第5話 くっ、こいつは…………。滅べッ!

 

 気合十分、逃走再開。即座に心拍数が跳ね上がる。


 逃げる側は緊張するね。でも、これがランナーズハイというやつだろうか。息は上がっているのに、身体は苦しくない。むしろ、気持ちいいぐらいだ。


 走りながら、気がついた。

 木々の間隔が広がり、先ほどよりも視界が開けている。逃げるに際して、これは自分にとって良いことなのかどうなのか。良いことのはずだ。森っぽさが減って文明に近づいている。依然森であることに変わりないのだけど……。


 「はぁはぁはぁはぁ」


 走り始めてニ十分は経っただろうか。体感的にはそのくらい。でも、実際は大して走っていないのかもしれない。


 つらい。

 でも、必死になればなんとかやれるもんだ。運動不足メタボだというのにここまで走れるなんて。


 ゴブリン(仮)との距離はどのくらいだろう? まだ余裕はあるだろうか? 大丈夫そうだろうか?


 確認したい衝動に駆られる。が、ダメだ。ぎゃあぎゃあ甲高い声が聞こえることから、まだ追いかけてきていることは明白。距離も明らかに縮められている。ここで失速したら終わりだ。


 「はぁはぁはぁはぁはぁ」


 それにしても、ゴブリン(仮)は体躯たいくの割にかなり健脚のようだ。いや、マラソンに身長は関係なかったんだったか。これはひとえにBMIの違いだろうか。

 くっ。


 少々見込みが甘かったかもしれない。こっちは、さすがにそろそろ限界だ。もう腕も上がらない。頭が落ちてくる。息を吸ってんだか吐いてんだかも分からない。


 いったんここでブレークタイムの提案をしたい。いま流行はやりのコーヒーナップをしたい。そうすれば幾分、そちらも楽しめると思うんだ。鬼ごっこがすぐ終わっちゃあ味気ないもんな。そうだよな?


 「はぁはぁはぁはぁは、ぁはぁ」


 ま、そんな提案受けられっこないか。

 頭に響く耳障りな声がすぐ後ろまで迫っていた。


 このままじゃ、追いつかれる。


 棍棒で袋叩きにあう未来を視た直後、背後に強烈な気配がし、ゴブリン(仮)のくぐもったひしゃげた声が聞こえた。


 ――反射で振り向くと、そこには巨大な四足獣。

 

 ひき殺されたように、四体のゴブリン(仮)が散らばっていた。

 木に叩きつけられぴくりとも動かないのが一体。地に這いつくばり呻(《うめ》)くのが一体。頭蓋が潰れ即死しているのが一体。怪物の足元を見れば、腹を踏み潰され、中身を吐き出しているのが一体。


 そいつの外見は、サイに似ていた。

 

 動物園でサイを見たときは想像以上の大きさに驚愕したものだが、その比ではない。ダンプカーほどもある巨躯。頭から生える、ぬらりと赤く汚れた一本角が印象的だ。

 腹の底から、怖気がせり上がってきた。


 怪物は緩慢な動作で足をどけると、踏み潰したゴブリンへ顔を近づけ、それを咀嚼そしゃくし始めた。

 骨をすり潰す、重いような軽いような、わけの分からない音がこちらまで聞こえてくる。


 思わず、息を呑んだ。


 ぼろ雑巾のようになったゴブリン(仮)が口の中に消えていく。怪物の表情から特別な感情を読み取ることはできない。淡々といつもの出来事をなぞるように口を動かすだけだ。事実、いつもの事なのだろう。いやに悠々とした振る舞いだ。


 踏み潰されたゴブリンは平らげられ、血だまりが残る。怪物は、木の下に倒れるひしゃげたゴブリンの元へゆったりと足を進める。そうして再び、咀嚼。


 はっと我に返り、いまさら足を止めていたことに気がついた。呼吸も忘れていたようだ。血生臭さの混じり始めた空気を急いで取り込む。


 圧倒的な自然の営みに、魅せられていた。……いや、強者の行動に、立ちすくんでいただけだ。


 怪物はこちらを気にしているようには見えない。もしかしたら、自分を助けてくれたのかも知れない。


 そうだ。なら、安心だ。敵じゃあないんだ。






 

 ――んなわけないだろ。


 今止まっていては、確実に死ぬ。あいつに食われ、死ぬんだ。


 希望的観測を捨て去ると、今までにない確信めいた未来を予期し、その光景がまざまざと脳を侵す。自身の身体がすり潰され、掻き回される光景。

 嘔吐感を押し殺し、これ以上考える前に両腕を振った。懸命に足を前に運んだ。


 危機から脱するために、一刻も早くここから離れなければ!



