第6章 雲厚く日未だ見えず 1
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夜明けの陽光が遠くに霞むへシリア山地の端から伸びると、橙色の閃光がにわかに青みがかった岩石砂漠を明るく照らした。しかし、山の端と雲の厚い層の間に出来た狭い隙間から覗いた朝日は、すぐさま寒々とした雲に隠れて消えた。
日中の気温は、砂漠を行く者が最も気をつけてなければならない要素のひとつである。暑くとも、寒くとも、それは旅人の命取りとなるからである。
昼頃、シャリムの地には冬の長い足が伸ばされて、驚くほどの冷たさが盆地の砂漠に垂れ込めていた。
「ねえ! 砂漠って熱いもんだよね?? これ何!!?? チョー寒いじゃん!?」
与一が荷馬車の御者席で身体のあちこちを激しく
「ファルシールさんや!」
与一は慣れない手綱を握りながら、荷馬車の中で食料を小出しにしていた白銀の髪の皇子を急かして呼んだ。
「知らぬ! 余に喚き散らすな! 冬が始まったのだから当然ではないか!」
どうやらファルシールは寒波が来ることを知っていたようで、すでに服を何枚も重ねて着込んでいた。
大気中の湿り気が肌に接して、そのまま凍ったように冷たい。時折吹く西風は、荷馬車の角を擦って嵐の日のような音を立てている。砂が時おり風で渦巻いて舞い上がり、頬に打ち付ける。与一は身震いをひとつして、またファルシールに喚いた。
「ずるいって。俺にも何か羽織るもん出してよぉ~。寒いし砂が痛いぃ~」
「余に言うな! 自分で取れば良いであろう!!」
与一とファルシールは、そんな他愛のない言い合いをしばらく続けていた。
イーディディイールから発って半日、セグバントに反撃して半日が過ぎた。ファルシールが与一に馬の扱いを教え、与一が御者をする。進路は土地勘が多少あるファルシールが時々確かめて示した。へシリア山地を右手の遥か遠くに流しつつ進めば、ミナオへと辿り着く算段である。与一が御者に専念する一方、ファルシールは腰に下げた
「今は手離せないしさ、トモダチだろぉう?」
与一は悪い顔をして言った。
「と、友か......友達か......そういうものか......」
ファルシールは少し逡巡したが、しぶしぶ麻袋から厚手の布を引き出すと、後ろから与一に投げ掛けた。
「それでも巻いておれば多少ましだろう」
「ありがたや~ありがたや~。さすがファルさん。頼りになるぅ~!」
「ファルさ......!? この道化め......」
与一はファルシールの不機嫌な顔を横目に布ぐるぐると頭から肩に巻き付けた。これでしばらくは風が気にならない。
「(また熱を出されても困るしな......)」
ファルシールは聞こえないくらいの小さな声で呟いた。
「え?」
「何でもない! それより手を動かせ! 口を動かす暇があったら馬を動かすことに専念しろ! なるべく早くミナオに着かねばならんのだ!」
「無茶言うなって。ただでさえ馬なんて慣れないんだからさぁ」
「だが、急いでもらわねば困る」
与一にはファルシールが焦っているように見えた。この道中、ファルシールは何かと与一を急かす事が多かった。イグナティオという商人に騙されてイーディディイールで一日分の足止めを食らったことが一番の理由であろうが、ファルシールには、まだ別に理由があるらしかった。
「何で急いでんのさ。キースヴァルトに追い付かれるから?」
与一は訊いてみた。
「まあ、それもある」
ファルシールは檻の端に腰掛けて答えた。乾いた平たいパンと水が入った革袋を手に、早めの昼ご飯である。
与一は、ファルシールが固そうなパンに大口を開けてかぶりつくのを物欲しそうに見つめた。
「なんだ」
不意に与一とファルシールの目が合って、ファルシールは気付いたようにパンが入った食料の袋を投げようとしたが、思い直して持って起き上がり与一に渡した。
「ありがてー! そういえばしばらく何も食ってないんだよなー」
ファルシールはそのまま与一の後ろの、檻の外側に縛り付けているセグバントが見える場所に座り直した。
与一はさっそくなかなか噛みきれないパンに齧りついた。乾燥したパンは水分が少ないために外気で冷えておらず、むしろ唾が染み込んで仄かに温かくなる。
「これ、うまい......ナンみたいだ」
当たり障りのないパンの甘みが、口に広がった。思わず、ずっと口に含んでいたくなる。熱を出して、丸一日、眠っていた事もあって、食欲はそこまでないものの、口にいれればするすると腹に入っていく。
与一は革の水筒で、少しずつ水を飲んでひと心地つけると、もう一枚袋からパンを取り出して質問を続けた。
「それじゃ、家族に無事を知らせたいとか?」
ファルシールは暇な道中を持て余して、与一の面倒な質問に付き合った。
「それもあるな」
ちょびちょびと水を口に含みながら答える。
「それか、敵の情報を一刻も早くしらせるため、とか?」
「それは余でなくとも、伝令兵がもう伝えておろう」
「んんー、じゃ、一番の理由は?」
「妻たちだ」
ファルシールは何気ない声で答えた。
「え......ふぁ!?」
与一がものすごい勢いで後ろに振り返ると、ファルシールは、さも当然の事のように澄ました顔で座っていた。
「お、奥さん......?」
「うむ」
(何その自信に満ちた顔は?! こ、これ、俺の反応がおかしいのか......?)
