第3章 イーディディイールにて 5

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 月夜の砂漠の静寂を馬のいななきがつんざいた。セグバントが慌てふためき、急に馬車を止めたのだ。突然、ロバが繋いでいた綱を引きちぎり、明後日の方向へと逃げ出したのである。ロバの背にはセグバントの大事な食糧や財産を積んでいる。それらを逃しては、ミオナに着いても意味がない。


「なによぉっ!! 勘弁してぇ!!」


 セグバントは荷馬車を引く2頭の馬のうちの1頭を馬車をから外すと、急いで逃げたロバを追った。


 ここまではファルシールの予想通りであった。錆びて表面が板状に剥がれかけていた檻の格子の留め具を足枷の鎖でこじ開けて剥がし、ロバと荷馬車を繋ぐ綱に切れ目を入れておいたのだ。あとは鉄片をロバに投げつけて驚かせてやれば、もロバが綱を引きちぎって逃げだしたように装える。だが、セグバントが抜け目無く、残した荷馬車に車輪止めを掛けて去っていったことは、予定を狂わせた。


「あのオトコオンナめ、要らぬことを······」


 ぼやいてはみるが、ロバの足の速さなどたかが知れているので、次の行動へ移った。


 格子の内側の結合部は木材を組み込んだもので、長年の風雨により根元が朽ちかけている。本来であれば女や子どもでも、体当たりをすれば逃げられるような脆さであるが、香の毒によって虚無となっているため叶わなかったのだろう。そのお陰で、セグバントが修繕を見送っていたことが功を奏した。


 こういうときファルシールは考えるよりも体を動かすことにいといがない。


 足枷の分、助走はあまりつけられないが、ファルシールは目一杯の力と全体重で御者側の格子に体当たりをした。


「······っ!? 痛!?」


 一度では折れない。そう簡単でないとは覚悟していたが、突進した右肩が予想以上に痛い。だが、ここで檻を破れねば勝機はない。


 二度、三度と繰り返す。セグバントがいつ戻ってくるか分からず焦りが募った。


 しかし、何回目か分からないくらいに体当たりをした頃、布を割くようにすっぽりと身体が檻を破って飛び出した。


「······よし!」


 そこから荷馬車の残された馬の手綱を引き寄せようと手を伸ばす。


 足枷が伸びるぎりぎりの距離で馬の手綱に手が届くと、そのまま御者席の下にある馬の荷馬車を繋ぐ金属の留め具を外した。そのあと、自由の利くようになった馬の手綱を自らの足枷の鎖にくくりつけて手綱を振った。


 馬は急に来た手綱に驚いたように歩き出す。ファルシールの足枷に手綱が引かれて少し出端を挫かれたが、ファルシールが絶えず進むよう尻を蹴っているので強く動き続けた。あわや荷馬車ごと動き出すのではと思われたが、車輪止めのおかげで車体はつっかえて動けない。嬉しい誤算である。


 しかし、ギリギリと鎖が引かれて、檻の中央に留められた釘が木製の床面から跳ね上がり、もうすぐで全員の鎖留めが外れる、というところで、横目に遠くで砂塵が舞っているのが見えた。セグバントである。


(もう戻って来たか......!)


 ファルシールは元々、檻を壊して馬で逃げようと企てていたが、セグバントが帰ってきた時の事を考えていなかった。


 ファルシールは馬を余計に捲し立ててて外れかけていた留め具を外しにかかる。


 留め具を留めていたネジが床板を割いて檻の中で跳ねとんだ。それと同時にファルシールが手綱をくくりつけた足枷の鎖が有り余る馬の脚力に引かれて宙に舞った。


 ファルシールは受け身を取る間もなく背中から砂漠の冷たい砂上に転がり落ちた。


「何してんのぉ!!?」


 一部始終を見ていたセグバントの薄ら高い怒号が響く。


(まずい......!)


