第42話 勇者ってのは意地張るもんでしょう。



 

 あはは。ほんと、動けねえや。


 視線の高さが逆転し、こちらを見下ろす男は、笑った。

 もちろん、友好的なものなんかじゃない。狂犬みたいに犬歯をいた、暴力に満ちた笑み。


 そうして一心に、こちらとの距離を詰めてくる。


 潰れた鼻が、男の様相を一層狂暴に見せていた。乱暴にぬぐわれた血が尾を引いてべっとりとついた顔に浮かぶ表情は、飢えた獣そのもの。


 こいつ、完全に俺を殺す気だ。


 危機的状況のなかで、周囲の音や空気の感触、におい、それに色までもが消えていた。その代わりなのか、なぜだか動体視力と思考は冴えていた。

 

 男の鬼気迫る複雑な表情がありありと網膜に映し出され、その一挙手一等足も余さず追えていた。どのような行動を取るべきかも、充分以上に把握していた。


 しかし、身体はぴくりとも動かない。自身の身体を制御することができないことにおののいた。

 情けないことに、全身が腑抜けてしまっていた。


 これほどまでに強い感情を向けられたことがなかった。これまで生きてきて、殺すという意志を、ここまで明確に叩きつけらたことはない。


 長く引き延ばされる時間のなか、何の役にも立たないことばかりが浮かぶ。

 それでも、いやに研ぎ澄まされた視覚は、男の切っ先がこちらの心臓に届く間際であることを正しく認識していた。


 恐怖にい留められ、動けない。だから、このままじゃ――死ぬ。


 その瞬間、ようやく動く。咄嗟とっさに身をよじり、切っ先をぎりぎりで回避――




 

 「ぁぁああああぁぁぁああああっ!」





 ――左肘が、失くなっていた。


 無我夢中で男を突き飛ばし、適当にスキルを発動。感覚が戻り、世界に色が塗られていく。次いで、生ぬるい風の音、それが頬を撫でる感触、血の匂い。全身を焼き刺すような熱く鋭い痛みが走る。


 男は、〔到らずの空壁〕によって前方に飛ばされていた。

 しかし即座に立ち上がり、その顔に明らかな殺意をにじませ、再び向かってくる。


 「お前はいらねえんだよ! さっさと死ねぇぇええええ!」

 口に出されていないはずの叫びが現実のものとしてはっきりと聞こえた。


 痛みのあまり、涙が溢れる。視界に映る男の姿は滲んでいた。

 それでも、こちらにせまってきていることだけは把握できてしまっている。


 防衛本能が最大限の警鐘けいしょうを鳴らす。それに身をゆだね、手のひらを向けた。


 ――殺せ。このままじゃ死ぬぞ。だから殺せ。死にたくないなら殺せ。ここで死にたくないなら殺せ。痛いのが嫌なら殺せ。殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ。俺が、殺すんだ。


 もうどうにでもなれ!


 

 

 ――プシュッ。


 

 発動したのは、〔粛出通水サイレンター〕。


 破れかぶれで放った地味なスキルは、たまたま、男の心臓があるであろう位置を正確に穿うがった。


 向かいくる男の足から突然力が抜け、膝が落ちる。痛々しく血の塊を吐き出し、緩む左手から短剣が滑り落ちる。むなしい音はコンクリートに吸い込まれる。

 惰性だせいで、前に飛び込むようにくずおれた。


 殺気から一転、「なぜ?」と問うような男の表情が、記憶にこびり付くようだった。


 死の脅威をあっさりと排除した。いともあっけなく。


 「はあはあはあはあはあ」


 胸が五月蠅うるさいほどに鼓動している。鼓膜に直接響いてくるようだ。動いていないというのに息も絶え絶えになり、必死に酸素を求めていた。


 飛び出してきそうな心臓をなんとかなだめると、美幼女のことを思い出した。


 いまだ腑抜ける脚を叱咤しったし、四つん這いを経て、震えながらも立ち上がる。


 なんとも情けない。世界最弱の立ち姿に違いない。


 ほんの少し、自嘲じみた笑みが漏れる。冗談を考え付くだけの思慮があることに安堵あんどした。


 転がる男の短剣を拾い、美幼女の元へ。


 「縄を解きますね」


 その声はまるで自分のものではないかのようにか細く、引きっていた。

 そのことに動揺しながらも、むしろをぐるぐる巻きにしている縄を慎重に切っていく。

 

 どうやら手首もしっかりと縛られていたようで、解いてみると、鬱血うっけつし、わずかに紫がかっていた。

 

