ、それで、なんでしたっけ?」
唖然と震え、へたり込んだ洋平を、爽やかに笑んで見下ろし、北瀬は首をかしげた。
しかし、洋平からは答えはない。ただ、すみません、すみませんと、小さく繰り返して震えるばかりだ。
やりきった――そんな満ち足りた心地で、北瀬は麻衣の方を振り返る。と、そこには、ぬっと立った那世の姿があった。
「うっわ! こっそり近づいてないでよ! 声かけてよ!」
「諸々こっちの台詞だ。このコントロールの利かない
ひと声もなく駆け出した己を棚に上げての苦情に、那世は眉をしかめた。
那世が辿り着いたのは、まさに、岩が砕け、粒子が月光のもと、きらびやかに光っている瞬間だった。間に合ったのか、ある意味間に合わなかったのか――那世が頭を抱えたのはいうまでもない。
だが、小言を呈してばかりもいられない。那世が南方たちに連絡を入れる傍ら、北瀬が麻衣の様子を確かめた。男性が近づくのは抵抗があるかもしれないが、こうした時、北瀬の儚げな見た目は役立った。
警察であるということ、奏が無事であることなどを伝えれば、麻衣は安堵に泣き崩れた。
やがて辿り着いた捜査チームによって、洋平は警察署へと連れていかれ、麻衣は
一時の喧噪が過ぎ、静けさの戻った川原をぼんやりと那世は見やる。ほぼ眠らずで三日間を過ごした疲れがどっと出てきていた。が、これで失踪した者は、本当に、最後のひとりまで見つかったわけだ。
栃田家に隠されていた問題は、
それはどこか中途半端な、やりきれなさを伴うこともある。けれど――
『……お母さんを助けて……』
あの切実に紡がれた幼い願いを叶える第一歩には、なれただろう。
なにより、この川原で、最悪の結末を迎えなく良かった。そこは、有無なく山中を駆け抜けた相棒に、感謝しなければならない。あの時彼が飛び出ていなければ、きっと、間に合わなかったろうから――。
「どうしたの? 那世」
去り際に、なんとはなしに川原を振り返った那世の鼻先を、爆ぜる春の香がくすぐった。川風に揺れる月明かりの髪。儚さを纏う涼やかな面差し。それに、彼が桜に溶けるように隠された様がちらりと蘇ったが――那世は様々な思いを飲み込んで、小さく頭を振った。
「いや……お前が消えてしまいそうだと、一瞬でも思ったことを悔いてるだけだ」
砕けた岩のあった場所を眺めやる。北瀬の本性は、間違いなくあちらの方だ。それは誰より、バディの彼がよく知っていた。
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