第3章 イーディディイールにて 4
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夜、欠けが半分を越した月が西の端に半ばまで傾いていた頃、セグバントは小屋の裏手にあるもうひとつのあばら屋で、
昨日夕暮れにイーディディイールの町に届いたパルソリア平原での敗退とホスロイ襲撃の報はあっという間に町中に拡がり、大商人やそれに付随する多くの者たちが町を逃げたした。貧困区はもともと力ない者たちの集まりであるので、ほとんどの者たちが逃げ出す財産も気力も持ち合わせずそのまま残っていた。
セグバントも商品たちをキースヴァルトの好きにされるのが嫌だったので早く退避したかったが、自分の商品を人目につくような時に運び出すのを
セグバントがあばら屋の扉を開けると、中に押し込まれた女子供たちが曇った目を向けた。
閉めきられたあばら屋には、似つかわしくない頑丈な鉄の錠前が掛けられていて、中の
セグバントは小屋の中から選りすぐりの私娼だけを連れていくことにしていた。移動中も食事を与えねばならず、逃げられないように監視せねばならない。目の届く貧困区の中ならまだしも、荷車で移動している最中に逃げられても困る。管理がしやすいように少数を取捨選択して連れるのである。
ひとり、またひとり、と中から引っ張り出し、セグバントは檻を取り付けた荷馬車に乗せていく。その中には朝に買い付けた銀髪の少年と熱を出していた少年も含まれていた。
ふたりとも眠りについたまま目覚める気配が無かったので水をかけて起こそうとしたが、
馬2頭立ての馬車は、進み始めた。横には一匹の荷運び用のロバも居る。セグバントは馬二頭を飼えるくらいの財は持ち合わせていた。
10人の選りすぐりだけを載せ、他の者は置き去りする。残された者の行く末は、セグバントには知ったことではなかった。
セグバントが向かっていたのはイーディディイールより北へ一日、皇都アキシュバルより東に半日の、ミナオという町だった。
ミナオはイーディディイール同様、宿場町として栄える町である。東から皇都へと上る商人や旅人は、ミナオに設けられた関を通らねばならず、ミナオはその通行税と皇都への通行証の発行で富を得ていた。必然的に繁栄し、その影として貧困区も形成されている。
セグバントは、皇都に近いミナオなら守備も固く、憂さを晴らしたい兵士たちの需要があると考えたのだ。
イーディディイールを出れば、しばらくは岩石砂漠の道が続く。人目につくサキュロエス街道は通らず、砂漠を直接通り抜けて向かう。
ファルシールが馬車の揺れで頭を打って飛び起きたのは、外の空気が吐く息を白くするほど冷えてきた頃であった。
「ここは......」
身を包む装備が、眠らされている間に鎖帷子から粗雑な麻のボロ着一枚に着せ替えられていたので、寒さは直に肌を刺した。
荷馬車の檻に横たわっていたらしいファルシールは、まだ毒が残っているらしく力めないながらも上体を起こすと、周りの様子を見て驚いた。
女子供が8人鎖に繋がれて座っているではないか。よく見ると、その鎖は自分の足にも足枷を介して続いていた。女子供たちは、慌てふためくファルシールに何の反応もせず、焦点の合わない目をあちらこちらに向けていた。セグバントはファルシールが嗅がされた毒の香を他の者たちにも嗅がせておいたのたった。
ファルシールはこの状況に見覚えがあった。これは宮廷を抜け出した先の町で一度だけ見たことがある奴隷たちの雰囲気そのものであった。
(私は
ファルシールは助けを求めようと声を上げかけたが、檻の外に見える夜の砂漠を見て無意味だということを理解した。そこで自分の隣に横たわるもうひとりの存在に気が付いた。
(ヨイチ......!)
見知った者がひとり居て、ファルシールは安堵しそうになったが、与一が熱を出していたのを思い出して、急いで与一を確認した。
人肌の温度にまで下がっていて呼吸も穏やかになっている。どうやらセグバントが与一に飲ませた薬は本物だったらしい。
(あのオトコオンナめ、私にこのような事をして、許されると思っているのか!?)
