黄昏時の追走劇(2)


 サイレン音を聞きつけたか、北瀬の疾走を目撃したか――事件を嗅ぎつけた野次馬の一般人の姿も、規制線の向こうにちらほら見えだしていた。喧騒に、畏怖のような嫌悪のような雑音が混じって聞こえてくる。


「おい、なんだよ。あの車」「〈あやかし〉がやったって」「嘘、やっば! 怖っ!」「あの金髪?」「ほんとただの化け物じゃん。人間様に近づかないでほしいわ」


 耳障りなものだと思う。いまだ憚りなく、そういうことを言える風潮が生き残っているのだ。砂利を噛み締めたような不快感が、胸の内からゆるりと燻って、広がっていく。

 〈妖〉と人が交わって、数百年。あまたの嘆きと怒りと命を費やして、近年ようやく、異なりながらも同じ地平を目指す意義が、真っ直ぐに見つめ直されだしてきた。だから、努力はある。確実に前へも進んでいる。けれどまだ依然、〈あやかし〉と人の間の断絶は埋まりきっていないのだ。だが――


「那世。顔がひどい」

 気づけば、彼が歩み寄るより先に近くに来ていた青い瞳が、人が悪く笑っていた。ちらりと野次馬たちの方を、さして興味もなさそうに一瞥する。

「外野は好きに言う。俺は気にしない」

「知ってる」

 知ってはいるが変わらぬ彼に、そっと渦巻いたものがこぼれた吐息に溶けて消えていく。しかしそれはそれとして、と、那世はいつもの調子で淡白に継いだ。


「今回いろいろ言われるのは、少々仕方ないかもな。元をただせば、お前のせいなところが多々ある。班長が始末書だと」

「いや、俺も、こんなにする気はなかったよ? まだ力の使い方に不慣れで」

「お前、俺と組んで何年になるんだ?」

 泳いだ視線に冷たく釘をさす。刑事からも王子からもしてはいけない、不貞腐れた舌打ちの音がした。


「まぁ、いいや。この場合の始末書は、反省の形を定型で見せればいいんだから。今日中にはあげるよ」

「お前、本当に無駄な部分でだけ優秀さを発揮するな」

 呆れも感心も通り越して、もはや那世の声音は無だ。しかし北瀬に、堪えた様は当然ない。


「それよりいまは、気になることがあってさ。始末書分厚くしないためにも、班長に許可とりたいんだよね」

 八房署の署員が引き連れてきてくれた運転手の男を指して、北瀬はいう。

「こいつ臭うんで、ひん剥いていいですか、って」

「言い方」

 那世の眉間に、ぐっと皺が寄った。だが、聞き捨てならない話だ。


「〈あやかし〉か?」

「いや、それは違う。ただ、極めて普通の人間っぽい匂いなんだけど、ちょっと契約者独特の混じりっけがある、ような・・・・・・気がする」

「珍しく曖昧だな」

「だからひん剝くんだよ」


 〈あやかし〉の力――異能と呼ばれるそれは、個々で違う。北瀬は〈あやかし〉の力で、その肉体の能力が強化、向上されているのだ。その力は普通の人間はもちろん、相棒を得て本来の身体能力を持つようになった〈あやかし〉さえ、圧倒的に凌駕できるものだった。強化の範囲は、膂力や脚力、頑強さに加え、視覚や嗅覚など多岐に渡る。


 そして彼は、その異常に高まった嗅覚で、血中の微細な匂いの差を嗅ぎ分け、相手が〈あやかし〉かそうでないかを判じられた。〈あやかし〉と人は、血液の成分にわずかな違いがあるのだ。

 加えて、医療的に問題がない些細さのため、あまり知られてはいないが、実は契約者の血中の成分も、契約と同時にかすかに変わる。それすらも北瀬は嗅ぎ分けられた。


 だが本来なら、たとえ〈あやかし〉であっても、匂いなどで人か〈あやかし〉かの判別などできない。まして、契約者の匂いの違いなど、感じ取れるべくもない。

 だから普通は、〈あやかし〉や契約者を見分けるためには、血の違いを検査で測定するよりも、胸部を確かめる。


 人と〈あやかし〉では、心臓の位置が違う。人は左、〈あやかし〉は右だ。そして〈あやかし〉は、心臓のある右胸に胸紋と呼ばれる痣がある。指紋に類するもので、〈あやかし〉個々で形が違い、重なるものはない。またその胸紋は、〈あやかし〉と契約をすると、同じものが契約した人間の左胸にも現われた。