 同様に足首の縄と口縄も解く。


 美幼女が動転していないか不安であったが、そのような様子は一切なく、平常そのもの。手を貸そうと思っていたが、その前にひょいと自らで荷台を降りた。   


 強い子だ。

 

 自身の弱さに嘆く以上に、安心していた。美幼女が混乱を起こしていたら、正直どう対処すればよいか分からなかった。


 何となく、辺りを見回す。

 網の中で気絶する四人と、その傍らで気絶する一人、死んだ一人。馬は興奮しているようであった。

 

 ついさっきまで旅館で寝ころんでいたことを思うと、今この状況が不思議でならない。


 ふと、右腕にかかる重みを感じ、目を向ける。

 

 美幼女が、右腕のシャツの裾を掴んでいた。


 「たすけてくれて、ありがとう」


 「どうしました?」と問う前に、耳に届くか届かないかというような小さな声で、美幼女はぽつりと呟いた。


 深呼吸して気を落ち着け、「はい」と答える。


 すると、美幼女は急にしゃくり上げ始め、痛いほどにしがみついてきた。


 「こわかったっ。ありがとっ、ありがとっ」


 ひっくっひっくと時折嗚咽おえつを交えながら、顔をぐしゃぐしゃに泣きらしながら、何度も何度もお礼を言われる。


 ありがとっ、ありがとっ。そう何度も。


 困惑してしまったが、その言葉を聞いて、どこか救われた気がした。ほんの少しだけ、心に余裕が生まれるのを感じる。


 それにしても、本来の君を忘れてはいないかい? そう思わずにはいられない。


 亜麻色の髪を汗やら涙やらで頬にべったりと張り付け、どこかほっとした様子の美幼女。


 いやまあ、嬉しいんだけどね……。

 これが、ギャップ萌えの極地。やっぱロニーよりも女の子の方がいいな。ああ、美幼女の将来が末恐ろしい。


 急に、頭をぽんぽんしたい衝動に駆られた。不敬かもしれないけど、ここには見とがめる奴なんて誰もいない。

 この状況なら、美幼女も許してくれるだろう。弱さにつけ込むようで悪いけど。


 しかしそこで、ぽんぽんするための左手がないことを再認識。


 ああ、そうか……。

 非情に悔やまれる。ぽんぽんできないだなんて。


 興奮しているからか、今は痛みを感じない。が、血を流し続けるのは良くないだろう。

 

 美幼女の手を優しく引きがし、適当な服を引き裂いて断面にあてがう。 

 その際、美幼女がこちらを心配そうに眺めていた。


 まあかなり不格好な形ではあるが、縛ることはできた。


 さて、と。短く息を吐き出す。

 

 美幼女も落ち着いてきたことだし、そろそろ動いた方がいいだろう。ここに長居する意味もない。


 美幼女は、こんなの屁でもない、と証明して見せるかのように、すでに涙を止めていた。やはり、どの世界でも女性はしたたかなものなのだろうか。


 けれど、前を向いたその目は確かに赤く腫れている。それが美幼女の恐怖を物語っていた。そりゃあ、怖くなかったわけないよな。


 男の死体を見て、美幼女の分泌液でしっとりぐちゃぐちゃになったシャツを見る。


 たぶん、自分は自分にとって正しいことをできたはずだ。

 心に沈められた重い罪悪感を認めてはいたものの、とりあえず片隅に置いておくことにした。


 今は、美幼女と共に立っていることを喜ぶべきだ。


 「……うで、へいき…………?」


 美幼女はまた溢れ出してきそうな涙を一杯にため、それをこらえるようにしてこちらを窺うように上目遣いを向けてくる。


 「はい。さっきの、見ていたでしょう? これでも、私は案外強いんですよ。だから大丈夫です」


 美幼女に心配されちゃったら、意地張るしかないではないか。というか、こんなの意地張ってなきゃやってられん。


 返答を聞いた美幼女は右腕でぐしぐしと目元を拭った。


 「……ありがと」


 指先で摘まむように、服の裾がまたも控えめに握られる。


 「はい」


 一度馬たちを見る。

 精神的に不安定な状態なのだろう。まともに走ってくれるようには思えない。加えて、腕一本で操る技量はない。ただでさえ美幼女がいるのだから、無理は押し通せない。


 「ちょっと遠いですが、歩くのは大丈夫そうですか?」


 「……だいじょうぶ」


 こちらの裾を掴む、小さく柔らかな左手を取る。


 「それじゃあ、帰りましょうか」


 「……うん」


 こくりと確かに頷くのを見て、美幼女と二人、帰路についた。





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