ファルシールの動揺は次第に怒りへと変わっていった。
かといって、ファルシールにはこの状況をどうすれば良いか分からなかった。宮廷では
この状況を打破できる策もなければ、事を起こす気概もない。
(私は、ひとりでは何も出来ないのであったな......)
ファルシールは怒りがにわかに冷めていくのを感じた。替わりに無力感が拡がっていく。
荷馬車を駆るセグバントの後ろ姿が、檻に掛けられた
ファルシールは取り敢えず目が覚めた事をセグバントに悟られないよう、大人しくまた横になった。しかし、砂漠の夜風の冷たさは動かない薄着の身から容赦なく体温を奪っていく。
横には何も知らない与一が、眠っている。その寝むりぶりは、一周まわって清々しくさえ思えてくる。
(この大事にそなたは寝
ファルシールは周りに死んだように座り込んでいる奴隷たちに再び目を向けた。
身分としては皇侯貴族の中でもほぼ最高位にあり、生まれてからこのかた衣食住に困ったことはなかったファルシールにとって奴隷という身分は得体の知れないものであった。
鎖に繋がれ奴隷商人にラクダの隊列を引くように連れられる彼らの光景はシャリムの町々ではごく普通に見られるものである。聞けば、食事や服、その生命までもが主人の思うがままという。好きなときに別荘の城へと行き、馬たちとともに所領の草原を駆けて遊ぶ。そのような自由も無いなど、考えもしなかった。
そうであったので、いざ己がその身になったと言われても、ぱっとしなかった。
制度として存在する以上、その身分は皇室の名のもとに定められているわけであるが、シャリムの国土は広大である。結局のところ少数の支配階級のシャリム人が被征服民の不満の矛先を向ける差別対象として措いているに過ぎなかった。
皇族である自身の立場が揺らぐことが無い限り、一生無縁であるはずだった。
しかし、じんわりと込み上げてくる無力感には何も出来ない自分の情けなさとは別に、その身分になって初めて感じた"支配"の屈辱と虚しさがあった。
(鎖一条だけで、こうも苦しいものなのだな......)
そう思うと、先のことを考えられなかった。
(主神ムクシュ=ハールドは、お導き下さらないのだろうか──)
それは、二度目の神への請願であった。
そこで"ヨイチ"という存在に考えが巡った。
(斯の者の存在を、仮に都合よく現れた不届きな異邦人とするなら、実に時宜を得た時に現れたものだ。何やら頭はきれるようであるし、思いもよらぬ事も思い付く......)
思い返してみれば妙な事は多々あった。服装であったり、持っている知識であったり、何よりも与一自身が、この森に飛ばされてきた、と言っていたこと自体が妙であった。最初は間者か頭がイカれた村人だと思っていたが、湖畔でキースヴァルトを
もとから持っていた疑念は、ここへ来て初めて信じたい事実になろうとしていた。
(仮に、だ......仮にヨイチを主神が私の請願を聞き届けたもうてお遣わしなされた"賢者"と考えるならば、私の今の状況は主神ムクシュ=ハールドが与えたもうた試練のひとつなのではなかろうか......?)
これが誠であるとすれば──。
ファルシールの脳裏からは、先ほどまで感じていた劣等感が徐々に消え去り、代わりに希望とも言うべき期待が湧いてきていた。
恐るべき信条の力である。ファルシール自身は、そこまで国教に信心深い部類では無いが、なるほど戦好きな皇族の祖先達が戦場において幾度と無く神に救われてきたという言い伝えが残る理由にも頷けた。
改めて自分の周りを見回すと、案外この檻がついた荷馬車は丈夫ではなさそうであった。隅の木材が朽ちていたり、留め金が錆びて表面が剥がれかけていたり、うまくすれば逃げられる様子であった。
(私にも何かできるだろうか······)
すると、砂漠の中を進む荷車に平行して進む2頭の別のロバが見えた。背中に食糧や色々な麻袋を積んでおり、どうやら荷物を運ぶために使われているらしかった。
(あのロバに何とかして乗って逃げることも出来ようが、鈍足のロバでは馬から逃げられまい······)
だが、そこでヨイチのホスロイでの"
(あの時は馬を逃がして陣を混乱させていた。もし私があのオトコオンナなら──)
荷車が石を乗り越えて少し揺れた。
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