第17話 常世

 そこはまるで水の中の世界のようだった。


 息をする度にポコポコと水泡が上へと上っていく。

 宙には鱗をきらきらと輝かせた魚たちが泳いでいる姿が見える。

 でも地上のように地面を普通に歩き息もできているから本当にここが水中なのかは定かではない。


 私が通った後の扉は勝手に閉まってしまっていたけれど、常世の景色に目を奪われていた私はそのことを気にもとめないくらいに景色を見ることに夢中になっていた。

 初めて来る場所のはずなのにどこか懐かしい気持ちになるのは何故だろう?


 しばらくそこに留まっていると、向こうからやってくる馬のようなシルエットの生き物の姿が見えた。


「あなたが角端?」


 角端。水神の半身ともいわれる霊獣。

 額に水晶でできた角を持ち、龍のような頭と馬のような体をした黒き獣。

 水神の誕生と共に産まれ、自分の半身となる主が自分を迎えにくるまでこの常世で待っているという。


 私は一年ほど前、母上様の角端を見せてもらったことがある。普通の馬より大きく立派な体格でその迫力には圧倒された。

 しかし今目の前にいる角端は記憶にある姿より一回り小さく、どこか愛嬌のある顔をしている。

 角端は自分の主が皇帝として即位すると同時に成獣になるらしい。 

 つまりこの子はまだ子供だということだ。


 私が手を伸ばすと角端はそっとその手に擦りよった。甘えているような愛くるしい姿に思わず頬が弛む。

 角端は神命宝樹までの案内の役割も担っているらしい。母上様からは常世では角端についていけばいいと言われている。


 甘えるのに満足したのか角端は私から離れ、ついてこいというように私を振り返る。

 角端の後を追ってしばらく歩くと、目の前には風情のある梅の木が一本現れ、あれが神命宝樹に違いないと思った私は駆け寄るように近づいた。

 しかし誰もいないはずのそこには、長い黒髪の非常に整った顔をした男の人が梅の木の下に腰かけており思わず足を止める。

 どこか母上様に似ているような気がするその男は、瞑想するように閉じていた目を開けて私を真っ直ぐに見た。


「…来たか。」


 静かな深みのある落ち着いた美声が私の耳まで届いた。

 私を待っていたかのようなその言葉に一体何者だろうかと内心首を傾げる。


「あなたは誰ですか?」

「私は…、そうだな。この樹の管理者といったところか。」

「神命宝樹の管理者…?」


 私が尋ねると男はそう答えた。

 しかしそんな人がいるなんて話は母上様から全く聞いてない。もしも本当にそんな人が常世にいるのならば、儀式の説明を受けたときに母上様からそのことについて話があってもよさそうなものなのに。

 でも角端が警戒していないことから悪い人物ではないとは思うけど。


 私の疑うような視線を向けられても男は表情ひとつ変えなかった。

 まるで私が知らないことが当然であるかのような態度だ。


「私がここにいることは秘せられている。だから玄帝も私のことを伝えはしなかったはずだ。そなたも現世では私に会ったことを口にしてはならない。よいな?」

「え。あ、はい。分かりました。」


 その美男から発せられる威圧感に気圧された私は素直にこくこくと頷いた。

 その言い聞かせ方がどことなく母上様に似ているせいかどうも警戒心が持てない。


「よろしい。ではさっさと済ませてしまおう。これがこの世の神の名が刻まれる神命宝樹というのは知っておるな?」

「えっと、はい。」


 私が頷いたのを確認した男は樹の幹を指差した。


「ここにそなたの名が刻まれておる。見るがよい。」


 そう言われた私は男が指差した場所を見て、そこに光りが浮き出ているような文字を見つけた。


『花織津姫命』


 ああそうか。一目見て分かった。これが私の名前であると。どうしてそう思ったのかは自分でも分からない。でもきっとそれは間違いじゃない。


 私はそっと光の文字に触れてみる。

 この世界に転生し五年目にしてようやく私は自分の名前を知ることができた。名前があるって当然のことだと思っていたけど、こうして名前があるとなんだか感慨深いものがある。

 今初めて私はこの世界の存在であると認められたような気がした。

 ただちょっと普通の名前とは違う、神様みたいな名前だからあんまり馴染みがないけれど。それでもやっぱり自分の名前があるというのは嬉しいものだ。


「はな、おり、つ、ひめ、のみこと?」

「正確には、命は○○という神という意味を持つ尊称ゆえ、花織津姫までがそなたの名だ。読み方はそのままでよい。」


 文字に触れながらたどたどしく名前を口にする私に男はそう教えてくれた。読み方ははなおりとかおりで悩んだけれど、どうやらそれで合っていたらしい。

 でも本当にこの人って何者なんだろう?ここに住んでいるのかな?色々知っているみたいだし、神しかいれないはずの常世にいるってことはもしかしてこの人も神様なんだろうか?


