間話 澪の葛藤

姫様が正式に皇太女としてお立ちになり諸々の準備で慌ただしくしている頃、畏れ多くも主上つきの女房として末席を汚させていただいている私は主君である主上にお呼び出しを受けました。


「お呼びでしょうか主上。」

「忙しいところすまぬな澪。そこへ座るのじゃ。」

「はい。」


この国を治める帝であり、水神でもある主上。

四人の皇帝の中でも最も在位が長く、主上が世代交代を宣言されると、世界中によくも悪くも波紋を呼ぶ結果となりました。


美しく艶やかな長い黒髪に深い瑠璃色の瞳。

動作ひとつとっても気品に溢れ、その神々しいお姿を目にしただけで畏敬の念を抱かずにはいられません。

まだまだ威厳とは無縁な愛らしい姫様も、いつかは主上のようにそのお姿だけで人々を圧倒するような立派な帝におなりになることでしょう。

姫様のお世話を仰せつかっている身としては、楽しみなような、少し寂しいような…。

ふふふ。少し不敬でしたでしょうか?


「澪よ。東宮殿の準備は進んでおるか?」

「はい。滞りなく。明日にはお移りになられるかと。」


私がお返事申し上げると主上は少し寂しそうに微笑まれました。


「そうか。早いものじゃな。ついこの間生まれたばかりじゃというのに。」

「左様でございますね。」


姫様のお住まいが同じ皇宮内の東宮殿に移るだけとはいえ、いつも同じお部屋で過ごされていたのです。寂しく感じるのも無理はありません。

姫様がお生まれになってから、主上は明るくなられましたからね。今までで一番楽しそうに過ごしておられました。


「いつでもお会いになられますよ。」

「分かっておる。最近は皆に呆れられてばかりじゃ。親馬鹿じゃとな。」

「まあ。」


主上が親馬鹿ですか…。以前なら考えられぬことですね。

ですが、あの姫様の愛らしさにはそう成らざる負えません。いえ、むしろそうならないほうがおかしいのです。


「つい話し込んでしもうた。忙しいそなたをいつまでも引き留めておくことはできぬな。雑談はここまでとして早速本題に移るとするかのう。」


主上のその言葉に私は背筋を伸ばします。

主上が雑談のためだけに私を呼んだわけではないのは分かっていました。

話の内容は検討がつきますが…


「澪よ。そなたには此方の女房から外れ、姫付きの女房になってもらいたい。」


私はこの上なく光栄であるはずのその言葉にすぐに頷くことができませんでした。

これからも姫様のお側でお仕えできる。それは私の望みでもありました。

ですが…


「…私で、本当によろしいのでしょうか?」


こんな私が姫様のお側にいてもいいものか。

姫様のお世話を仰せつかってからというもの、そう考えない日はありませんでした。

何故なら私は清らかな姫様に相応しくないほど、とても醜く賤しい存在なのですから。それは私自身が嫌というほど理解しているつもりです。

名家には私よりも側付きとしてもっと相応しい姫君がいらっしゃるというのに。


「…澪よ。そなたの考えておることは分かる。じゃがな、そなたを推薦したのは此方じゃ。誰にも文句は言わせぬ。それにこれは他でもない姫の望みでもあるのじゃ。あの子が澪を下さいと頭を下げにきた時はさすがの此方も驚いたぞ。」

「姫様…。」


あれほど頭を下げないようにと申し上げたのに…と思う一方で、それを不敬にも喜んでしまっている私がいます。

まさか姫様が私のためにそこまでしてくださるとは。あの方はいつも私を驚かせる。


「皇太女に頭まで下げさせたのじゃ。まさか断るわけあるまいな?」

「それは…」


未だにはっきりしない私を咎めてか、主上の目がすぅー…と細められる。

確かに姫様の真心を無下にすることは許されないことです。

それに、私の曖昧な態度が姫様に頭を下げさせてしまったのでしょう。

仕えるべき主君に頭を下げさせるとは。これは私の落ち度です。


「それにな、この頃妙にきな臭い。名家の高貴な姫君より、そなたのほうがよほど安心して任せられる。なにも女房は一人とは限らんのじゃ。純粋な友人の役目など、それこそ他の者に任せればよかろう。」


そして主上の表情から穏やかな笑みが消えた。

娘を心配する慈愛溢れる母親の顔から、帝国を治める威厳ある皇帝の顔へ。


「澪。これは命令じゃ。その身を捧げ、例えどのような手を使ってでもあらゆる災いから皇太女を守り抜け。」

「御意に。」


例えこの身が朽ち果てようとも。

全ては帝国と、皇太女殿下のために。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る