第2話 私の名前は?
十分な時間目を覚ましていられるようになってから数ヶ月が過ぎた。
この新しい生活の中でしばらく過ごしているうちに、いくつかおかしな点を見つけた。
ひとつめ。私は生まれて数ヶ月間一度も母乳やミルクを飲ませてもらっていない。そのためか一度も排泄もしていないのだ。
最初はこんなに大切にされているように見えて実は児童虐待か!とか、この人たちお嬢様過ぎて子供の育て方もわからないんじゃ!?とか色々考えていたけど、飲まず食わずの状態にも関わらず全くお腹が空かないし、栄養失調で衰弱する気配もない。
もしかして食事が必要ない世界なのかもと思ったが、彼女たちは普通に食事をとっているみたいなのでそれも違いそうだ。
まだ「あー」とか「うー」しか話せないので理由を聞くこともできないから、自分の体ながらその生態が不明だった。もしかしたら私、人間じゃないのかもしれない。
ふたつめ。未だに父親らしき存在に一度も会っていない。それどころかまだただの一人の男性にも会っていない。ここにいるのはいつも女性ばかりだ。
男性禁制の場所なのかもしれないけど、それにしたって一度くらい会わせてくれてもいいんじゃないだろうか。自分の父親がどんな人なのか子供として気になるところ。
みっつめ。自分の母親の身分が不明。
私の母親はやっぱりというか、あの古風な話し方をする和装の美女らしい。まだ私は話せないのに、自分のことを母と呼ばせようと頑張っているのでたぶん間違いないと思う。
そしてこのお母さんは、お世話をしてくれる人がいる生活や着ているものからして、かなり身分の高そうな人だとは思うけど、実際にどれくらいの身分なのかはさっぱりわからない。
そもそも、この世界の身分制度もよくわかっていないので、言われたところで理解できないかもしれないけど。
西洋文化なら小説の知識で、貴族の伯爵とか男爵とか多少の知識はある。日本だったら、平民、武士、貴族とかだろうか。武士の中でも貴族の中でも上下関係はあるんだろうけど、そこら辺はさっぱりだ。むしろ元日本人のくせに西洋の方が詳しいのは自分でもちょっとどうかと思う。
最後に、私は未だに自分の名前がわかっていない。これはちょっと問題じゃないだろうか。
お世話をしてくれる人たちは、私のことを「次代様」とか「姫様」、「おひいさま」と呼んでいて、誰も私のことを名前で呼ばないし、お母さんでさえ、今まで私のことを名前で呼んだ試しがないのだから。
自分の名前が気になってしょうがないんだけど、赤ん坊なので聞くことも難しい。
一応ちょっとずつ話せるようにはなってきたつもりだけど、まだ会話ができるまでには至っておらず、私が一生懸命なにかいってもみんな「元気ですねー」とか笑って聞き流している状態だった。
もうちょっと頑張って聞き取ろうとしてくれよ。
そして多くの謎や不安を抱えたまま一年が過ぎてしまった。
特に変化もなく代わり映えのない毎日が続いた。
相変わらず食事はないし父親にも会えていない。
綺麗な美人に囲まれながらの、まあ人によっては天国みたいな生活なんじゃないかな。
私は元々女性なので目の保養になるなーくらいの感想だけどね。
そしてこれまで頑張って話す練習をしてきた結果、拙いけどこの年齢にしては結構話せるようになったと思う。自分でいうのもなんだけど成長が早いのかな。
彼女たちとも少しだけ会話もできるようになり、名前を聞くこともできた。なかなかの進歩だ。
母親の他にいつも一緒に過ごしているのは4人の側つき。
私が最初に目覚めた時、私を抱き抱えていた女性は澪さんというらしい。私のお世話が担当なのか、私と関わる時間が一番長い人でもある。優しくておしとやかなお嬢様という感じで、いつも私の相手をしてくれるお姉さんだ。
澪さんと同じくらいの歳ではっきりとした明るく元気な女性が初音さん。
一番若くて小柄な可愛らしい女性が小春さん。
年長で仕事ができる頼れる女性という感じの大人なお姉さまが伽耶さん。おそらくこの4人のリーダーで筆頭侍女というやつだろう。
やっぱりというか、みんな和風な名前だった。
ちなみにお母さんの名前はまだわからない。
他にも雑用をしてくれる女性が何人かいるんだけど、ずっといるわけじゃないしあまり関わらないので名前まではわからない。
仲良くできないかなーと思って笑顔で手を振ってみると、驚かれたり、控えめに笑い返してくれたりはするけど、反応はほとんどそれだけで近寄ってきてはくれないし、もちろん話しかけてくれることもない。
やっぱり身分制度が厳しい世界なんだろうか。私、そういうの好きじゃないんだけど。
そして今日。私はついに未だに知らない自分の名前を聞いてみるつもりでいる。ここまで頑なに誰も呼ばないことで理由があるのかなとも考えてみたけど、やっぱり自分の名前くらいは知っておきたい。
「みおー。」
「はい。どうなさいましたか姫様?」
与えられたおもちゃを使い方が不明で振り回している私を微笑ましげに見ていた澪に話しかけると、優しくにっこりと笑いかけてくれる。
聞くなら一番身近な存在である澪かな。
お母さんという選択もあるけど、威厳がありすぎて自分の母親ながら近寄りがたいんだよね。苦手というわけじゃないけど畏れ多いというか。偉い人特有のオーラがある。
「みおー。わたしのなまえおしぇてー?」
舌足らずな話し方と上目遣いで可愛く聞けばすぐ教えてもらえるだろうと思っていたのに、澪は少し困ったような表情になった。
あれ?予想していた反応と違うぞ?
