3辺目・再起

 少年の意識が繋がった。朝起きるとき、目覚めてから目を開ける前までのほんの数秒と同じ感覚。少年はそっとまぶたを上げた。視界に……いや、それ以前にこれは視界なのだろうか。そこには真っ白な世界が映し出された。


 「……。」


 少年はまだ思考できるほど頭が覚醒していなかった。ただ、体の背面に自重が乗っていることは分かった。そして、その背中の感覚から、どうやら自分は柔らかいものの上に仰向けに倒れていることに気付く。


 「……。」


 そんなことを感じていると、真っ白だった世界が徐々に明暗を帯びてくる。少しずつ戻ってきた思考回路で、細々と考え始める。妙に明るいところとそうでないところ……そしてどうやらこの白い世界は正方形が繋がって出来ているようだ。


 「……!」


 少年は、自分の見ていたのもが天井であり、自分はベッドの上で仰向けになって寝ていることに気付いた。とにかく、起き上がろうとする。しかし、どうやっても体が動かない。体中の筋肉が全て取り去られてしまったかのように、動かそうとする部位に全く力が入らない。


 体を動かす以前に、全く状況も掴めない。そもそもなぜ自分がここにいるのか、ここはどこなのか。そのまだ半分も覚醒していない頭で必死に考えるが、思考はまとまらない。何とかしてとりあえずは起き上がろうとするが、起き上がれない。少年は呼吸に交じって口をパクパクと動かすことぐらいしかできない。


 すると、近くで「先生!患者が目覚めました!」という高い声が聞こえる。


 「……。」


 少年は、ようやく回り始めた頭で考える。「患者……俺のことか……?高い声……女性だな。そんでこの天井……。」そして、意識が繋がってから秒針を3週ほど走らしたところで、「まさか……ここは……。」


 「病院!?」


 少年は答えにたどり着き、答えをシャウトした。が、それは声ではなく、ただの吐息としてしか吐き出されなかった。




 それから、少年のベッドの周りには複数の大人、つまりは医師であったり少年の両親であったりが寄ってきた。医師の力を借りて、少年は何とか上体を起こした。医師が、意識の確認のために少しの会話を持ち掛けてくる。名前、年齢、親の名前、などなど、記憶のチェックをされる。しかし、「なぜ君がいま病院にいるか分かりますか?」という質問には答えられなかった。


 その反応を見て、医師からは少年が海で溺れ、それを目撃していた人からの通報で救急隊が出動し、病院に運ばれたこと、少年は丸々3日間も目覚めなかったことが説明される。両親は、その横でずっと涙目で「良かった……良かった……。」と、絞り出すような、こぼれだすような声を発していた。


 少年は、医師の説明を聞いて、自分が海に遊びに行き、そして溺れたのだということをはっきりと思い出した。しかし、何かまだ記憶に大きな穴がある。そうだ。確かに自分は海に行った……。行ったが、ひとりではなかった……。


 「……っ隼人、隼人はどうしたんですか!?」


 少年はあふれ出した記憶に声を乗せて、医師に問うた。


 「ああ、彼なら君より半日早く目覚めてるよ。君と一緒に運ばれたんだ。彼も無事さ。本当に不幸中の幸いだったね。」


 と返事が返ってくる。良かった。隼人は生きてる。途端に安心感が充満し、少し乗り出しぎみになった上体を、元に戻す。医師は説明を続ける。


 「隼人君から詳しい状況を聞いたよ。君たち、疲労困憊するまで遊んで、それからしばらくジッとした後に急にダッシュしたんでしょ?隼人君が急に意識を失ったのは、疲労と、それから急に動いたことによる酸欠だね。君もおそらくそれに類する原因で気を失ったんじゃないかな。」


 そうだ。たしかに少年と隼人は無意味なダッシュ競争をした。ああ、なんてくだらない理由なんだ、と少年は自身に呆れる。しかし、それと同時に自分と隼人が生きていて良かったと心から安心する。齢17、8にして死にたくはないのだ。彼女ができたこともないし、まだまだ人生やり残したことだらけなのだ。