 セグバントは馬を駆ける速度を上げて迫ってくる。


 ファルシールは慌てて何か武器になりそうなものを探すが、手の届く範囲に適当なものが見当たらない。


 セグバントは檻から逃げ出そうとしているファルシールを逃がすまいと、腰に差していた小刀を抜き放った。猛烈な勢いで荷馬車に駆け寄り、御者席であたふたとしていたファルシールに突き掛かる。


 しかし、小刀では間合いが足りず、刃はファルシールの耳元を掠めて御者席の床板に突き刺さった。セグバントはすかさず引き抜いて、ファルシールに小刀を向けた。


「いいこと。ここは砂漠の真ん中。あんたが逃げたところで、干からびて死ぬか、寒さで凍え死んでお陀仏になるのがオチよ!」


 セグバントは馬上から叫んだ。ファルシールは寸でのところで避けて、御者席に立ち上がった。鎖は既に外れているが、根元で他の奴隷たちと繋がれたままである。ろくな武器も無く、弄した策が外れたこのまま大人しく檻に戻ったところで、待っているのは例の毒の香であろうことは予測出来た。もし、次にあの香を嗅がされたとすれば、檻に虚ろに座り込んでいる奴隷のようになるのは必至であった。


 逃げ場はない、とすれば──。


「いや、勝機はある......!」


 ファルシールは御者席に垂れていた手綱を足でセグバントの顔に向かった蹴りあげた。自らの足枷の鎖もろともセグバントの眼前に舞い上がる。


「無駄なことを! ......っ!?」


 セグバントが手綱に気を取られて一瞬注意を逸らした隙をついて、ファルシールはセグバントの乗る馬のくびの弱い部位を強く蹴った。馬は突然よろめいて膝を折って横に倒れた。セグバントは砂漠に放り出され、小刀が宙を舞って砂漠に消えた。


「ちょっと何よ!? 立ちなさい! コラ!!」


 セグバントは倒れた馬を立たせようと手綱を起こすが、馬は痙攣して頭をバタつかせて立ち上がらない。


 馬はこの部位に強い衝撃を受けると、腰が砕けたように立てなくなる。ファルシールはそれを知っていた。


 これで、騎馬兵を地面に叩き落とす事が出来た。


 セグバントは馬と地面に挟まれた脚を力ずくで抜くと、すぐさま立ち上がって、静かに構えた。


「もう許さない。少し傷がついても買い手はいるだろうから手加減したのに。──殺す」


 セグバントの口調が荒々しく変わった、と思ったのは束の間、セグバントはその大柄で筋肉質な体躯の力を最大に使い、ファルシールに飛び付き、組倒した。


「なっ......!?」


 セグバントの全体重がファルシールの上にのし掛かり、ファルシールは御者席に押し付けられた。起き上がろうと頭を起こすと、セグバントの骨張って太い手指が首を押えて締め付けた。


「......っん!」


 首を締め上げる力で荷馬車が軋む。ファルシールはますます強くなるセグバントの腕を振り払おうと暴れるが、セグバントの強い膂力りょりょくで押えられていて、びくともしない。


「ほんとに惜しいわ。こんなに良い白い肌で、気品のある顔立ち。青年に成りきらない拙さを纏ったこの身体。あたしが潰してしまうなんて勿体ないけど」


 砂漠では他に気を使うということが命取りになる。商品が逃げるともなれば、無駄な体力を使って監視して抑えなければならない。そうであれば確実に動けないようにして殺してしまうのが最良である。


