後悔の海を泳ぐ

「どうも、速達です」

「あ、ご苦労様です…」

 覚えのない速達に少し疑問を感じながら、受け取りサインを済ませて配達員を見送る。

 誰が速達なんか…と封筒を裏返して、


 息が止まった。


 そこには、今一番見たくない名前。忘れていたかったはずの名前。

 そう、忘れていたかった。こんな風に、胸が切なくて苦しくて、何故だか泣きたくなる、そんな名前なんか。

「なりー?」

 リビングのソファで、和樹の呑気な声があがった。そんな声も耳に入らないくらい私の心臓はうるさく音をたてて脈動していて、耳まで心臓になったようにドクドク、ドクドクと鳴り響いていた。

 封筒の表に、少しひょろりとした「楠田 為 様」の文字。

 そして裏側には、同じくひょろっとした字で小さく、「若杉 教斗」と書いてあった。

 教斗、みちと、ミチト、教斗教斗教斗教…

 頭の中を、まるでその文字が一斉に駆け回るみたいに占拠する。

 なんで?どうして教斗が私に手紙を?

 読んではいけないような、読みたいような、だけどそんな勇気は出ないような、矛盾で頭がおかしくなりそうだ。

 気付けば私の手は、封筒の上の端を少しずつちぎり始めている。

 ――読むの?読んでいいの?

 混乱のせいか、私の頬はいつの間にか涙で濡れていた。視界が滲んで、ひょろっとした文字が歪んで見える。まるで幻想のように。

 それなのに、指先に感じる紙の感触はやけにリアルで、その不思議な狭間が余計に私を混乱させた。

「為?どした?」

 その時、待ちくたびれたのか異変を感じたのか、リビングに続くドアがかちゃりと開いて、和樹が顔を出した。

 泣いた私と、目が合う。

「な、為…」

 一瞬うろたえて視線をふらつかせた和樹は、私が今にも封を開けようとしている封筒で視線を止めた。

 しばらく沈黙が続く。

「誰から?」

 静かに発せられた言葉は、まるで全てを悟ったかのように聞こえて、私は思わず泣きわめいてしまいたくなった。

 そんなはずないのに。そうであって欲しくないのに。

「…誰から?」

 もう一度ゆっくり問う和樹に、私はもう嘘なんか吐けなかった。

「…み、ち…と」

 言い終わるのを聞き終えるか否かの瞬間で、和樹の表情が苦しく歪むのが判った。

 判ったから、私の涙腺は崩壊した。

「ち、がうの、かずき…あた、あたしは…」

 壊れたラジオみたいに、聞き取りにくい言葉を発するしか出来ない。

 そんな私に、和樹は大股1歩で詰め寄り、歪んだ視界の中でキスをした。今までで一番、強引なキスだった。

 唇が押し潰されるくらいの力でくっつく和樹と私の、一体どちらの熱が高かったのだろう。

 熱くて熱くて、涙が止まらない。

「っ待ってかず、」

 何を待って欲しいのか判りもしないのに、唇が解放される隙間を縫ってはそんな言葉が勝手に漏れる。

 待ってと言っても待ってくれない和樹は、その浴びせるようなキスの嵐に紛れて、私の手から封筒をもぎ取った。そしてそのままぐしゃぐしゃに丸めるみたいな音が下の方で聞こえた。

「や、かずきっ!」

 押し離した私の両手の先で、ひどく高鳴る彼の心臓の感覚があった。

 和樹の心臓が、泣いている。

 そんな気がして彼の顔を見ると、憤ったようななじられたような、哀しい哀しい表情をしていた。

 あぁ、傷付けたんだ、頭の何処か遠くの方で、そう感じた。

「…好きだ」

 泣きそうに言われて、胸が痛む。

「…私も」

「嘘」

「…好き」

「違う、」

 違ってなんかない、違ってなんかない

 あなたが好きであなたが大切で、だからこの人を忘れたかったのに

 確かに私は、愛の欠片を見つけたと思ったのに

「…為の好きは、愛じゃないよ」

「愛、」

「そう、愛じゃない」

「違う、好きよ、愛して」

「愛じゃない、為は気付いてないんだ」

 どうして?

 さっき感じたあの気持ちは、愛じゃなかったというの?

 愛してないなら、どうしてこんなに涙が溢れるの?

 あなたにこんな顔をさせた自分を、どうしてこんなに許せなくなるの?

「俺は愛してたよ、」

 和樹は握りしめていた封筒の塊を床に落とした。

「少なくとも、為との将来を本気で考えるくらいには」

 和樹の頬に一筋、静かに雫が伝った。


 あぁ、そうか。

 私は未来なんて、何も見てなかったのかもしれない。

 過去ばかり振り返って、意固地になってそれを埋めようとして。忘れようと思い出している時点で、過去しか見ていないのとおんなじだ。

 大事なのは、過去を越えて、現在を越えて、未来を築くことだったのに。


 和樹は静かに靴を履いて、ゆっくりとドアを開けて出ていった。

 勝手に閉まったドアの音にあわせて、DVDのデッキが自動でOFFになった音が聞こえる。まるで私の心までOFFになったみたいに、妙に静かで…何も考えられない。

 階段を降りる和樹の足音も聞こえなくなって、私はゆっくりと瞼を閉じた。



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