深夜のヒーロー(2)
そこへ、会議室の扉が開き、外のざわめきが明瞭に飛び込んできた。なにやら先刻までと空気が違う。
「ふたりとも、お疲れ。これ差し入れだよ」
扉を開けた人物が、そう野菜ジュースのパックとエナジードリンクの小瓶を掲げる。刑事らしからぬ人当たりのよい顔立ちと雰囲気。特に優しいたれ目が印象的な男性だった。茶色みのある、ふわふわとした癖のある毛先が、柔らかく耳元で踊っている。
「野菜も摂らないと不健康だからね」
「さすが〈仏の長洲野〉! 好き!」
さっそくエナジードリンクの方の蓋をひねる北瀬の横で、疲れを伺わせない温和な笑顔から、那世も礼を言って差し入れを受け取り、ジュースにストローをさした。
「聴取、なにかひと区切りついたんですか? 署内の雰囲気が違ってますが」
「ああ、逮捕時の北瀬の説諭のおかげでね。思ったよりも早く、奴が打ち解けてきたんだ。持つべきものは共通の敵ということだ。と、いうわけで、それは悪口言ってたぶんのお詫び」
「利用された! ひどい! でもそういうところも好き!」
「すみません、長洲野さん。いまこいつ、アドレナリンの出方がおかしいんで」
「大丈夫、大丈夫。いつもの北瀬」
不躾に相棒を指差す那世に、長洲野はにこにこと笑う。「その認識もどうかと」と、北瀬は不満をたらしつつ、早くも飲み干した己のエナジードリンクの空瓶を置き、那世の分へと無許可で手を伸ばしていた。
「こう、北瀬は頼む前に怖い刑事をやってくれるから、優しい刑事としては助かるよ」
「こいつ、そのへんは別に考えてないですよ」
「違いますぅ。長洲野さんがいるから俺があらぶってもいいや、と、考えて動いてますぅ」
「余計たちが悪い」
苛立ちを誘うおちょぼ口の金糸頭を、わりと加減なく那世がはたく。窃盗の罪も、そのまま現行犯逮捕されていた。まぁまぁとそれを適当になだめながら、長洲野も彼らに混じって会議室の椅子につく。
「今回もそれが功を奏したから。北瀬への悪印象が強くてね。言える範囲だと『あの顔だけ〈あやかし〉野郎』とか、聴取の合間合間に、北瀬が車壊したこととか、その後に言われたことの苦情を挟んできて」
「ねぇねぇ、長洲野さん。『とか』と言いつつ、例示一言だけとか、他にあいつどんなこと言ってるんですか」
「拳をならすな。おさめろ」
身を乗り出す北瀬を、ジュースを飲む片手間に那世が引っ張り戻す。長洲野は苦笑した。
「まぁ、色々とね。だからこっちも、『娘があいつにバレンタインにチョコを渡して、いらいらしてる』っていうところから、話を振ってみたんだ」
「わりと本気のやつがぶち込まれてた」
「あのあと長洲野さん、南方班長から娘さんに、顔だけで相手を選択する危険性について、話してもらってませんでしたか?」
「どうも班長からの方が、父親の言葉より聞いてくれるからね。『那世には彼女がいるから渡さない』、『北瀬へ本命渡す』ってあたりに、実際に交際を視野に入れ出しているのを感じて、思いのほか真剣になってしまったよ」
「ワンクール前に、女子高生を警護する刑事が、なぜか同棲して恋愛するドラマがあったせいですかね・・・・・・」
「俺、未成年への適切な対応を遵守して、大人として節度ある世間一般の範囲内のお礼の気持ちを、長洲野さんづてで返しますから」
やり過ぎたかなと恥じらう長洲野に、いつにない真面目なトーンで北瀬が宣誓する。
「まぁ、ともかく、そうした本当に聞こえることから入らないと、身内の悪口を真に受けて、のってきてもらえないからね。そのあとは、気が緩んでいくように頷いて、会話を合わせて・・・・・・少しずつ、ね。あの手のタイプは、乗せると自分のことを話したがるから。で、ダシにした北瀬には悪かったけど、言うのも憚られる差別的な思想や罵詈雑言をのぞいていくと、なかなか収穫のある供述がとれたんだ」
見ている世界が違うのだと、憤りすら届かない醜悪なものを、まざまざと突きつけられる供述などままある。普通ならば自分の心を守るため、避けたり逃げたり、怒りをぶつけたりするような代物だ。それと時に、優しい刑事は淡々と向き合うことを求められる。
今回などは事件の凶悪性もあいまって、心労は人一倍つのっているだろう。だが、長洲野は平時と変わらず微笑んで、そこにいてくれるのだ。
「まず、〈あやかし〉の異能については、奴自身の強姦事件にも関わっているからね。明確な説明は得られなかったが、発言の断片を繋げれば内容が一通り掴める程度は聞き出せたよ。北瀬が見込んだとおり、やつが契約した〈あやかし〉の異能は、『消すこと』ではなく、『感じなくさせること』のようだ。生物、無生物のほか、認識に関わることまで効果があるらしい。ただ、術者である〈あやかし〉にもその効力は及び、本人も、分からなくまではならないが、ぼんやりとしか判別できなくなるそうだよ。そのうえ、意図的に解除はできず、対象の性質に応じて、時間経過で解けるとのことだ。そのため、生物には短時間しか効果がなく、隠してもおきたいが確認もし続けたいものには、使えなかったらしい」