「あの…」

「私が今そなたに話せることはさほど多くはない。それよりもそなたは新たな皇太女としてやるべきことがあるのではないか?」


 私の言葉に被せるように男が話したことで、あまり自分のことは触れられたくないのだろうと察した。

 この人のいうとおり私はここでしなくてはならないことがある。いつまでのこの人に構ってばかりはいられないのは確かだ。母上様や澪たちも待っているだろうし。

 それにいくら聞いてもこの人はこれ以上教えてくれないような気がした。


 私がやるべきことは2つある。

 ひとつめは自分の名前を記録すること。

 私はここに来る前に母上から渡され懐にしまっていた命名紙を取り出し、神命宝樹の名前の部分にかざした。

 すると不思議なことに命名紙に波紋のようなものができて、じわ~っと文字が浮かび上がった。そこには神命宝樹と同じ私の名前が書いてある。

 さすが神様のいるファンタジー世界だ。この樹が特別なのか、それともこの紙が特別なのか。かざすだけで文字を写せるなんて一体どういう仕組みになっているんだろう?

 少しわくわくした気持ちで名前の書かれた命名紙をじーっと観察する。こうして見る分には特に変わったところはない普通の紙に見えるんだけどな。


 しばらくひっくり返したり光に翳したりして観察していたけれど、「こほん。」という咳払いが後ろから聞こえて私は慌てて観察をやめた。

 早くしろということだろうか?

 まだまだ興味はつきないけど、私の仕事はまだ終わっていないから仕方がない。


 私は辺りをキョロキョロと見渡す。

 地面には大きなアヤコガイのような貝殻がいくつかが転がっている。

 私の最後の仕事は、皇族だけが身につけることができる常世にしか存在しない特別な真珠を採取すること。


 特に気になったものがなければどれでもいいとは言われているけど、ひとつだけ淡い光を浴びている貝がさっきから存在を主張しているようにしか見えない。

 なんだか竹取物語みたいだなと思いつつ、その貝以外はどれも同じに見えたので、光っている貝を手に取り私は軽い気持ちでぱかっと開けた。

 思ったよりもすんなりと開いたその中には大粒の美しい黒い真珠が光を放っていた。

 異様な雰囲気を放ちながらも人を惹き付けるような魅力をもまとうその黒真珠を、私はふらふらと惹き付けられるようにして手にとった。

 私が手にしたとたんまぶしいほどの光りは収まったけれど、その黒い真珠をじっと見ていると、まるで吸い込まれてしまいそうな心地にさせる。


「常世貝が常世に満ちる純粋な神力だけを集めてできた特殊な真珠だ。いわば神力の塊。今はまだ幼いそなたよりも膨大な神力を秘めている。呑み込まれるな。」


 男の言葉にはっとして我に返る。

 呑み込まれるな、か。確かに私は今この黒真珠に呑まれてしまいそうになっていたかもしれない。

 この真珠は明らかに私よりも強い力を持っていることは嫌というほど理解した。


「よりにもよって最も古い年月を経た真珠を選ぶとは。これを御するのは苦労するであろうな。」

「これが光っていたからこの真珠を選んだのですが、私が間違っていたのでしょうか?」


 さっきの感覚が少し恐ろしいものだったからか、選ぶべきではないものを選んでしまったような気がして不安になった。

 この真珠をどうするのかはまだ聞いていないけど、私が持っていても大丈夫なのだろうか?


「案ずるな。確かに扱いにくくはあろうが、主であるそなたを傷つけるようなことはない。」

「そう、ですね。」


 私もこの真珠が私の害になるとは思っていない。この真珠からは大きな力は感じるけど、嫌な感じはしないし。


「そなたはこの真珠が他の貝と比べて特別に見えたのだろう?ならばそれはそなたがその真珠と共鳴しあった結果だ。それに水神は本能的に自分に最も相応しいものを選ぶようになっている。」

「でもそれはこの貝が光っていたからで…」

「そなたの目にはそう見えていたのかもしれんが、実際には光っておらぬぞ。」

「は…?」


 え?あれ?光っていなかった?あれだけ眩しかったのに?

 男の予想外の言葉に私は言葉を失い、あんぐりと口を開ける。母上様たちがいたら確実にはしたないと怒られていただろうけど、今の私にはそんなことを気にしている余裕はなかった。


「ほ、本当に?嘘じゃない?」

「嘘は言わぬ。」


 驚いた私は相当間抜けな顔をしていたのか。これまでほとんど表情を変えていなかった男はほんの少しだけ口角が上がっているような気がする。


 男が嘘を言っていないということは、私だけに真珠が光って見えていたということだ。

 ここがファンタジー世界だというのは分かっていたけど、今日だけで色々起こりすぎて脳の処理が追いついていない。


 少し混乱してしまった私は一体落ち着くために、ずっと大人しく隣にいた角端をしばらく撫でまわすことになったのだった。

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