11.今こそ〇〇浴

 しばらくすると、隣で横になる穂花がカタカタと震え始めた。

 見ると、乾ききらないままの上半身を丸めて縮こまっている。

「ねえ、凛太朗。なんだか寒くなってきちゃった……」

 ったく、コンドームを水枕なんかにするからこうなるんだよ。

 それとも、もし俺が恋人だったら、黙って抱きしめてあげるシーンなのだろうか……。

 いやいや穂花はただの幼馴染。大切な存在という点は一緒だが。

 一応、コンドームが敗れた直後に穂花は服を絞って乾かしたようだが、こんなところで完全に乾くはずもない。反対側を向かされていた俺には、どうやって乾かしたのかもわからんが。

「だったら温泉に入って来いよ。体が冷えたままにしてると体力が持たないぞ。あと二日もあるんだから」

「ふん、冷たいのね。きっと朝にはパパが助けに来てくれて、凛太朗のこと叱ってもらうんだから。メールにもちゃんと書いておいたし」

 いやいや服を濡らした穂花が悪い。

 それとも抱擁してあげない俺が悪いのか?

 こんな気持ちになるのも、コンドームの件で妙な雰囲気になってしまったのがいけないのだ。あれだけ自分を貫いてきた穂花が、なんだか急にかまってちゃんになっちまって面倒くさい。

 それに俺は間違ったことは言ってない。

 穂花を温めてやってもいいが、そうすると俺も濡れてしまう。温泉という確実に暖を取れる手段があるのだから、それを使って体温を回復するのが合理的と誰もが言うだろう。

 ていうか、健介さん宛てのメールには一体なにが書かれてるんだ?

「私、温泉に入ってくる……」

「ああ、ゆっくりと温まってくるんだぞ。何かあったらすぐに呼んでくれ」


 穂花が行ってしまうと、俺は仰向けになって一人考える。

 さっきのは、あまりに冷たい態度だったのだろうか――と。

 俺はあいつの恋人なんかじゃない。もしあいつに彼氏がいるなら、抱きしめるなんてやってはいけない行為じゃないか。

 そもそも俺は、あいつに好意を持っているのだろうか?

 いやいや、そんなことはありえない。好きとか愛してるとか、そんな言葉をあいつの笑顔に重ねたことは一度も無かった。今までも、そして今この時も。

 小学校からずっと一緒の女の子。中学校、高校と、いつも必ず傍にいた。

 そうだよ、あいつは俺の生活の一部なんだ。見ている世界の背景なんだ。好きとか愛してるとかじゃなくて、いなくなったら困る存在なんだよ

 そんなことを考えていたら、ゴゴゴゴという地鳴りが聞こえてきた。

 背中を地面につけていたから感じやすかったこともあるだろう。

 脳が「地震」と判断する前に、俺の体は動いていた。


 あの時、俺は、穂花のことを守れなかった。

 それなら、今こそ――


「ちょ、ちょっと何すんのよ!」

 暗闇の中、俺は靴のまま温泉に入り手探りで穂花の腕を掴む。

 そして思いっきり体を引き寄せ、入口の穴の下まで慌てて駆け戻った。

「地震だ!」

 俺は叫ぶと、穂花の頭を守るよう右腕で彼女の頭を覆い、左腕でしっかりと抱きしめた。

 そこでやっと、彼女も地面の振動に気が付いた。

 ボロボロと洞窟の壁の一部が崩れる。温泉がある方の洞窟からは、暗闇の中でゴオッっと地面を揺るがすような不気味が音がする。

 ――頼むから早くおさまってくれ!

 後から考えると揺れは十秒くらいだったのかもしれない。が、俺には数分のも長さに感じられた。もし落盤が起きればただで済むとは思えないのだから。出口が見えるこの場所が、唯一地表と繋がる希望だった。

