躍動の春


 ◇


 青空に、春が香っていた。


 水岡みなおか県の事件にも片が付き、その足でそのまま九州にまで飛ばされ、そちらの手伝いも終わらせて帰ってきた頃には、東京府の空気はすっかり春めいたものになっていた。

 官舎の敷地内に植えられた桜は、いまが満開の見頃だ。心地よく吹き抜ける風の息吹にのって、薄紅の花びらたちが楽しげに空を泳いでいる。その片端がひらひらと官舎の外廊下にも舞い込んできて、扉を開けた人物を睥睨する那世の視界の前を、鮮やかに踊りながらよぎっていった。


「……お前、実はそのパーカー気にいってるだろ?」

「いや別に出張続きで服がなかっただけだからね?」

 濡れ衣だとばかりに、ぎょろ目の鹿がホップ、ステップ、スプリングしているきつい緑色のパーカーを着た北瀬は強く言い切った。だが、疑惑の服飾センスに冷ややかな目を向ける那世の表情は胡乱げだ。


「まあ、いい。それより、ちょうどよく顔を合わせたよしみだ。付き合え」

「いいんだけどさ、インターフォン押して玄関に呼び出した相手について、その呼びかけはどう考えてもおかしくない?」

「お前も正論が言えるんだな」

「人をなんだと思ってるのかな? この相棒は」

 表情筋ひとつ動かす手間すら惜しんで、平然と言って捨てるバディに、にこりと北瀬は片手に持っていた空のペットボトルを握りつぶした。どうやら走り込みから帰ったばかりだったらしい。久しぶりの休みだというのに、相変わらず態度に似合わず真面目なことだ。


「で、どこに付き合うの?」

歐明堂おうめいどう

 飛び出たのは、那世が贔屓にしている老舗高級洋菓子店の名だった。


「平日限定のアフタヌーンティーの予約に運よく空きが出来て、当日に滑りこめた。が、二名からしか予約不可だったんでな。あいにく宮前みやまえは仕事だ。身体を貸せ」

「やだ、身体目当てが潔すぎる」

「そうだな。別に一緒に食べる必要はない。俺が片付ける。わきに人体がひとつあればいい」

 しなを作って身を抱いた苛立ちを誘う北瀬の仕草にも、口角を引き上げ那世は返す。いつものように寄らない柳眉に、こいつは相当機嫌がいいぞ、と、浮かれた相棒に逆に北瀬はげんなり顔を作った。


「言い方。ガワだけじゃなく、もっと生命力も求めてほしい。あとどうせ行くなら俺も食べるからね?」

「要求の有無に関わらず、お前のその騒がしい生命力はオプションで押しつけられてくる類のものだろ。そんなことより、すぐにもう少しましな服を着てこい。ないとは言っても、多少は残ってるだろ」

「人の生気を余計なおまけ扱いしないでほしい。ていうか、まだ午前だけど?」

「予約は十時だ」

「アフタヌーンじゃなくない?」

「いいから、二十秒でしたくしろ」

「悪党だって倍は時間を寄越すよ!」


 悪態とともに舌打ちしながらも、北瀬は部屋の奥へと駆け戻っていった。歐明堂の喫茶室は、その価格帯に相応しく落ち着いた品の高い設えとなっている。さすがの北瀬も、ふざけたパーカーとジャージのランニングスタイルでは踏み込めるものではない。


 人を急かしておきながら、那世は開いたままのドアの脇にもたれて、のんびりと待ちの姿勢を決め込んだ。風とともに跳ねる春の匂いに、自然と視線は空を臨む。

 澄み渡る青に、眩く桜が舞い散って――いつかのはじまりの日を思い出させた。


 あの日の出会いで手にしたものを、もし名づけることになったなら、それは人によっては運命と呼ぶのかもしれない。だがその言葉は絶対的で力強いが、那世にとってはどこか簡便だ。

(そうだな……もっとずっと――)

 例える言葉が見当たらない。運命だというのなら、それはそれで構わないのだが、北瀬はそこには収まらないのだろう。那世の相棒はどう控えめに見ても、望むもののためなら、いかなるさだめも跳ね除けて、無謀に手を伸ばそうとする輩だ。


 だから、その彼に隣をと願われるには――

(運命ですら、まだ足りない)

 那世は淡く口端を引き上げた。

 凍てつく冬の底へ、隣がいいと訪った騒がしい春の香り。あの爆ぜるように寂寞を踏み壊す匂いを、隣でずっとと望むなら――


 廊下を駆ける足音と同時に、背後に軽く膝蹴りが入った。

「三十秒は切ったね!」

 無難な無地のシャツに、ひっかけたジャケット。それに片手を通しながら、もう片方でベルトを止めつつ、いままさに靴に足を突っ込んで、北瀬は負けん気強く唇を引き上げた。整いきったとはいえない有様だが、完成していないとも言い難い。


「……提示は二十秒だ」

「そこはおまけしてといてよ!」

 得意げに振りかざされた無駄な努力に、冷淡なジャッジを下して、すたすたと那世が歩き出す。その背に噛みつきながら手早く鍵を閉めて、北瀬は容赦のない相棒を追った。


「俺、お腹減ってるんだよね。アフタヌーンティーっていうなら、なんか肉的なものもあるんでしょ?」

「ローストビーフのなにかと、海老がなんたらかんたらしているのがあった気がするな……」

「甘味以外への興味が薄すぎでは?」

 雑な返答に呆れた声音で返す金糸の髪を、薄紅色の風が華やかに煌かせていく。


「まあ、でもそれなら、俺がもらってしまっても構わないということで……」

 悪い笑みに形のいい唇が緩まった。放っておけば許可を得たとばかりに、我が物顔で人のたんぱく質に手を伸ばしてきかねないだろう。

「その論理で行くと、お前の甘味はすべて俺のものになるな」

「待って、俺の損益のマイナスがでかすぎるんだけど」

「なら大人しく己が持ち分を食べておけ」


「ちょっとはさぁ、付き合ってやる相棒に感謝をこめて譲ってやろうって気はおきないの?」

「お前、俺と組んでどれだけになるんだ?」

「そんなこと、こちとら分かっててせびってるんだよ。那世こそ俺と組んでどれだけになんの? 肉を寄越せ」

 小突いてくるというにはいささか暴力的な拳の戯れを、那世はおざなりに受け止める。踊る花べんを空へと跳ね上げて、清々しく爽やかな風が、ひときわ力強く吹き過ぎていった。


 その激しさの中に、慣れ親しんだただひとつの匂いが、誇らかに香る。

 空気に、空に、傍らに――騒がしいほど、春が満ちていた。


「……お前は本当に――」

 深いため息をついて、いつものように、那世は苦情を申し立てる。

「騒々しい奴だな、北瀬」


 澄み渡る青空に、躍動の香が、鮮やかに匂いたっていた。








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