 今回は、北瀬だけに許された、匂いによる判別がどうも上手くいかないらしかった。しかし引っかかりが消えないので、痣の確認を行いたいというのが意向のようだ。


「いいわよ。身体検査ついでに、確認させてもらいましょう」

 ひょこりと南方がふたりの間に顔をのぞかせた。なにやら話しこんでいるのを見て、来てくれたらしい。


「わぁい。じゃ、さっそく」

 くるりと向き合った北瀬に、歯向かう気力を先ほど根こそぎ奪われきったのか、男は無言で不快げに顔をそむけた。那世の視界の端で、北瀬の口角がまた綺麗に引き上がる。


(不快なのはこっちだよ、とでも言いたげな笑みだな・・・・・・)

 それでもうっかりシャツを引き千切ることはせず、北瀬は殊勝に捜査に許された範囲内の挙動で、男の胸部をあらためた。


「ないな」

「ないわね」

 北瀬の背後からのぞきこむ那世と南方が声を揃える。男の左胸に、契約者を示す胸紋の痣はなかった。しかし、北瀬は難しい顔で眉を顰めた。


「ない・・・・・・けど、あるな。これ」

 訝しむうしろの空気に、なにもうかがえない左胸元を凝視したまま、北瀬は続ける。

「なんて言えばいいかな・・・・・・。いまの俺の五感を総動員して、見えはしないけど、ここにあることが察せられるんだ。消した、ではなく、見えなくしている。おそらく、こいつが契約した〈あやかし〉の持つ異能。存在するものを感じなくさせるんだ。消えてはいないけど、知覚、嗅覚、触覚――あらゆる感覚から遠ざける。だから、ないと認識させられる。おそらく、物体、物質だけじゃないな。ネットの売買ルートが痕跡消えてて、藤間ちゃんをして追えなかったのも、こいつらがサイバー戦略で一枚上手だったからじゃなくて、この力で・・・・・・」

 はたとなにか思い当って、北瀬は顔をあげて振り返った。


「廃工場も、なにも痕跡がなかったって話だったけど、違うかもしれない」

「見えなかっただけ、か」

「塩崎係長に言って、もう一度工場、一緒に再捜査してもらいましょう」


 瞬時に塩崎へ携帯で連絡を入れつつ、捜査の連絡調整のため、足早に南方は乗ってきた車の方へと戻っていく。いまは夕方だが、たぶんこのまま工場へ乗り込むことになるだろう。


「あとはあいつが、どの程度吐いてくれるかだね」

 八房署の刑事に、用は済んだと引っ張っていかれる運転手の男の背を見やりながら、北瀬はこぼした。


「あいつらはふたりとも人間だ。それは間違いない。だから犯行グループには、やつらに加えて最低でも〈あやかし〉がひとりいる。その〈あやかし〉が誰なのか。どういった力関係で、どこまで犯行に関与してるのか・・・・・・。正直、いま確かにできるのは、あいつらが藤間ちゃんを拉致しようとしたってことだけだ。契約者であるってことは、俺の感覚でしか判じられないから、証明できない。もうひとりの〈あやかし〉の存在についても、犯行の詳細や被害者たちの状況についても、しらばっくれようと思えばいくらでもできる」


「だから、証拠を探しに行くんだろう」

 翳りを帯びた線の細い横顔は、憂いの映える造形だ。だが、それは彼には似合わない。

「やつらの家にだって、すぐに捜査が入る。いったい何人が寝食削って這いずり回ってると思ってるんだ。見えなくても見つけ出して、吐かなくても吐かせるだろ」


「まぁ、そうなんだけどさぁ」

 静かに降る声に、北瀬は現場を行き交う疲弊した、けれど力強い捜査員たちを見つめ、相棒を見上げた。ふっと薄い唇に淡い笑みがひかれる。楽しげにその口端から灯る色に、一瞬の愁眉が開かれていく。

「那世の言い方言葉足らずだから、違法捜査みたいに聞こえんだよね」

「人聞きの悪い物言いをするな。行くぞ。そして上着を返せ、寒い」

「え? これ今日いっぱい貸してくれるんじゃないの? 俺にまたあの愉快な鹿を着ろと?」

「着ろよ」


 襟首を引っ張っての苦言に、ずうずうしく北瀬は言い募る。そのままなにやら小競り合いをしつつ、ふたりは車に乗り込んだ。

 薄紫に染まった雲が、西陽のふちで漂っている。東の果ては、もう夜の帳の内。それでも彼らの車は、少ししてからすぐに、次の現場――廃工場へと向かって走り出した。



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