45 営業の鈴木さん②

 ファイルの中身は契約書の草案だった。

 普段の配信でcool vision のデバイスを使用すること。配信の画面上にロゴを表示させること。ざっくり言うとこのふたつだ。他には期間や金額、禁止事項、提供されるデバイスについての規定etc…。

 といったことがA4の用紙数ページにわたって書かれている。


 4月からの1年契約で、これだけで美波の母親の年収よりも多い金額だ。いや、一般的な正社員よりも多いだろう。これでチャンネル登録者が100万人を超えたらどうなるのだろうか……。


「基本的には他の選手や配信者の方と大筋では大差はありません」


 一通り読み終えたタイミングで鈴木が声を掛けてくる。


「そうですね。概ね予想していたような内容でした」

「あまりに我々に優位な内容だとライバルメーカーに契約を持っていかれますからね。逆だと上司の了解が得られませんので、必然的に程よく対等なものになっているはずです」


 確かに。一方的な内容だったとしても契約した以上はこちらの責任だが、それが表沙汰になったときにcool vision が負うマイナスイメージを考えると、普通なら危ない橋は渡らない。

 もちろん内容は目を通すが、不必要に疑っても意味がない。どのみち今日即決はしないので、家でゆっくり見させてもう。


「それと、これは必ず説明しなければならないことなのですが、我々がいま最も気をつけていただきたいことは、やはり不祥事関連ですね。要するに炎上事案です」


 古今東西、有名人に炎上はつきものだ。SNSが発達する前から何度も繰り返されている芸能記者の飯の種。ラジオの発言や異性問題、薬物疑惑、タレント同士の不仲。その昔、不倫は文化だと言い放った俳優もいたとかなんとか。

 SNSが発達した近年では、インフルエンサーが不祥事で謝罪することも増えてきた。


「法に反することは当然アウトですが、それ以外だと、特に差別的な言動には気をつけてください。人種や国籍、民族、性別、容姿、色々です。それと権利侵害やモラルに反することもです」


 昔なら流されていた発言でも、今なら許されないことも多い。


「今までのミナズキさんの配信を見る限り大丈夫そうですが、例えば過激な発言が一回ウケたからといって、それを繰り返してしまうのは危険です」


 前にテレビで見たが、下ネタは芸が腐ると言った大御所芸人がいるらしい。ウケた下ネタに頼りすぎて、他の芸で笑いが取れなくなってしまうということだ。

 同様に、過激なことに頼りすぎると、普通にしていたらリスナーが減ってしまうと思い込んでしまう。やがて引くに引けなくなり、どこかのタイミングでラインを一歩踏み越えてしまい、信用とリスナーを吹き飛ばしてしまう。

 手軽にウケると思えても、手を出さないほうが良い領域がある。


 なによりそういうのは美波のキャラではない。


「そうですね。そこは常に注意したいところです」

「はい。我々も今までの配信を見た上で大丈夫だと判断していますから、問題ないとは思いますが、念の為」


 これで話は終わりと一息あけた後、次の話題へと移る。


「さて、次に例のモノですが、サンプルが上がってきました」


 机の上に小さな箱が出され、中から小さなマウスが出てきた。


「ミナズキさんが配信を始めてから、うちでは小さめのマウスの開発を始めていました」


 ゲーミングマウスは色々あれど、Sサイズのマウスはあまりない。特に各メーカーがメインとして売り出している上位モデルは、美波の手からすると大きかった。そのせいで美波は単価の低いモデルを使用しているのだが、これから広告塔として宣伝してもらうのだから、高いデバイスを宣伝してほしいと思うのがメーカー側の思惑だ。

 しかし大きいマウスを無理に使わせるわけにもいかない。

 ならば新商品を発売してそれを宣伝してもらえばいいのだ。


「ゲーミングマウス最上位モデル Masterpiece のSサイズです」


 数あるゲーミングマウスの中でも最上位のモデル。遅延のない無線技術、使いやすい5ボタン、人間工学に基づいた形状、徹底した素材選定による軽量化、そして耐久性。すべてをこだわり抜いた結果、2万円を超える値段がついているが、パフォーマンスを求めるゲーマーにバカ売れのベストセラーとなっている。

 しかし、今まではやや大きめのサイズしかなかったために美波は使用していない。


「今回、ミナズキさんの起用に合わせて売り出す商品になります。今では一般の方も配信の方も女性FPSプレイヤーが増加しています。そこの需要をこの商品で一気に取り込もうと考えております」


 ロゴの無い試作品だ。隣に並べられた現行モデルと比較すると確かに一回り小さく、美波の小さな手に程よく収まっているように見える。


「どう?大きすぎない?」

「……大丈夫」

「どうでしょう。細かい形状や材質など気になる点はありませんか?たとえばサイドボタンの位置とか、滑り止めの材質とか」


 美波は何度かマウスパッドの上で滑らせている。


「悪くない……かな」

「それをこれから配信でずっと使うとして問題ない?」

「んー…………小指」

「小指?」

「もう少し、こう……まっすぐ」


 縦にチョップするようなジェスチャーをする。


「右側のこの部分をもう少し垂直にってこと?」

「そう、それ」

「わかりました。既製のマウスを全部持ってくるので、1番イメージに近いものがあるか見てもらえますか?」


 そういって鈴木が大量のマウスを持ってきた。みかん箱くらいのプラスチックのケースに無数のマウスが収まっている。

 美波は「全部チェックするの?」という顔をしている。

 これも良いものを作るためのことだ。頑張ってもらおう。

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