第3章 イーディディイールにて 3

    3


 太陽はへシリア山脈の山の端からようやくイーディディイールへとその光を落としていた。イグナティオは小屋を出ると器用に寝転ぶ浮浪者たちの隙間を縫って、もらい受けた馬のところへと向かった。そんなイグナティオは報酬を目の前にして喜ぶでなく険しい顔つきであった。


(あの銀髪のガキ。間違いなく皇族だ。どこぞの貴族のぼんぼんならまだいけたが、皇族ではまずい。非常にまずい)


 ホスロイの峠道で思い付いたたくらみでこの貧困区へとファルシールらを連れて来たが、ここへきて実行に移すことを躊躇ためらった。相手が皇族かもしれないためである。


(あのガキが下げていた短剣の鞘の黒獅子の金細工、間違いなく皇家の紋章だ)


 小屋に入って間近で見て確信した。


 イグナティオは職業柄、様々な者と取り引きをするので、シャリムの皇族に関することも勿論知っていた。黒い獅子は初代皇帝アル=シャースフの異名である。シャリム皇家はその獅子の頭のモチーフを紋章として掲げている。そのような紋章をあしらった物を使うことを許される者は、皇族の中でも本流の血族の限られた者のみであった。


 イグナティオがふたりを連れ込んだのは、貧困区にある売春小屋であった。熱を出している方は適当な奴隷商に売り付けるとして、銀髪の方は見目が良く男であろうと欲しがる"物好き"は多くいるだろうと考えていたが、皇族ともなればそうもいかない。ここイーディディイールは皇都の目と鼻の先であり、下手をして宮廷に見つかって保護されでもすれば、自分の足がつくのは確実である。


 何より死罪になってまで得たい金ではない。それよりも皇族との繋がりを持つことで、更なるとみが得られる方を選ぶのは商人として当然の判断であった。


 その上で、イグナティオは迷っていた。


 現行の皇族の立ち位置は、危うい砂の塔の上にあった。


(諸侯の離叛、権威の形骸化、度重なる東方遠征、昨日の敗北。ひとつ木片を抜けば積み木を倒すように崩れ散るような国だ。従来のように安定した後ろ楯として期待を掛ける事が叶わぬ)


 イグナティオは馬の頭数を数えながら、結局、そうであるあるなら、皇国が崩れて皇族の後ろ楯の価値がなくなる前に売り捌いておけば、銀髪のガキが客をとった回数分の報酬を持続的に得られる、と考えてふたりをそのまま売り飛ばす事にした。


 本業はきとんとした商品を取り引きすることだが、値がつくものならば何でも商品として見る。イグナティオは商品の紹介料として商品が稼いだ金の2割を貰うことにしている。


(ホスロイであのガキらが逃げるきっかけを作ってくれたのは大いにありがたいが、金にならねば意味はない)


 数え終わるとイグナティオは一番屈強な馬を先頭に立てて、自分は後方の馬に跨がった。


(後の事は売春小屋を執り仕切るセグバントに委ねておけば、いつもの事であるから理解しているだろう。俺はさっさと退散するとしよう。このような場所に長居は無用だ)


「銀髪の名も知れぬガキ、俺は嘘は吐いていないぞ? 今後ともお前がその身で金を稼ぎ俺に納め続けることが"取引"なのだからな」


 イグナティオは指笛をファルシールに聞こえないよう小さく鳴らして馬を進めた。


 目指すのは皇都であった。


    。。。


 ファルシールはイグナティオの退出は一時のものであると思っていたが、四半刻が過ぎてもなかなか帰ってこないので業を煮やしていた。その頃、例のオトコオンナは薬を煎じて戻ってくると、与一の口にさじで息を吹きかけて冷ましながら薬を飲ませていた。


「だいぶ落ち着いて来たみたいね~! 私のクスリは良く効くので有名なの! この分だと明日には元気になってるわ!」


 オトコオンナはにんまりと笑って言う。


「そうか......」


 ファルシールは半信半疑であった。オトコオンナの持ってきた薬の色が、自分が風邪を引いてよく宮廷で処方されたものとは全く異なっていたからだ。匂いはまさに薬草そのものだが、どす黒く濁って濃い紫色をしていたので気になって仕方がない。飲まされていた与一も心なしか眠っていながら苦悶しているように見えて、口当たりのよいものではないことを思わせる。


