第22話 勅書
今日の講義を終えて太師が帰ると、澪が入れてくれたお茶を飲んでほっと一息ついた。
どう考えても五歳の子供の勉強量と内容とは思えないような課題をこなしつつ、これが英才教育かと身震いする。
今のところ前世の記憶のおかげでなんとかなってはいるけれど、そのうちついてこれなくなるような気がして既に逃げ出したくなるほどだ。
幸いなことに私が苦手としている数学は前世のものの方がレベルが高いようで今のところ問題なく、前世の知識が全く役に立たない歴史はここがファンタジーの世界だから神話を聞いているみたいで面白い。問題は帝王学とか統治方面だけど、もうなるようにしかならないと諦めている。
ただまあ、この国の皇帝はあまり直接的な統治は行わず、宰相等の重職を任命して政を任せる政治体制になっている。よって皇帝の主な仕事は、第一に国の象徴として存在すること。そして重臣の任命と監視だ。そんなところも少し日本と似通っている。
とはいえ、皇帝が政治について全くの無知というのも問題なので、学ばなくていいわけではないのだけれど。
そうしてのんびり休憩していると、少し外が慌ただしくなる気配がして、なにがあったのかと澪と顔を見合わせる。
「慌ただしい。殿下の御前で何事ですか。」
「も、申し訳ありません。殿下。中務卿がお目通りを願い出ております!」
「中務卿が…?」
外で待機している侍女の一人が恐縮しながらも少し興奮したように顔を赤くして報告にきた。
中務卿といえば、皇帝の命令を公表したり、宮中の事務を担う部署のトップで、皇帝の重臣の中でもかなり偉い立場の人のはずだ。立太子の時、詔書を読み上げた人物でまだ記憶に新しい。
だけどそんな偉い人がなぜ私の所へ?
「主上の勅書をお持ちしたとのことです。」
「なんですって?」
勅書。つまり皇帝が直々に下した正式な命令文を持ってきたということだ。
そんなものを持ってここに来たということは、もちろんそれは母上が私に命令を下したということ。
今日も朝にお会いしたけど特になにも言われなかったのに。
「澪。なにか聞いてる?」
「いえ。私もなにも知らされておりません。」
なにか事前に知らせはなかったかと確認するけど、澪は困惑気味に首を横にふった。まあ澪なら事前になにか伝えられていれば私に教えてくれるはずだし。
しかし、急にこういうのがくると不安になってしまう。一体なにがあったんだろう。
「臣、桜木嘉兵衛が帝国の天子にご挨拶申し上げまする。」
御簾を下ろし御座を整え対面のための準備を終えると、中へと通された中務卿は部下らしき人たちを引き連れて代表で挨拶を述べた。
年齢は六十代ぐらいに見えるが、その眼光は鋭く全く衰えを見せていない。中務卿という省の中でも最も重要とされる部署のトップというだけあって、厳格そうな人という印象を受けた。
「久しいな中務卿。立太子の儀以来か。息災であったか。」
「はっ。皇太女殿下もお代わりなく。」
儀礼的な言葉を一言二言交わし、訪問目的が気になって仕方がなかった私は早速本題に入った。
「して、忙しいであろう中務卿が直々にお出ましとは、一体何事であろうか。」
「忙しいなどと。殿下の御身の為ならば、臣としてどのような時でも馳せ参じる次第でございますれば。しかしながら今回は、私は中務省の長官として主上の勅書をお持ち致しました。」
中務卿の後ろに控えていた官吏が勅書らしき巻物を中務卿に渡すとその内容を読み上げる。
「『玄天ノ国に次代の皇帝たる新たな皇太女が立ちもうした。よって此方は、皇太女を守るための親衛府の設立を命ずることとする。親衛府は皇太女の命を第一とし、唯一皇帝の指揮下にないものとする。』…お受け取り下さいませ。」
読み終わった中務卿は勅書を巻物の状態に戻すと、絶句したままでいる私に捧げるように恭しく掲げた。
理解できずに混乱している私を他所に、慣例通り澪が私の代理としてその勅書を受け取ってしまった。うん。拒否することは出来ないけど、受けとる前に少しくらい頭を整理させる時間が欲しかったなあなんて思ったりして。
しかし困惑しているのは私くらいなもので、みんなお祝い事のように喜んでいる。
勅書を届けてくれた中務卿は仕事が忙しいからと役目を終えると早々に帰っていった。親衛府の設立に困惑する私をよそに東宮殿はすっかりお祝いムードだ。
「いつかはとは思っておりましたが、思った以上にお早い決定でした。殿下が立たれてまだ日も浅いですのに。」
「母上も人が悪い。こんなことなら勅書が届く前に一言くらいあってもいいのに。突然だったから心臓に悪いよ。」
ブー垂れる私に澪は少し苦笑いをした。
親衛府というのは、皇太子の身辺警護を勤める皇太子直属の部隊だ。元々後継が立つと親衛府が設立するのは慣例ではあるけれど、それはもう少し私が成長してからのはずだった。
何歳になったらという規定はないけど、なにせ皇太女直属の部隊ということは、私に一部隊の指揮権が与えられることになるのだ。玩具ではないのだから、まだ十にも満たない判断力の低い子供に持たせるものではない。
慣例通りなら私がある程度の年齢になるまで、大内裏の警護を担当する兵衛府が兼任することになっており、実際今東宮殿の警護をしているのは兵衛府だ。
ちなみに皇帝の身辺警護を担当するのは近衛府になる。
「澪。先触れをお願い。母上のところに行く。」
