48 締結
契約書にサインをすると急に大人になったように感じる。高校生ではスマホの契約ひとつとっても親と一緒じゃないといけない。
「これで契約締結です。よろしくお願いします」
cool vision との正式な契約のため、ふたりで再度本社を訪れていた。
目の前にあるのは、大企業の法務部が作成した難しい日本語で書かれた正式な契約書である。
meridian のような法務のない事務所の場合外部の弁護士に頼んで作成してもらうことが多いが、美波との契約は、お金がなかったのでA4の用紙に手書きで作った簡易の契約書になっている。これは英美里と美波だから通用する話なので、この契約のお金が入ったら一度破棄して作り直したほうがいいだろうか。いや、期間が短めに設定してあるので次の更新で良いか?
そういえば、リオネル・メッシがバルセロナと初めて契約したときは紙ナプキンの上に書いた手書きの契約書だったらしいが、あれも後で作り直したのだろうか。
「さすがに緊張しますね。大きな話なので」
英美里はサインをするとき少し手が震えた。
「これからたくさん経験しますから、すぐに慣れますよ」
「滞りなく1年が過ぎれば良いのですが」
サインをしたので契約金は手に入る。が、期間内はきちんと仕事をこなさなければいけない。
仕事をこなす。言葉にすれば単純だが今はすごく難しいことのように感じる。なにせ初めての事なので不安もある。
「あまり気負わなくていいですよ。うちの上司も欧州の本社も若者のチャレンジを好意的に見ていますので、少しの失敗くらいは問題になりませんよ」
「そうでしょうか」
「ええ。高校生起業家の小さなミスくらい笑って許す度量こそが大企業というものです」
器の小さな会社だと思われれば評判にも影響するが、大人相手なら遠慮はいらない。成人年齢が引き下げられたので、大人になるまであと1年ちょっと。やはり早めに会社を作ったのは正解だったかもしれない。
「うちとの契約以外でも、なにか相談事があったら連絡してください」
「ええ。困ったときには助けてもらいます」
鈴木の言葉に嘘はないだろう。多分色々と困ったことがあれば助けてくれるだろう。
だが、余裕のあるときに恩を貸しつけておいて、困ったときにまとめて回収するのが仕事の基本だ。甘えすぎると深みにハマって抜け出せなくなってしまう。出来ることは自分でやる。忘れてはならない。
「それと、前回お話したマウスですがさっそくサンプルが帰ってきました」
「早いですね」
「FPSにも女性プレイヤーが増えましたので、上も発売を急ぎたいんですよ」
そういってひとつのマウスを机に置く。
「ほぼ完成品だと思ってもらって構いません」
前回と同じような小さめのマウスだ。小指の当たるところの角度が少し変わっていて、更に親指側の再度ボタンが小さくなっている。
そして何より色が違う。夜をイメージしたミッドナイトブルーに、月のように淡く輝くcool vision のロゴ。
「ミナズキモデル、オリジナルカラーです」
通常は黒と白の2色展開だが、ミナズキが使いやすいように細かい点を修正し、更にオリジナルカラーに変更したのがミナズキモデルだ。野球道具なんかでも○○選手モデル!という商品があるのだが、そのゲーミングマウスバージョンになる。ちなみに、ミッドナイトブルーを採用した理由は、単純に美波の好きな色だからだ。
マウス自体は少し値段が上がるが、そのぶんロイヤリティが入るので、売れれば売れるほど通常の契約金とは別にお金が入ってくる。
「どうでしょう?」
美波はさっそくマウスパッドの上で滑らせている。
「はい。いいと思います」
「ありがとうございます。ではその仕様で進めていきますね」
「宜しくお願いします」
「えーっと、このあとのスケジュールなんですが。4月2日に契約の発表をして、ミナズキモデルのマウスもそこで発表、同日予約を受付を開始します。発売は6月を予定していますが、ミナズキさんには4月の段階でお渡ししますので、すぐに使ってください」
本人は覚えていないだろうから、英美里がきちんとスケジュール帳へ書き込んでいく。2回目の案件収録に契約の発表。その他打ち合わせetc……。予定が埋まると安心する。仕事が順調に進んでいるからだ。
◇◆◇◆◇
帰宅後。メールをチェックしていると、件名に「出演依頼」が含まれているメールが目に入った。ストリーマー向けのオンラインイベントか何かだろうか。
「……ラジオ?」
有名タレントばかりが出演している大手ラジオ局からだ。その中の番組に若者の活躍を応援するコーナーがあるらしく、最近Chu Tube で伸びているミナズキに是非出てもらえないかという内容だ。
「佐月双葉の全開ラジオ」
聞いたことがあるようなないような名前だ。検索をしてみる。
「うわ……」
佐月双葉。19歳。東京ガールズNo.19 のメンバー。グループ1番の元気印。中高とバスケ部に所属し、運動神経に優れる。
あそこのグループか……。向こうも人数が多いし、こっちもフォロワーが増えてきたし、こういう依頼自体はあっておかしくない。しかし、中学時代に美波を虐めていた片山瑠美衣がいるグループだ。キャスティングに作為的なものはないだろうか。それともただの偶然か……?
添付されていた企画書を読む限り、パーソナリティは佐月双葉ひとりらしくゲストもミナズキだけだ。片山瑠美衣と鉢合わせになる可能性は低いが、なるべくこことは関わりたくない。
「うーん……やっぱり断っておくかなぁ」
少し悩んだが、スケジュールが空いていないという、それっぽい理由をつけて断りの返事を書くことにした。
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