「良薬は口に苦し、よ~」


 オトコオンナはファルシールの不審そうな顔を見て、付け加えるように片目を瞑って微笑んだ。ファルシールもひきつりがちに笑み返した。


 確かに与一の顔色は先ほどに比べて幾ばくか良くなっている気がしないでもなかった。


(ヨイチめ、気を揉ませよって......。このお代は高くつくぞ)


 ファルシールは寝台で眠っている与一をひと睨みして、やっと心を少し落ち着けた。まだ街道の駅駐屯兵の屯所には辿り着いていないのに加えて貧困区という場所に身を置いている現状は、とても安心できるとまでは言えなかったが、考えてみれば平原からこの小屋まで絶えず追われ、逃げ続けていた。倒れないで座っている自分が信じられないほど疲れているはずが、今の今までそれを感じることはなかった。そのくらい息つく暇がなかったのだな、とファルシールは思い返した。


 一方、オトコオンナは空になった薬の椀を側にあった机に置くと、頃合いを計ってファルシールに向いた。


「ねえあなた、お名前を教えくれな~い? 名前を教えてくれないと呼びにくいじゃない? 私はセグバントっていうの! あなたみたいなカワイイ子に会えて嬉しいわぁ~!」


 唐突にやかましい声で聞かれてファルシールはびくついた。


「断らせて......いただく」


「あらぁ!! ケチな男の子は同年代の女の子にはモテないわよ~」


 セグバントと名乗ったオトコオンナは、ファルシールに身を乗り出して詰め寄った。ファルシールは香水の匂いが甚だしいセグバントに壁まで気圧けおされた。


「つ、連れを診てくれたことには大いに感謝するが、遺憾にも身を明かせぬ故、容赦されよ......」


 再度丁寧に断った。


「それは困ったわねぇ......あなたの愛称を考えてあげたかったのだけれども」


 セグバントはファルシールの身なりを下から上へ舐めるように見分した。


 鎧の下に着る鎖帷子を纏っているところから察して、セグバントは少年が戦に負けて敗走している途中であることを確信していた。またイグナティオが連れてくる商品は、大概どこかの貴族や良いところの子女で、少年もおそらく貴い身分であることは分かっていた。


(落ち武者って言い方は似合わないけれど、楽園を追われた幼気いたいけな仔鹿ちゃんってところかしら。お友達つきだなんて、ますます"そそる"わね)


「......愛称?」


「そうよ! あなたは今後とも私の店で働いてもらうのだもの、呼び方がなければお客様だって困るでしょ?」


「......な、何を言って──」


 その時、ファルシールは急に力が抜けるような眩暈めまいに襲われた。視界がぼやけて目の前のものが2つ3つに増え、被って見えはじめる。


「なん......だ、これ、は......」


「あらあらあら! ようやく効いてきた感じぃ~? 結構しぶとかった方よあなた~。きっと小さい頃から毒に慣らされてきたのね。今までのコの中で一番遅かったわよ~」


「毒......だと......」


 ファルシールは意識が遠退く中、部屋の隅に置いてあった香炉こうろに目をやった。赤みを帯びた白い煙が細く立ち上るその香は、小屋に入った時からすでに焚かれていた。


「そうそ! ご明察よ~。あのお香がね、いい感じに心と身体を麻痺させるのよ。あなたは強いから心までは麻痺してないみたいだけど。あ、でも安心して! あなたのお友達とは、しばらくは一緒だから」


 セグバントは立ち上がって東方風の円卓の下から鎖が連なる鉄の足枷あしかせを取り出した。


「おま......え......」


「悪く思わないでね~! あなたはとっても素敵な商品になるから手荒な真似はしたくなかったのよ~」


 ファルシールは腰に下げた短剣を抜こうとしたが、ますます薄くなっていく意識に抜く気力を奪われ、ついに自分の頭を支える力を失って、項垂うなだれるように落ちた。倒れ際に与一が横目をかすめた。











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