第9章 西行 1
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アシュヘル高地を東西に横断するホシュウル山地を南へ横切ると、眼下に広大な白い平野が見えた。
白く見えるのは雪ではなく砂地で、春になれば背丈の低い草が生い茂る草原となる。平野からもう少し南に行ったところに住む遊牧の民は夏に羊を追う場所であるが、今は無駄に広く何もない土地である。
起伏の少ない高地の平野には、いくつにも曲がりくねる川が流れ、シャリムのきりりと凍てつく冬の静けさに鈍く光っている。
山河の陰影が雲間から差す光で刻一刻と変わり、雪が覆う山脈がさらに南に霞んで見えた。
「生きるには事欠かない場所ですが、好んで住む場所ではございません」
そう語ったのはイグナティオ=スー=スーシ、西方の商業都市ネルウィオスの商人である。馬革で簡素に作った上着を羽織り、栗色の髪と整った顔に女受けの良い笑みを浮かべて、商売上の謙遜で身を固めた案内人は、白い吐息を吐きながら、とある一団を先頭で率いていた。
「この先、山肌の道に添って西へ向かえば、シーラーズの町に着きます、皇子殿──失礼、アルメスと呼ぶべきでしたな」
イグナティオは後ろに振り返って、葦毛の馬に乗る少年に言った。白銀の長髪を後ろで結び、深々と外套を被って顔を隠しているが、端正で幼げなな目鼻立ちと澄んだ
「そなたの事はどう呼べば良いのであったか、商人」
ファルシールはわざとらしく呼び方を間違えたイグナティオに緩やかな反撃を返した。
「そうですな、一応あなたを私の商人仲間の息子で、見習い商人として預かっているという体で連れていますから、師匠とでも呼んでもらいましょうかな」
しかし、その呼び方に眉をひそめたたひとりの男が、ファルシールの横でイグナティオを睨んだ。
薄い金髪をファルシールと同様に後ろで結び、冬の空のように透きとおる碧緑の目、鼻筋の通った端麗な顔、それとは裏腹に服の上からでもわかる鍛えられた体躯良い背の高い偉丈夫、騎士ケイヴァーンである。
「おお怖い怖い。冗談ではありませんか」
イグナティオは騎士の睨みにを小笑いにかわして、皇子に目を向けた。
「シャイード、良い。好きにさせてやれ」
「しかし
「良い。今の私は、世間知らずの見習い商人だ。間違ってはおらぬ」
ファルシールはイグナティオの牽制に答えた。イグナティオはこうして
「ヨイチ、写本の作成は順調ですかな?」
「まあまあっすね……。こっちの言葉にうまく訳せるかは、少し自信ないけど」
馬に乗りながら数学の教科書を眺めて百面相をしている黒髪の少年は、イグナティオの問いに頭を掻いて誤魔化した。
藍色のポリエステル生地の学生カバンに、蒼白の開襟カッターシャツ、黒いスラックス、無難な黒のスポーツシューズ、
「あなたの見識に期待するや切です。今のところ、お預かりしている方々の中で最も価値のある人は、あなただけですからな。十分にその真価を発揮してもらいたい」
「善処します……」
ホシュウル山中を発ってより3日、与一はイグナティオからの依頼で休憩の合間に教科書の写本を作っていた。写本と言っても、余ったルーズリーフにそのまま手書きで書き写しているために本としては心許ないが、メギイトには知識の殿堂、アレサンドロ書院がある。
世界中のありとあらゆる知識を独自に集めて保管し、多くの優秀な学士たちが日夜研究を続けている場所である。イグナティオは与一の写本を、書院に高値で売り付けるつもりであった。
無論、写本を作るとなるとシャリム語やメギイト言葉など、文字を含めた言語を理解し書き記す事が出来ねばならない。
しかし不思議なことに、与一にはこの世界の言葉が理解出来た。書くことも話すことも聞くことも、すべて人並みに出来たのだ。与一は、つらつらと見たことのない文字を思い起こせる自身が不気味でもあり、少しおもしろくもあった。
(そもそも俺がこの世界に飛ばされた時点で既におかしいわけだし、言葉が解るのも何かの影響だろう……)
結局のところ与一はまだ、自身がなぜこのような世界で亡国の皇子と逃避行をしているかを納得していなかった。
各人の思惑はともかくとしても、たった4人の旅団の旅は多難な事は間違いなかった。
シャリム皇都が12諸侯の謀叛によって陥落し、皇帝が弑虐された。この報は恐らく早馬でシャリム全土に伝えられ、遠からず大きな混乱となるであろう事は想像に難くない。そして、ミナオの町で大暴れをしたことで、皇家に生き残りが居ると知れたため、追っ手が迫ってくるだろう事も確実であった。
ゆえに目下の旅団の目標は、追っ手をかわしつつ、出来るだけ速く移動し、安全に隣国メギイトへと入ることであった。
馬と身ひとつ。財産と呼べるものはイグナティオがファルシールから譲り受けたキースヴァルトの軍馬の群れしかない。
こうして総勢4人と馬の旅団は、メギイトまで3900ジグアリフ(キロメートル)の旅路を歩んでいくのである。
。。。
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