「なるほどねぇ。だから、倉庫の扉は隠しても、中の遺体はすぐに見える状態だったのか」
「ああ。犯人たちの自宅から押収された犯行の録画も、見えなくなっていなかったのはそのおかげだろう。だからもう、こっちの件で言い逃れはできないはずだ。あと、被害者の少年たちについても、無事・・・・・・であることは分かった。犯行時の記憶を『見えなく』して、放り出していたそうだ」
「生存が確認できたのはよかったが・・・・・・」
「割り出して、記憶が戻ってきた時の対応は、必ずしないとならないね」
無事を言い淀んだ長洲野の晴れない顔に、苦く難しい表情のまま、那世と北瀬が言葉を重ねた。命さえあれば――そう、外野が片付けてはいけない被害だ。それはけっして、いまは見えなくても、消えてはいない。
「そのことについては、班長の方から、もううちの
「女性?」
「え? 男じゃないの?」
同性。しかも〈あやかし〉とういうことは、被害者は犯人にとって自分と同族だ。自己と重なる存在に残虐性を見せる例は、あまりない。ふたりが素っ頓狂な声をあげるのも仕方がなかろう。先ほど変わっていた署内の空気も、その予想外に、慌ただしく捜査方針を変更していたからだったのだ。
「失礼します。使用パソコン台数増やしたいので、こっちの部屋戻ってきました」
視覚に刺激的なピンクパープルのかたまりが、ぎょろんとした目をゆらしながら会議室の扉を通過して、すみやかに所定の席についた。同時に、開いた四台のノートパソコンの画面が、目まぐるしく文字や画像を検索しだす。
「
「洗い出しのし直しだものな」
「はい。そのうえ、対象範囲が広がったので、やや厄介です」
画面を後ろからのぞき込むふたりを振り向かないまま、キーボードをよく分からない勢いで叩き続けて藤間がいう。
「犯人と被害者が女性同士となると、相手を〈あやかし〉と認識できるきっかけが増えます。医療従事者、カウセリング従事者など繊細な個人情報に触れる者はもちろんですが、エステティシャンや下着販売員などは、胸部の痣を目にすることが可能ですから」
「エステはなんとなく分かるけど、下着販売員もなの?」
「フィッテイングっていうのがあるそうだからね。妻が言ってたことがある。きちんと体にあったものか、店員さんにチェックしてもらうらしいよ」
「へぇ、そんなものがあるのか」
知らなかった、と口は感心しながら、北瀬の手と目は、机の上のリストをぱらぱらとめくりだした。
「ただ、そうだとすると・・・・・・」
「これだろ。
同じくリストを確認し直していた那世が、一覧の該当部を指して藤間に渡した。
「藤間、この女性が捜査対象圏内の下着販売員のリストにいるか調べてくれ。こっちの記載住所にまだ居住してるかも含めて頼む」
「すぐやりますけど、この女性は?」
「例の自称アーティスト野郎の熱心なファン。アトリエまで来て、自分のコーディネートした衣服や下着を使用した作品を作ってほしいって、熱烈に頼んでたらしいよ」
「あいつの自慢話も役に立ったな」
「頭くんのは変わんないけどね」
珍しい那世からの軽口に、北瀬は不満げに唇を尖らせる。
「そいつのアトリエは防犯カメラが設置してあって、来訪者があった時間帯の映像は必ず保存されてる。里見署が押収してるから、行ってすぐに見せてもらう」
「その映像と、こっちの防カメ精査班が見てる工場付近の道路映像に、同一女性が映ってたら、令状とれるでしょ」
「ついでに、女性の持参した衣服や下着類も預かってくるか。こちらで使われてたものと、メーカーや嗜好が一致するかもしれない」
がさがさと雑に荷物をまとめて片付け、上着を引っ掴み、放り出してあった車の鍵を北瀬が那世へと放り投げる。
「安全運転でね、ハニー」
「無事故無違反の最速で送ってやるよ、ダーリン」
ふざけながらも真面目な顔で、ふたりは嵐のように会議室を出ていった。
残された那世のエナジードリンクを拝借しながら、長洲野がおかしそうに笑う。
「いっきに動きそうだ。どっちか知らないけど、やっぱりあのふたりは持ってるね」
「おかげで久しぶりに、明日にはちょっと仮眠が出来そうですね」
ぎょろんとアレクサンドリアの飛び出た目玉が、持ち主の代わりに嬉しげに揺れた。
「住所、確認取れました。転居届なし。光熱水費、直近の支払いあり。住んでますね」
「じゃ、僕は南方班長に報告してくるよ。管轄違うから、調整しないとだ」
差し入れの使い回しでごめんねと、藤間の横に野菜ジュースを置いて、長洲野も去る。
中とは違い、静かな夜に浸る署の窓の向こうから、さっそく車が走り出ていった音が聞こえたような気がして、藤間はアレクサンドリアを抱きしめながら、小さく微笑んだ。
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