ファルシールは与一の顔を怪訝そうに見た。
「あのぉ、つかぬことお聞きしますが、お歳は確か......」
「16だ。そなたは17であったな」
「妻"たち"と仰いましたが、それはつまり何人もいらっしゃるという......?」
「21人だ」
与一は自らの顎が外れるのではないかと思うほどに口を開けて唖然とした。そのうち変な震えが始まった。
(うそぉぉぉおおおおおお~~!? 美形で皇子で16歳で既婚者で、しかもハーレム持ちだとぉおお!?!?!?!?)
「理不尽だぜ! 世界!!」
与一は天を仰いだ。
「ヨイチは17であろう? 妻はおらぬのか」
ファルシールは首を傾げた。
「はぁぁあ???? 居るわけ──」
ない、と言いかけて、止めた。強烈な格差に、自分が惨めに見えたのだった。
「......いや?? 俺の世界では??? その年で結婚してる方が逆に少ないというか???? 青少年として、どうかと思いますけどぉ????」
「セイショウネン? 15を過ぎれば成人だ」
(おっふ。これは誤算だったぁあ!! ここは異世界! そう異世界だ! 皇子だし、お世継ぎとか色々考えると、うん、はい、それなら仕方な──)
「でも羨ますぃいいなぁ! おい!!」
与一は感情が入り乱れて、最終的には泣きながら笑っていた。
「だが、そなた、ホスロイの森の中で嫁がいるとか言わなかったか?」
(......お? あ? ......そうか!!?)
「お、おうともよ!! 俺には元の世界に残してきた、愛する嫁が居るもんね!?!」
(画面越しだがね!?)
「なら、早く帰りたかろうよ」
ファルシールは澄ました表情を変えない。
(なにこの皇子さま?? 愛妻家か??? 完璧か????)
「ま、まあ、そうだな! あぁあ~、早く会いたいぜぇ~!」
(そうとも!? 俺の嫁たちがパソコンの向こうで待っているぜ!? 新刊だって買うって決めてんだもんな!? 急がないとな!?)
それは図らずも与一とファルシールの共通の一致となったのであった。
話が何となく途切れて、与一は檻の中に居る人々に目を遣った。私娼たちである。
檻のなかに繋がれていた私娼たちは、相変わらず虚ろな目で小さく座っていた。ファルシールから聞いた香の毒は、それほど長く身体に残るものではないようだった──現にファルシールはもう何ともない──が、長きに渡る矯正の過程で染み付いてしまっているらしく、呼んでも機械的な返事しかしない。
「なあなあファルシールさんや」
「なんだ」
「その人たちにも何か服とか食い物渡してくれないか」
与一は、布切れ同然の麻の娼服では、この寒波には耐えられまいと思って、言った。
「......わかった」
ファルシールは一瞬、与一の言葉の意味を理解出来なかったが、昨晩の自身の事を思い出して、にわかに辛くなった。
ファルシールはすぐ全員に羽織れるものを渡して回った。
奴隷たちは従順に頭を下げて衣服を受け取っていった。それがファルシールには、胸のどこかを刺して痛くなるのであった。
そうして寒々とした砂漠を荷馬車は進み続け、低い太陽が南を越した頃にミナオの郊外へと達した。
「見えてきたぞ。ミナオの城市だ」
。。。
昼下がり、荷馬車の歩みはミナオの城郭が見えはじめた場所で止まった。ファルシールが与一に馬車を止めるよう言ったのだ。
「ミナオの様子が妙だ」
「え?」
5ジグアリフ(キロメートル)離れたミナオを睨みながらファルシールは顔を険しくした。
与一は猛烈な既視感を覚えて身構えた。
(この感じ、なんか峠を越える前の町でもあった気がするな......。ファルシールが何かしら異変を見つけるやつ......。そんで大概その後が悪くなるやつなんだよなぁ......)
ミナオは泥レンガで組まれた高さ10アリフ(メートル)ほどの城壁に囲まれており、ホスロイの町のように直接、町の中を見渡せることはない。だが、目立って変わったことは無かった。荒涼とした広野に、静かにあるだけである。
「旗が違う」
ファルシールは目を細めてミナオの城壁を見ていた。
(そんなん見えないけど......)
「旗って何の?」
「城市には治めている者の旗が揚げられるのだ。それが違っておる」
だが遊牧民の末裔の目は、都会育ちの与一には到底判別できない小さな旗のはためきを確かに捉えていた。
ミナオは皇国の首都アキシュバルの関の役割を担う城市である。東から伸びる街道の上に位置し、伝令馬の駅も内包している。その役割の重要さから、城市の統治は宮廷より遣わされた高官が行い、守護は皇家直属の軍が駐屯して行っていた。
「あれは......皇家のものでない」
旗は軍の所属を表す。先のパルソリア平原での戦いで、大多数の駐屯兵を抜き取っていたが、それでも2000人規模の兵が残っているため、掲げるべき旗は皇家の黒獅子の旗である。青みがかった白地に金糸で
しかし今ミナオの城壁に掲げられている旗は赤で、明らかに白ではなかった。キースヴァルトは青で、それとも違う。
「何かしらアクシデントがあったんじゃないか?」
「軍に何かあったということか......」
ファルシールの顔は険しさをさらに増した。
「わからないぜ? けど、ミナオに着かない事には安全にならないんだろ?」
「ああ」
与一は完全に臆測で言ったが、ファルシールがあまりに素直に聞き入れたために、少し慌てて訂正しておいた。
本来の二人の目標は、峠を越えた後、西進してサキュロエス街道の伝令馬の駅で保護を求めることであった。それはイーディディイールを出てミナオに変わったところで変わるものでも無かった。
「なら早く行こうぜ。近くに行かなきゃ詳しいこともわからないし」
「......そうだな」
荷馬車は再び動き始めた。
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