「申し訳ありません姫様。わたくしは姫様の真名を存じ上げないのです。」
「まな?」
「はい。わたくしだけではなく、誰も姫様の真名を知るものはおりません。それは姫様の母上様も例外ではございません。」
え、ちょっと待って。お母さんまで私の名前知らないの?それじゃあ誰が私の名前をつけるわけ?
驚愕して目を見開きながら、困った様子の澪を思わずガン見していると、私たちの会話を聞いていたのかお母さんから声がかかった。
「姫、そないなことをいうて澪を困らせてはならぬ。こちらに来るのじゃ。」
「あい。」
この部屋結構広いから、ここからお母さんがいるところまで距離があるので、私たちの会話が聞こえているとは思わなかった。
相変わらずお母さんの声はよく響いて、大きな声でないにも関わらず、私を戒めるお母さんの言葉が私の耳まですっと届く。
抱き抱えて移動しようとする澪に断りを入れて、まだ歩きがよちよちで安定しないため、得意のハイハイでお母さんの元へ向かう。
ハイハイ選手権があったら間違いなく優勝できるだろうなとどうでもいいことを頭の隅で思いながら、赤ちゃんのハイハイとは思えないスピードでお母さんの腕まで到達した。
お母さんはやってきた私を抱き抱えると膝に乗せて頭を撫でながら尋ねた。
「そなたの名が気になるか?」
それはもちろん気にならないはずがない。
お母さんの尋ねに元気よく何度も頷くとお母さんは可笑しそうに微笑み、激しく動いたことでごちゃごちゃになった私の髪を整える。
「そなたの名はな、神命宝樹と呼ばれる樹に名が刻まれることになっておる。」
「ちんめーほうちゅ?」
「くくく。そなたにはまだ難しい発音であったか。」
私の発音が面白かったのか、珍しくお母さんが声をあげて笑った。
いや、赤ちゃんだからこんな話し方になるのも仕方ないよね。これでも私、他の一歳児と比べればかなり話せる方だと思いますよ。
比べる対象がいないのかもしれないけど。
不満げに頬を膨らませて抗議するも、お母さんは指でぷくっと膨らんだ私のもちもちのほっぺたをつんつんとつついて楽しそうだ。
違う。そうじゃない。
「此方たちの名は親がつけるものではない。世界に刻まれるものじゃ。そなたが五つになれば神命宝樹があるところへと行くことになるじゃろう。その時に自分の名を確認するとよい。」
え、なにそのファンタジー要素。
お母さんの口から不釣り合いなファンタジーな単語が出てきて目を瞬かせる。
神命宝樹という単語も初めて聞いたけど、世界に名前が刻まれるとか、なんて厨二げふんげふん。ファンタジーワードだろうか。
てっきり昔の日本にタイムスリップしたんだと思っていたのに、本当に異世界に転生していたんだ。小説で分類するなら和風ファンタジー的な?
「じゃあ、ははうえのなまえもそこにかいてあるの?」
「そうじゃよ。」
「じゃあみおもー?」
「さすがに澪の名は書いておらんな。」
「そうなのー?」
澪を指差してお母さんに尋ねれば苦笑して否定された。
てっきりこの世界に生まれた人はその神命宝樹?に名前が刻まれるのかと思ったけど、みんながみんな書かれるわけじゃないらしい。
なにか条件があるんだろうか?
また増えた謎に首を捻っていると
「そこに名が刻まれるのは、神の一族だけじゃ。」
ほへー。そうなんだ神の一族ね。ふむふむ・・・
「・・・なんらって?」
え?ちょっと待って。私の聞き間違い?
今変な言葉が聞こえた気がしたんだけど。
思わず目を見開いてお母さんを二度見、三度見したら、なにが可笑しかったのかお母さん大爆笑。
いやお母さん、そこ笑うとこ違う。
「ねえねえははうえ!どういうことー!?」
「オホホホホホ!」
ダメだ。完全にツボに入ってしまっていらっしゃる。
私が詳しく聞き出そうと声をかけたり揺らしたりしても、笑いが収まらないのか話せない状態だった。むしろ悪化している。
扇子で口元を隠しているのはさすがだけど、涙を流しながら爆笑している姿に厳格な母のイメージががらがらと音を立てて崩れていく。
仕方ないので、お母さんのそんな姿は珍しいのか目を丸くして固まっている澪にターゲットを変える。
「ねえねえみおー。わたし、ひとじゃないのー?」
否定して欲しいと思いながら、袖をくいくいと引いて尋ねると、固まっていた澪は再起動して動揺したままこくりと頷いた。
「え?え、ええ。さようでございますよ。」
え?本当に言ってる?私の聞き間違いじゃなく?
なんかさらっと普通に当然のことみたいに流されてしまったけど、これ、かなり爆弾発言だよね?
私はさらに詳しく聞きたくて澪を見るけど、それよりも澪は未だに爆笑しているお母さんのことが気になるようで、ちらちらとそちらを見ている。
初音と小春はまだ驚いて固まっているけど、伽耶さんはさすがで慌ててお母さんの背中を擦ってあげていた。
ねえねえ。皆さん。お母さんのことが気にかかるみたいですけど、これでも私、自分が人間じゃないという衝撃の事実を知ってかなり動揺しているんですよ?
もうちょっと気にかけてくれてもよくない?
この世界の人にとっては当たり前のことなのかもしれないけどさ。
てんやわんやな状況を眺めながら、私は赤ちゃんに似つかわしくない深いため息をついた。
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