「言うことを聞けないなら仕方ないわ」


 セグバントは余裕をも伺わせる口調で言うと、粗い麻の薄い布切れで作られた娼服の隙間から、首を押えていないもう片方の手を忍び込ませてファルシールの横腹を擦り撫でた。


 ファルシールに言い知れぬ悪寒が走った。セグバントのファルシールを見つめる視線には、殺意と獣欲に躍る光が差していた。しかし、ファルシールにはなす術がない。


「は、な......せっ......」


 息を吸いこもうとする胸腔には、喉が絞まって微かな外気しか入らない。ファルシールは、先ほどまで力んでいた力がだんだんと抜けいくのを感じた。


 ファルシールの力が抜けていくのを感じ取ったセグバントは、絞める力をさらに強める。同時に執拗に服の内側をまさぐって悦をる。


 ファルシールはセグバントが高揚で荒い吐息を吐きながら嗤う顔を、ゆっくりと暗くなっていく視界の中央に捉えながら、音にならないほど矮小な声を漏らした。


「たす...け......っ」


 その時、月光を背負うセグバントの影を何かが遮った。


 次の瞬間、鈍く重い何かを殴る音が鳴り、セグバントの影がファルシールの上に力無げに落ちた。


 途端、首を絞める腕の力が抜け、ファルシールはそれまで吸えなかった空気をようやく吸い込んだ。急に吸い込んだために少し液を飲み込み噎せかえるが、外気を求める体はしばらく絶え間なく息を吸い込んで吐き出した。


 呼吸が整った頃には、セグバントの重さを感じ始めたので、まだ力が入らないながらも腕で身を返してセグバントを上から落とした。


 そこで初めてファルシールを呼ぶ声が耳に入ってきた。


「──おい! あんた! 皇子さま! ファルシールさん!?」


 騒々しい呼び声は、どうやらファルシールの呼吸が整うまでの間、ずっと発せられていたものらしく、鬼気迫る様相である。


 この場に居る者たちの中でファルシールの名を知っており、かつ高貴な身分の者を"あんた"と呼ぶ無礼者を、ファルシールは一人しか思い付かない。


「......ヨイチか」


「ヨイチか、って何だよ!? 物凄い音がして目が覚めたら、何か変な男があんたの首絞めてるじゃんか! めちゃくちゃ焦ったぞ!?」


 ファルシールにはこの騒がしさが妙に懐かしく感じられた。


(おかしいなものだ。こやつと会ってから、さほど時は経っていないのに、こうも昔より見知った仲に感じるなんて)


 与一の右手には檻の壊れた木片が握られている。どうやら咄嗟に木片でセグバントを殴打したようだった。


「てか、この人、何? ......もしかして、死んじゃった......?」


 与一は御者席から砂漠に転がり落ちていたセグバントを気遣っていた。与一はあからさまに青ざめている。与一にはこのオトコオンナが一体どういった者か分からなかった。キースヴァルトの者と思ってファルシールを助けたものの、人などを殴った事のない与一は、途端に恐ろしくなった。


「......死んではいない、おそらく」


 ファルシールはゆっくりと起き上がると、幌の掛かった檻の端に背中を預けて、与一が落馬してからの顛末てんまつを語った。


    。。。


 ファルシールは一通り話し終わると、与一とともにセグバントをロバの背中の荷物にあった在り合わせの縄で檻に縛り付けた。念入りに足から首まで、動けそうな所は全て固定しておく。壊れやすい檻の事を考えると、気休めにもならないが、目が覚めた際に自由に動かれる方が厄介である。


 ファルシールから話を聞いた与一は、峠越えの途中で追ってきたイグナディオと名乗った男が全ての元凶であり、己がこの事態の発端になった事に、実感が湧かないながらも動揺していた。


「なんか、俺のせいで、その......」


 与一は言葉に困った。


「全くだ。とんだ目に遭わされた」


 ファルシールはへこんでいる与一を追い立てるように言った。


「余がこのような下賎の者と共の身分に堕とされるなど、考えたこともなかった。挙げ句、色を満たすしょうにされるとは。このような事態を招いたそなたは、万死に価する」


 ファルシールは声低く続けた。与一は直接的すぎる非難に備えがなかったので、頭を打たれたように落胆した。だが、ほいほいと騙されたのは皇子ファルシールであって、元凶が誰であれこの事態へと結びつけたのは彼である、と与一は内心思った。