 「今、隼人はどこにいますか?」


 とりあえず、会えることなら早く隼人に会いたい。


 「さっきも言ったけど、彼は半日前に目覚めたんだ。それから、リハビリも込めて病院を少し歩き回っていたね。でも今はもう病室に戻ってると思うよ。」


 医師は丁寧に答えてくれた。


 「隼人の病室はどこですか?」


 「この病室のひとつ上の階だ。ちょうど真上の病室だよ。でも、今日はまだ会えないかな。今日はもう7時だし、明日また朝起きてからゆっくり歩いて会いにいってきな。」


 医師は、少年の隼人に会いたいという願望を先読みして、そこまで答えた。


 「はい……。分かりました。はい……。」


 少年は力なく答える。病室の枕元においてある小さなアナログ時計に目をやると、7時を10分ほど過ぎたところだった。


 それから少年は味の薄い夕食とった。食べ終わった後は風呂の代わりに体をタオルで拭き、寝支度を整え、再びベッドに入る。「明日、隼人に会いにいこう。」そう決めて、少年はまたベッドに背を預け、まぶたを下した。




 少年の意識が繋がった。でも、前回とは違う。朝目覚めてから、まぶたを上げる前までのほんの少しの間のような感覚は、「ような」感覚ではなかった。実際に、少年は朝に目覚めた。上体を起こして足の方を見ると、少し開いたカーテンの隙間から伸びる美しい黄色の直線が、棚の上の花瓶と花を二等分している。


 昨日、少年は海で溺れてから3日が経ってやっと目覚めた。今日はその次の日。今日は、昨日は会えなかった隼人に会いに行くつもりだ。


 少年は起き上がって、とりあえず洗顔とトイレに行く。お手洗いは病棟の真ん中の階段の横の手前にある。少年の病室の3部屋先だ。不思議なことに、昨日はどこかへ出かけていた筋肉が戻ってきたようで、ゆっくりではあるがしっかりとひとりで歩けた。普段なら15秒もあればたどり着けるような距離だが、今日はどうしても脚がうまく動かず、1分くらいかかった。少年は、改めて自分が3日間も寝こけていたことを実感する。


 それから、少年は味の薄い朝食を食べ、医師の診察を受けた。


 「うん。とても良くなっているよ。今朝もひとりで歩けたんでしょ?今日はリハビリついでに隼人君に会いにいってくるといい。でも、階段は気を付けてね。足元をちゃんと見て、ゆっくりね。」


 医師から隼人との面会と病院内徘徊の許可が出る。隼人の病室は少年の病室の真上の階にある。


 診察が終わると、少年はたちまち隼人の部屋へ出発する。フロアの真ん中にある階段に向かって歩く。今度は45秒くらいで歩けた。そこから、途中一回の折り返しがある上の階への階段を上る。少年はかつてないほどゆっくりの、カメにすらおいていかれる速度で階段を上ってゆく。


 結局、たった30数段の階段を上るのに、3分もかかった。少年が最後の階段を上り、その足を隼人の病室の階の床にドンと置く。気分は山の頂上にたどり着いた登山家だ。普段はなんてことない日常生活の行動の1つだが、今となっては冬場の体育の持久走くらいキツイく感じる。少年は呼吸を荒くして、膝に手をつき、床とにらめっこする。


 床に映る自分の影を見つめながら呼吸を整えていると、頭の方からスリッパの踵がパカパカと床を叩く音が聞こえてくる。この階も階段の横がトイレなので、トイレに来た患者の足音かもしれない。少年はなんとはなしに顔を上げ、その患者を視認する。


 「あ、お、は、隼人じゃん。おはよ。」


 そう、足音の主は隼人だった。でも、表情がなんかせわしない。(膀胱が)決壊寸前という顔をしている。


 「おお、お前も起きたんだってな!良かった良かった!俺もお前も生きててほんと良かったぜ。でも、ちょっと待っててくれよ。」


 隼人はそう早口で少年に告げると、急ぎ足でトイレへ駆け込む。


 「なんだよ……。隼人はトイレまでギリギリ人間だったか?」


 少年がツッコミを入れるが、言い終える前に隼人はトイレの中に姿を消してしまった。せっかくのツッコミを完全にスルーされた少年は、そのまま階段の一番上のところに腰を下ろして、隼人が用を足し終えるのを待つことにした。

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