 揺れがおさまっても俺は、しばらくの間穂花を抱きしめていた。

「あのぅ、凛太朗? 私、素っ裸なんだけど……」

 やがてぽつりと穂花が呟く。

 言われてみて初めて認識する。なにか柔らかいものが俺の腹部から胸部にかけて押し付けられていることを。

 でも、そんなことよりもっと大事なことに俺は気付いたんだ。

 今俺の腕の中には――決して失ってはいけない存在があることに。

「穂花が無事で良かった。もし洞窟が崩れたらって思ったら自然に体が動いてた。穂花がいなくなった世界を想像しただけで、胸が張り裂けそうになったんだ……」

 どんなにののしられてもいい。スケベと軽蔑されてもいい。

 これが俺の本当の気持ちなんだから。

「それにやっと思い出した。木の上の猫のこと」


 あれは小学二年生の時のこと。

 葉が茂る木の枝の中で何かがガサゴソしているが気になった俺は、嫌がる穂花と一緒に塀に登って近くで見ようとした。

 その正体は猫だった。

 飛びかかってきた猫に驚いた俺たちは、二人一緒に塀から落ちて地面に尻もちを着くことになったんだ。

 そんな俺たちの上に落下して来る猫。

 俺は猫を振り払って穂花を守るべきだった。

 が、その時俺が取ったのは、自分だけ逃げようとする最低の行動だった。

 立ち上がろうと俺は地面に手を着く。その時、不運が起きた。俺の手は、穂花のお腹の上に着地した猫のしっぽを強く地面に押し付ける形になってしまったのだ。びっくりした猫が穂花のことを思いっきり引っ掻く。尻もちを着いて露わになった彼女のおへそあたりを。

「ギャー」

 穂花の悲鳴と、止まらない泣き声が脳裏に蘇る。

 悲劇はそれだけでは終わらなかった。穂花は猫ひっかき病にかかってしまい、一週間熱にうなされることになった。

 空席が続く穂花の机を見つめながら、俺は深く後悔に苛まれる。

 ――穂花が死んじゃったらどうしよう……。

 俺のせいだ。自分だけ逃げようとしたからこんなことになったんだ。

 なんて最低な人間なんだ。熱にうなされるのは自分であるべきなんだ。

 そして心に誓ったんだ。

 ――これからは穂花のことを守ってあげなくちゃ。

 彼女の身に降りかかる危険から、俺が体を張って守ってやる――と。


「やっと思い出したのね。バカ……」

 穂花が上目遣いで俺を見る。

「草むらの中で何かがガサゴソしてた時から、なんか嫌な予感がしてたのよ」

 だから俺が写真を撮ろうとした時、穂花は不安がっていたのか。

 その態度に気づいた時、俺は察するべきだったのかもしれない。

「まるで、あの時と一緒じゃない」

 うん、確かに一緒だ。

 二人で無重力感を味わったのも、動物が落ちてきたことも。

「でもあの時と違うのは、私を守ってくれたこと。今もそうだけど、ウリ坊が落ちて来た時も嬉しかった。凛太朗も成長したのね。ありがとう……」

 最後のお礼はうつむき加減に。

 穂花からお礼を言われるなんて滅多にないんだから、ちゃんと目を見て言って欲しかったかも。

 すると穂花は左手を上げ、彼女の頭に添えた俺の右手を掴む。そして彼女のお腹をさするようにと掴んだ手を誘導した。

「ほら、あの時の傷。まだミミズ腫れが残ってる」

 右手から伝わる穂花の柔らかいお腹は、少しデコボコしていた。

 小学生の頃から変わらない、俺だけが知っている彼女の秘密。

「これのせいで私はビキニが着れないんだからね。責任取るって、あの時言ったよね?」

 ええっ? そんなこと言ったっけ?

 穂花を守ると心の底から誓ったけど。

 もし言ったとしても、小学二年の責任と大学三年の責任はかなり違うような気がしないでもないが……。

 でもそれもいいかかなと思う。穂花を一生守るということは、結局同じことなのだから。

「ああ……」

 俺は穂花をぎゅっと抱きしめる。

 彼女も俺の胸に抱かれたまま、体を預けてくれた。


「ちょっと寒くなってきたから、また温泉に入りたいんだけど……」

 一分くらいすると穂花が耳元でささやく。

 柔らかい彼女の体。抱きしめていると不思議と心が温かくなる。この時が永遠に続けばいいと思うくらいに。

 そんな気持ちに浸っていたから、もしかしたら三分くらいは抱きしめていたのかもしれない。

「ゴメン、穂花。もう揺れは収まったみたいだから、風邪を引く前にまた温泉につかった方がいいな」

「うん、そうする……」

 俺たちは名残惜しそうに体を離す。

 薄明りにぼんやりと浮かび上がる穂花の体はとても美しかった。そして彼女は温泉の方へ駆けて行く。

「あれ? あれれ?」

 しかし暗闇の中から聞こえてきたのは穂花の戸惑う声。

「温泉がないの。今、服を着るから、そしたらライトを付けて来てみて」

 彼女の合図で俺が温泉に行ってみると、さっきまであった水面が無くなっている。そしてその先には、今まで水没していた洞窟の先が露わになっていた。



《つづく》

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