「が、まあ......余を助けたことも加味すれば、相殺とすることもやぶさかではない」


「......っえ?」


 ファルシールはゆっくりと与一に向いた。


「一度、二度のみならず、三度も余の命を救ってくれたこと、シャリム皇国第6皇子として格別の感謝と敬意を持ってむくいよう」


 ファルシールは真摯な眼差しで与一に言うと、片ひざを折って跪き、深々とこうべを垂れた。皇族が膝を突く時、それは発した言葉に対しての誠意の体現であり神格の名シャリムを戴く者が最上の敬意が払う礼であった。先ず以て、己より身分の低い者に対して行われるものではないこの礼は、今、確かに与一に向けて行われていた。


「感謝する」


 ファルシールは檻の中で目覚めた時、己が如何に無力で矮小な存在であるかを否応なしに思い知らされた。その中にあって、与一という存在がどれほど己のしるべとなったかを静かに思い返したのだった。


「えっ、ちょっ!? 何やってんの!?」


 与一は"皇族が"というより、人に頭を下げられる、しかも跪かれる事に焦った。加えて今まで高慢な態度を取っていたファルシールがあまりにもうやうやしいので、驚きを隠せなかった。


 与一はすぐさま自分もしゃがみこんでファルシールに頭を上げるよう促した。


「俺の方こそ町で殺されかけてたの助けてもらったし、ぶっ倒れてから今までだって色々迷惑かけてたし! 礼を言うのは俺の方だって!!」


 肩を起こそうとしてもファルシールは立ち上がろうとはしない。


「......まいったなクソ......!」


 与一は考え込んだ。


(何か恥ずかしい......)


 だが、詰まるところ、与一はニホンジンであった。


「......俺としては、こっちの世界ではあんたが一番頼りなんだ。だから、その......俺こそ今後も宜しくお願いします!」


 与一は正座になって頭を下げた。


 それからしばらく無言の時間が続いた。夜の砂漠の風が二人の座る荷馬車を吹き抜けた。


 意外にもその静寂を最初に破ったのはファルシールの方であった。吹き出すように笑い始めたのだ。


「ハハハ! 奇妙なものだな。そなたとこうも堅苦しい風になるのは」


「えぇ......あんたが先にそんな雰囲気にしたんじゃんか......」


「うん。そうだな」


 ファルシールは立ち上がった。


「いま余には礼としてそなたに贈れる品が無いのでな、こうしよう」


 ファルシールは娼服をはたいて見せると、与一を立ち上がらせた。


「余の目的とする場所までの道のりはまだ少しある。そなたの言うとおり、これからしばらくは共に行動するわけだ」


 与一は軽く頷いた。


「そうであれば、互いに呼ぶときに不便であろう。余はどうやらそなたを、たいそう気に入っているみたいでな。余の事を名で呼んでも構わんことにしようと思うのだ」


 ファルシールは少し自慢げに言う。


「えっ......?」


「分からぬやつだな! そなたを"友"とする、と言っておるのだ」


「......それって良いのか......?」


 与一は一応目の前の少年が皇子という身分だということは覚えていた。今までの自分の言動は、対するに相応しくなかったとは自覚していたが、些か躊躇われた。


「そう言っておろう!? それに今、そなたは余のことを"あんた"などと呼びよるしな。そう呼ばれるよりかは幾分かマシというものだ」


「ああ、なるほど......」


(そういうことなら、そう呼ばせてもらうかな)


「じゃあ俺の事も与一で良いよ。まあ、すでに呼んでるけど」


「なら決まりだ。ヨイチ」


 ファルシールはにこやかであった。宮中では皆ファルシールよりも年の離れた給仕としか話さないために、同世代で気の置けない"友"を得る機会はほとんど無かった。ファルシールは現状を忘れて浮かれている風であった。









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