リミット二日目の進展(1)
◇
「DV加害者には、擬態の上手い個体がいるのよねぇ」
署へ戻っての北瀬と那世の報告に、南方は顔をしかめてぼやいた。
栃田麻衣に、周囲の人間が持つ印象は薄い。大人しい、消極的、挨拶を交わす程度――。交流が少なければ、声をあげる先も、気づいてくれる相手も得られない。
磨き抜かれた床、一ミリのずれも許されない靴の整頓。病的にこなされていた家事の名残りは、一週間不在となってなお、家のそこかしこで痛ましい生活をうかがわせた。
しかし、もし辛うじて何か伝えようとしたとしても、夫の普段の好印象の前には、塵と消されてしまっていただろう。一歩家に踏み入れば、暗い納戸が、口を広げていたというのに。
「他者と断絶し、過剰な労働を強い、意にそわない時は納戸に閉じ込める。いま分かってる状況だけでも、そこまでは想像できるわね」
「納戸の有様からして、相当尊厳を削られていたと思いますよ。身体的暴力も……あったんじゃないかな」
憂う北瀬の声が、重く沈む。
「なくても言葉で追い詰めてはいただろうな。無価値、不出来、低能……向ける刃はなんでもいい。自己評価を呪い、自分は粗雑な扱いを受けても仕方ない存在だと、思いこませる」
「そうやって逆らう気力を奪っていけば、無抵抗なサンドバッグのできあがり、ってわけだ。反吐が出る。奏さんにも……どこまで影響があったか心配だね」
相手を自分と同等の存在と思わないことで、人は罪悪感ひとつなく、他者を傷つけられる。少し違えばいいのだ。女性だったり、子どもだったり。奏の場合は、そこに〈あやかし〉という要素も加わる。蔑み、虐げるハードルはいくらでも低くなろう。
「学校で聞いた限り、身体的な外傷はなかったようだが……」
「病院も結局、薬の処方で行ってただけだったんですよね?」
北瀬の確認に、南方は頷いた。
「ええ。契約者のいない〈あやかし〉に付きまとう、倦怠感をやわらげるやつをね。〈あやかし〉にとっては常備薬的なものだから、問診もあまりしてなかったみたい。周囲に隠していたいから、病院であまり時間をとりたくないって、事前に申し入れもあったそうで」
「まあ……よくあることでしょうから、そんなに医師を責められませんね」
我が身を振り返って、那世はぼやいた。
問診によって、奏の様子や付き添いの麻衣の有様から、もっと早期にDVに気づいてくれていれば――というのは、都合のいい話だ。周囲に己が〈あやかし〉であることを隠す者にとって、薬の処方での通院は、苦痛と不安を伴う。自分が〈あやかし〉だから通院していると思い知らされるわけであり、いつ知り合いに会うかと怯えなければならないからだ。それゆえ、わざわざ遠方にいったり、いっそ病院に行かず、倦怠感を耐えるという選択をする者もいるくらいである。
医師側もそうした事情を知っているからこそ、問診を短くしてほしいと頼まれれば、それ以上は詮索せず、淡々と薬を処方するだけに努めただろう。
「でも、費用補助があるとはいえ薬を与えられていたってことは、奏さんは運よく、身体的な被害やネグレクトの
苦く寄る北瀬の柳眉に、南方も憂鬱な溜息を重ねた。
「子どもは自分の分身という位置づけにする場合と、所有物と考える場合とで、扱いが微妙に違ってくるからね。加虐者が、自分の分身、子分とみなしている場合、歪に甘やかすケースもあるわ。奏さんはやや前者寄りの位置にいたのかもしれない。とはいえ、支配欲の萌芽はあるからね。いま考えあわせれば、数々のお稽古ごと。あれ、当人のためではなくて、自分の理想の押し付けだったんじゃないかしら」
「そのお稽古ごとのせいで、放課後はもちろん、休日も、友だちと遊ぶことはなかったそうですからね。他者との交流を阻害することにも、ひと役かっていたんでしょう」
「でもだとするとさ」
会議室の机の上に適当に買い置かれた缶コーヒーへ手を伸ばしながら、北瀬は秀麗な顔を物思わしげにしかめた。
「いつ、契約者と出会ったの、って話になるよね」
病院の処方の状況や、友達の
「お稽古周りでここしばらくは新しい顔は入ってきてないみたいだし、二年生から三年生になる時、クラス替えはあったけど、学年のメンツは変わってないんでしょ?」
「二クラス合同の授業も多いようだったからな。顔を合わせてるなら、とっくに一年生の時点で出会ってるだろう。子どもだから出会ってすぐに契約できなかった――ということも考えられるが」
「いやでも俺は、出会ったのも最近だと思うね」考え込む那世に北瀬はすかさずそう言った。「今回、麻衣さんが逃げ出すことになったきっかけ。それ、たぶん奏さんに契約者が出来たからなんじゃないかな?」
「確かに、長期にわたってあの状態に慣らされていた人間が逃げ出そうと踏み切るには、変化が生じたと考えるのが妥当ね」
南方は頷く。削がれて麻痺した、人として当然の感覚を呼び覚ますなにかが起こったのだ。不当なこの状況から、逃げなければならない――そう駆り立てる出来事が。それが、生きる方向に向かってくれたことだけは、不幸中の幸いだ。
「娘の奏さんに契約者が出来たことで何かしらが変わって、一週間、もしくはそれより前に逃げ出した。そしてなんらかの事情で、逃げ出した時ではなく、昨日異能が発動した。だから、《探し》てた者たちは、昨日消えた――ってあたりが、妥当な推論かと」
「だとすると、その『何らかの事情』が、問題だな」
考えつつの口にする北瀬に、那世も思案に沈む。
そこへ、がちゃりと会議室のドアが開いた。
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