*****



 距離は大分離せたと思う……が、これでは足りなかったらしい…………。


 隠しようもない怪物の足音が聞こえてきた。まだ姿は確認できない。距離はあるはずだ。でも、それは怪物にとって取るに足らない距離なのだろう。


 にしても、もうゴブリン(仮)四体を平らげてしまったのか……。大食漢の上、早食いでもあるらしい。

 窒息死すればいいのに。


 ……はぁ。願望したって、危機は去ってくれないよな…………。


 このまま逃げるのはナンセンス。どうせ捕まる、食われる、ジ・エンド。そも、狙われているのが自分である確証はないわけだが、それにすがって、気づけば殺されてましたなんて御免だ。


 ここぞという時のために使用せずにいた、現状唯一、起死回生となり得るスキル。

 使うなら、今しかない。


 立ち止まって振り返り、怪物を迎え撃つよう仁王立ち。石板を呼び出す。


 タッチと同時、右手を斜め上方に突き出す。息を吸い込み、自身を奮い立たせるように、高らかにえた。


 「第六階梯! 燦華零雷さんかれいらい!」


 遠い前方の上空に魔法陣が出現。静かな雷を想わせる、高貴な魔法陣。一つに見えるそれは三つに分離し、等間隔に縦に並んだ。一番上の魔法陣からプラズマボールのようなエネルギー体が姿を見せる。蒼白く輝き、ばちばちと絶え間なく放電する球体。


 重力を無視するように、プラズマボールはゆるゆると落下していく。一つ二つと魔法陣を通過する度に、一段とエネルギーが増大した。それでもなお、もどかしくなるほど緩慢とした速度でプラズマボールは落下を続ける。そうして、木々の中に隠れ、見えなくなった。


 問題ない。自分の創造した通りに起動しているはずだ。


 プラズマボールは周囲の木々を照らしながら、そのままゆるゆると降下していき――



 その最中、足音の主が姿を現した。百メートルほど前方。その巨体をものともせず、木々をうように進む。重い足音に比し、随分と軽い身のこなし。

 その表情はやはり淡々としている。怒っているわけではないように見える。それが日常だからなのだろう。それが強者としての自然な在り方なのだろう。まあ、怪物がどんな想いを抱えていようが、被捕食者には知ったこっちゃない。

 さっさと死んでくれ。それだけだ。


 やっぱ、怖いな。


 四肢末端の震えが全身に伝わり、情けなくもへなへなと尻餅をついてしまった。なんというか、3Dみたいだ。おかしな表現だけど。

 距離はまだあるはずなのに、まるで怪物の顔が目の前にあるかのような臨場感。脅威が、間近にある。否が応でも実感させられる。


 そうこうするうちに、怪物との距離は半分にまで詰まっていた。怪物の俊足をもってすれば、あってないような距離。


 でも、大丈夫。自分の生み出したスキルを信じろ。


 そして、怪物の後方。微かに、蒼い輝きが見えた。胸の高鳴りを感じる。スキルの可能性に心を躍らせる。




 ――着地と同時、水面に石が投げ入れられたが如く、急速に同心円状に広がる。激しく、けれど確実に、華は開花する。


 その速度は、まさに迅雷。瞬く間に怪物をも射程圏に入れた。


 直後、蒼白く輝く華はより一層激しさを増し、牙をいた。地を揺らす轟雷が、怪物を絡めとる。怪物は大きく口を開け何事かを発したかのように見えたが、雷鳴に続く木の破砕音や火災音、華のなす惨状に断末魔は掻き消された。


 ごうごうと燃え盛る大木が不吉な音とともに倒れ、怪物を下敷きにする。怪物もまた炎に包まれ、たきぎとなった。大地は赤く熱を帯び、煙が空へ吸い込まれてゆく。


 そうして視界が晴れ目に映るのは、






 


 蒼い華が咲いた地。

 スキル範囲――半径五百三十四メートル――の森が死んでいた。


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