「承知致しました。」
設立自体に反対ってわけじゃないけど、事前に告知してくれなかったことには文句のひとつでも言わないと気が済まない。
どうせ母上のことだから秘密にしておいて驚かせようとでも思っていたに違いない。
今は母上は後宮殿の執務室である雪の間にいらっしゃるということで、いつものようにぞろぞろと人を引き連れてそちらに向かった。
「母上にお取り次ぎを。」
「主上から既に中へお通しするよう仰せつかっております。」
母上つきの女官の一人はそういうと直ぐに私を中へと通した。
先触れを出したとはいえ、いかにも私が来ることがもっと前から分かっていたような対応に、予想はしていたけど私は頭が痛くなるような思いだった。
「母上!」
「来よったか。ならば、既に勅書は届いたようじゃの。」
いやに機嫌良さげな母上はやってきた私の顔を見て優雅に微笑んだ。部屋の中にはじいじまでいてこちらも楽しげに笑っている。
二人ともまるでいたずらが成功したかのようなそんな楽しそうな表情で、やはり今回のことはわざと私に伝わらないようにしていたのだと確信した。
勅書を受け取った私が慌ててこちらにすっとんでくるだろうということも、二人は最初から想定済だったのだろう。わざわざこうして待ち構えているくらいだからね。
「お二人共、冗談が過ぎますよ。いきなり勅書を受け取った私の身にもなって下さい!」
「すまぬすまぬ。ちと姫を驚かせようと思ったのじゃ。しかし悪い話ではなかったであろう?母からの贈り物だと思うて受け取ってたもれ。」
「申し訳ありませぬ姫様。悪気はなかったのですじゃ。」
不満をぶちまけると、母上とじいじはすまないと謝りながらもちっとも申し訳なく思っている様子はない。こっちは突然のことで本当に驚いたっていうのに。
むしろ主犯だと思われる二人ではなくて伽耶の方が申し訳なさそうにしているのはどうかと思う。
「こういうのは、本人と事前に打ち合わせがあって然るべきなのではないのですか?私とは毎日会っているんだし難しいことじゃないでしょう?」
「それはそうなのじゃが、それではサプライズというやつにはなるまいて。」
「左様左様。東の帝国では贈り物を贈る相手に秘密にして驚かせるサプライズプレゼントなる文化があるとのこと。驚いた分喜びが倍になるそうですぞ!」
なんかこの二人、激しくズレている気がする…!
楽しげにサプライズについて盛り上がる二人に私は頬がピクピクと震えた。なんだろう?私の感性の方がズレているのかな?
いや、伽耶たちが呆れたようにため息をついて額を押さえている様子を見ると、やはりおかしいのはこの二人のようだ。やっぱりそうですよね!
「はあ…。サプライズをしたいのなら、普通に私が喜ぶような品物を贈って下さい。こんな重要な案件を私に一言の相談もなく決めるなんて。いい大人なんですから時と場合を選んで下さい。」
「う、うむ。」
私が人差し指をびしっと指して諭すようにそう注意すると、さすがに五歳の子供に時と場合を選べと言われたのが効いたのか、二人はなんともいえないような微妙な表情を浮かべた。
「ふふふ。帝国の主神とその右腕も殿下の前では形無しでございますね。」
「伽耶よ。笑うでない。」
クスクスと小さく笑う女房たちにばつが悪そうな顔をした母上は話を切り替えるように「こほん。」と咳払いをした。
「とにかくじゃ。姫が皇太女となった以上、遅かれ早かれ親衛府の設立は必須じゃ。既に人選も含めてお膳立てはしてあるゆえ、あとはそなたが任命するだけにしておるでな。あとは好きにするが良かろうて。」
「で、でも私はまだ五歳ですよ?直属の兵力なんて」
そんな大それたものはまだ早いんじゃないかと言おうとすると、母上はにやりと意地の悪い笑みを浮かべた。
「ほう。良いのかえ?直属の兵力もなければろくに外出することも叶わぬぞ?」
「え?外出?」
なんだかとても魅力的な言葉が聞こえたような気がした私は目を見開いて聞き返した。自分でも期待に目が輝いているだろうなというのが分かる。
外出…。なんて素敵な響き。私の世界は今はまだ後宮殿と東宮殿だけ。異世界に転生したと分かって異世界のファンタジーな街並みや冒険に憧れなかったわけじゃない。でも自分の立場も大いに理解しているから半ば諦めかけていたんだけど。
「しゅ、主上!殿下になんてことを吹き込むのですか!」
「ふん。構わぬ。自らが守護する国や民のことを知ることも姫が決心する助けとなろう。」
ああ。そうか。浮かれて弾んでいた気持ちがゆっくりと収まっていく。
母上のいつにもなく真剣な眼差しを正面から受けて私は理解した。母上は私が昔口にした『帝になりたくない』という言葉を、私が皇太女として立った今でも重く受け止めているんだ。
だからこそのあまりにも早すぎる親衛府の設立。不安要素のある私の基盤を固めようとしているのだろう。
そう。母上は私の母親である前にこの玄天の国の皇帝であり守護神なのだ。
私は手を床につき決意を示すようにゆっくりと頭を下げ今私ができる精一杯綺麗な一礼をした。
「…勅命、謹んでお受け致します。」
そう言葉を述べると、何故だかほんの少しだけ胸の奥がちくりと痛んだような気がしたけれど、私は知らないふりをした。
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