俺のかたまり②
「すてるの?」
不意に背後から聞こえた幼い声に、俺は振り返る。
「へ?」
赤い蓋と青い蓋の、二つのゴミ箱が目に入った。
ヒトの姿はない。
なにしろ、深夜のリビング。実家なので同居する家族はいるが、とっくに寝静まっている。
「……気のせいか」
俺は独りごち、テーブルの上の箱から生えたティッシュを無造作にむしりとった。
指先で膨らむ血の玉を拭う。これくらいなら、絆創膏を貼るまでもないだろう。
「ねえ、すてるの」
「!?」
ぎょっとして、今度はスマホを見た。
テレビはつけてないから、ヒトの声が聞こえるならスマホしかない。
スマホの画面はスリープ状態になっていた。
二連続タップで解除すると、動画サービスの画面が開かれたままだった。
ただし、ストリーミング再生は開始五分のあたりで停止している。
しかもこれ、喋るタイプの動画じゃないんだよな。
シークバーを見る限り、広告のタイミングもまだ先だし。
「幻聴かな。あー……そうそう。もう二時まわってるし、実は俺さっきから超眠いんだよね~」
不安なときって独り言増えるよね。
「ねえ」
耳元で、さっきと同じ声がした。
俺の心臓が、ひと際大きな音を立てる。
「あんなにさしたのに」
「!」
「すてるんだ」
俺は、このタイミングになって、ようやく気付いた。
なにかいる。
ヒトじゃない。イヌでもネコでもない。
おそらく、俺が今までに遭遇したことのない……できれば一生遭遇したくない、超常的ななにかが。
すさまじいプレッシャーが肩に掛かる。
バトル漫画みたいなヤツじゃなくて、体中の臓器と精神が底冷えするような。
背中を冷や汗が流れる。
恐怖で動けずにいると、肩に鋭い痛みが
ちくり。
その一回だけなら、気のせいで片付けられた。それこそ、神経障害性疼痛とか。
ちく。ちく。ちく。
「ちょ……いたいっ」
刺すような痛みが連続する。
左の肩から、徐々に下がって肩甲骨、背中、そして腰――移動しながら何度も何度も。
しかも、痛みはだんだん強くなる。
チクチクって感じだったのが、サクサクに変わっている。
「いてっ、いてっ」
ヤバイ。
ヤバイ。
ヤバイ。
しつこい痛みが、冷や汗を脂汗に変える。
俺は大きく見開いた目だけを動かし、後ろを見た。
着古したスウェットのケツあたりに、白いものが落ちている。
俺はおそるおそる手を伸ばし、それを掴んだ。
もちろん触るのは怖い。でも、そこに放っておくのも気持ち悪いだろ。
ごわごわした安物のフェルトの感触が指に伝わる。
同時に、爪と肉のあいだを鋭い痛みが襲った。
反射的に放り出す。
ぼたっという鈍い音を立てて、ソレは床に転がった。
「これ……」
諦めて捨てたはずの、羊毛のかたまりだった。
折れたニードルが埋め込まれており、外に向かって先端が突き出している。
「なんで」
俺が折ったニードルは、危なくないようにガムテープでぐるぐる巻きにして、捨てたはずだ。
金属とフェルトじゃ分別が違うので、この失敗作とは別のゴミ箱に。
「あんなにさしたのに」
「ひえっ」
かたまりが喋った。
今度の声はっきりと、ソイツから聞こえた。
「あんなにさしたのに」
「あんなにさしたのに」
「あんなにさしたのに」
「あんなにさしたのに」
「あんなにさしたのに」
「あんなにさしたのに」
「あんなにさしたのに」
幼く可愛らしい声が、壊れたオモチャのように繰り返す。
ちょっと待って。マジでなんなの、コレ。
「ま……」
「あんなにさしたのに」
「ま、まままままままま、まっさかぁ!!」
こんな夜中に大声を出したら、家族が起きる。
お隣さんから苦情が来る。
なんて、配慮してる余裕はなかった。
遮るようにして、俺は叫んだ。
あまりに声が大きかったためか、かたまりが黙る。
あれ、チャンス?
「とんでもない。とんでもないです! 俺がアナタサマを捨てるなんて有り得ない!!」
「すてたよね」
うおお、返事した!
「ま、間違えたのでございます! ほ、ほら……」
俺は自分の血を拭ったティッシュをぐしゃっと丸めて、床に転がるかたまりの前に差し出した。
ヤツはまだのっぺらぼうなので、見えるかどうかは謎だったが。
「……」
「白くて丸いので、このティッシュめと間違えたのです!」
我ながら苦しい言い訳だ。
「……」
「あっ、あれえ? おかしいなー。なーんでさっき捨てたはずのゴミが、まだこんなところに? ヘンダナー。そんでもって俺の大事な……羊毛のかたまりがないゾ?」
「……」
「…………」
まずい、俺ひとりで喋ってる。
いや、羊毛フェルトは喋らないのが正解なんだけど。
今に限ってその常識は撤廃したい。
なにか言ってくれ。リアクションプリーズ。
デートで会話の弾まないカップルの片割れみたいな焦りを覚えつつ、俺はかたまりの脇をおそるおそる通り抜けて、赤い蓋のゴミ箱に駆け寄った。
「す、すべてはこの、ティッシュめのせいでございます! こんな、なんの役にも立たないゴミは……」
ウソです。ごめんなさい。
病めるときも健やかなるときも、俺は幾度となくティッシュ様に救われてきました。
ティッシュがなければ、俺はありとあらゆる穴から色々と垂れ流し、とっくに社会的な死を迎えていたと思います。
だから今も助けて。
「ほら、こうして捨」
愛想笑いを浮かべながらゴミ箱の蓋を開けて、俺の言葉はそこで途切れた。
「な、なんだ、これ」
穴ボコだった。
内側にセットした自治体指定の青いゴミ袋。
鼻をかんだティッシュ、お菓子の空き箱、使用済みマスク。
ゴミ箱の中にあるすべてのものに、無数の穴が開けられている。
鋭利なもので突き刺されたような跡だ。
たとえば……羊毛フェルトをつつくニードルとか?
「すてないの」
「うおっ」
黙っていたと思ったら、急に喋った。
心なしか、初めよりも声が低くなっているような気がする。
すごみを感じるというか……威圧感が半端ナイ。
「すてないの」
「捨てます、捨てますとも! あ、これはアナタのことではなくてですね!?」
俺は恐怖で引きつる顔面に媚びた笑みを貼りつけ、ゴミ箱の中に丸めたティッシュをぶち込んだ。
乱暴に蓋を閉めることで俺のティッシュへの憎悪をアピールしつつ、かたまりの反応をうかがう。
「つづき」
「は?」
なんのことだろう、と俺は首を傾げた。
かたまりが繰り返した。
「つづき」
イントネーションとしては、“続き”のことで間違いなさそうだ。
俺は肩をすくめ、頭の高度を下げた。顔の角度はやや斜め。
社会人には必須のごますりスタイルだ。
なお、外国ではapple polish(リンゴを磨く)というらしい。
「えと、あの、続きとは?」
失礼のないように。慎重に。
刺激しないように。怒らせないように。
要はめちゃくちゃへコヘコしながら、俺はたずねた。
「ちくちくして」
「は……っ」
言葉の意味が分かった途端、俺は土下座する勢いで床に這いつくばった。
両手ですくい上げるようにして、かたまりを拾い上げる。
「は、ハイ。ただいま!!」
<③へ続く>
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